・・・やっぱり気になる「茨木城址」へ。
◆茨木城址(茨木小学校)
567-0819茨木市片桐町8-40/072-624-3132
建武年間、楠正成によって築かれたともいわれています。築城後、周辺地域は城下町として次第に整備されたようで、やがて「茨木」の名の由来ともなった茨木氏が台頭。細川晴元政権下の室町幕府きっての実力者ともなりますが、茨木氏が強大な権力を握るようになった背景に、都と上方とを結ぶ交通の要衝として繁栄した茨木城の存在があることは、容易に推察できるでしょう。茨木氏の没落後は中川清秀や片桐且元といった武将たちが入城しますが、慶長20年(1615)、徳川幕府の発布した一国一城令にともない、廃城となりました。茨木城の遺構としてまず挙げられるのが、市の中心部に位置する茨木神社の東門。これは茨木城の搦手門を移築したものですが、装飾性を排した豪壮なたたずまいが境内に点在する神社建築とは一線を画しており、広大な城域を持っていたとされる茨木城の隆盛をしのぶことができます。茨木城の遺構は、ほかにも確認されています。茨木城の廃城後、奈良県大和郡山市の慈光院に移設された櫓門を原寸大で復元したもの。現在は茨木市立茨木小学校の正門として使われています。中世の城門が小学校の正門として再利用されている例は珍しく、ここ、茨木小学校の敷地付近に、茨木城の本丸部分があったと推定されています。校内には昭和3年に建てられた「片桐氏茨木在城碑」もあります。
・・・これまでに何度か訪問した奈良「慈光院」と、このような形で再会するとは不思議な縁です。
★慈光院
639-1042奈良県大和郡山市小泉町865/0743-53-3004
臨済宗大徳寺派の寺院である。山号は円通山。本尊は釈迦如来。寛文3年(1663年)に石州流茶道の祖・片桐石見守貞昌(石州)が父・貞隆の菩提寺として大徳寺185世・玉舟和尚(大徹明應禅師)を開山に迎え建立。慈光院の名は父・貞隆の法名「慈光院殿雪庭宗立居士」から採られた。茨木門は、徳川家康の発した一国一城令により取り壊された片桐石州の出生地でもある摂津茨木城の楼門をもらい受けたもので、屋根を書院と合わせて茅葺きに葺き替えて慈光院の山門とされた。
◆梅林寺
567-0819茨木市片桐町1-3/072-622-6433
梅林寺の創建は詳しくわかりませんが、平安時代の中頃(980年~1075年)、源頼良の祈願所として、現在の府立茨木高校の辺りに建てられ、安養寺と号され真言宗でありました。大永元年(1521年)第1世眠誉上人が中興し、浄土宗に改宗し、梅林寺を開山したといわれています。その後水害にあい、茨木神社の北側に移転しました。茨木城主中川清秀と親しかった第4世是頓上人は、天正11年(1583年)清秀が戦死したという報を聞くと、自ら戦地(賤ヶ岳)に赴いて遺骸と遺髪を持ち帰り供養しました。また豊臣秀吉が清秀に宛てた直筆の手紙が「秀吉書簡」と呼ばれ、大切に保存されています。本堂の裏には茨木城主だった中川清秀の墓があります。
◆茨木神社
567-0882茨木市元町4番3号/072-622-2346
茨木神社東門が茨木城の「搦め手(からめて)門」を移築されたものとされています。
当神社の創祀は、当社由緒書きによると「大同二年(807年)坂上田村麻呂が荊切の里をつくりしとき、天石門別神社が鎮座された」と伝え、明治十二年発刊の「茨木村誌」や大正十一年に纏められた「大阪府全志」にも「大同二年二月坂上田村麻呂茨木町ヲ作ル是日本町ノ始ト十三朝集ニ有」と記されています。そしてこの「荊切の里」は、今日の宮元町付近と伝えられています。この処に人々が住み、天石門別神社を創祀した経緯や情況、坂上田村麻呂との関係等については、何ら資料がなく明らかではありません。しかし、大同二年から逆上ること三年前、 延暦二十三年(804年)に坂上田村麻呂公は、和泉・摂津両国に天皇巡幸時の仮宮殿・行宮設定のために派遣され両国の各所を巡視されています。また、延暦年間は、東北征討を通して東北から摂津・和泉へ、関東各地から東北へ人が移動定住した時代でもありました。そして延暦二十四年(805年)は、長岡京・平安京の二度の造都事業と度重なる東北 征討軍事によって農民が疲弊しているとして民政安定へ朝廷の方針が変更決定された年でもあり、このような時代の背景が起因しているのではないかと考えられます。
・・・なんと茨木市は「坂上田村麻呂」と関係があるなんて、これも「平野郷」と不思議につながります。