すくらんぶるアートヴィレッジ

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《大阪大学総合学術博物館》 

560-0043豊中市待兼山町1-20/06-6850-6284 

https://www.museum.osaka-u.ac.jp/

大阪大学は、その精神的源流である大坂町人の学問所の懐徳堂と適塾から多くの文化財を継承するとともに、1931年の創立以来の教育研究の成果として多数の学術標本を収集保存してきました。しかしこれらの貴重な標本を研究室や部局の枠を超えて統一的に保存・活用する組織がなく、学内の各所に分散して所蔵されている標本のもつ情報を一元的に管理し、学内の教職員や学生はもとより、学外の方々にも容易にその情報を利用できるシステムを整備することが急務となっていました。一方、1995年度に学術審議会学術情報資料分科会によって「ユニバーシティ・ミュージアムの設置について」が報告され、全国の大学で博物館の開設が進められることになりました。そこで、大阪大学でも博物館設立準備委員会が設置され、2002年4月に大阪大学総合学術博物館が全国で第8番目の国立大学総合博物館(省令施設)として発足しました。2002年10月には、「いま阪大で何が?-人間・地球・物質」のテーマで設立記念展を大阪歴史博物館・NHK大阪放送会館アトリウムにて行いました。それ以降、学内組織はもちろんのこと、大阪歴史博物館、NHK大阪放送局、豊中市教育委員会、千里ライフサイエンスセンター等、さまざまな学外組織と連携を行いつつ、企画展・特別展等をはじめ、さまざまなイベントを開催しています。2004年4月には、イ号館(2011年4月に全面改装し、大阪大学会館と改称)1階に「マチカネワニとキャンパスの博物誌」をテーマにした展示場を開設しました。2005年8月には、旧制高校の教材標本等を★待兼山修学館(旧医療技術短期大学部本館)に移設し、史料準備館として一般公開を行いました。待兼山修学館は、建物ごと全面改装し、2007年8月より3階建て+屋上ルーフテラスの待兼山修学館展示場として一般公開しています。待兼山修学館展示場は、1階にミュージアムカフェも併設し、教職員だけでなく広く地域の憩いの場としても活用され、今日に至っています。2012年には、待兼山修学館展示場に隣接する高機能収蔵庫が竣工し、適塾資料など貴重な学術標本を万全の体制にて保存できる設備が整いつつあります。

 

 

【待兼山修学館】 

https://www.museum.osaka-u.ac.jp/feature/shugakukan/

この建物は、1931年に大阪大学医学部の前身である、大阪医科大学の附属病院石橋分院として建てられ、近年は、医療技術短期大学部本館として使われていました。豊中キャンパスでは大阪大学会館に次いで2番目に古い建物です。2008年に国★登録有形文化財になり、待兼山修学館としてリニューアルオープンしました。修学館の後には標高77.3mの★待兼山があります。ここは古代から人がくらしており、いくつもの古墳が発掘されています。景勝地としても古くから有名で、「枕草子」にも記されています。展示室はもちろんのこと、ぜひとも屋上からの景色もお楽しみください。

 

 

●第17回企画展《野中古墳と「倭の五王 」の時代》 

2014年2月1日(土) ~ 2014年3月22日(土) 

https://www.museum.osaka-u.ac.jp/2014-02-01-2182/

1964年に大阪大学文学部により発掘調査された大阪府藤井寺市の野中古墳は、国の「世界遺産暫定リスト」にも記載された古市古墳群のなかでも、出土資料が質・量ともにもっとも充実した古墳です。とくに、11領が出土した鉄製甲冑は、規格的な鋲留短甲と眉庇付胄に加え、希少な襟付短甲と金銅装三尾鉄付きの革製衝角付胄からなる最古唯一の組合せ3領を含み、日本列島の中期古墳を代表する標識的な資料として広く知られています。このたび、同墳から出土した甲冑類について、文化庁の補助金※などにより新たに保存修復作業を行うことができたことから、これらの修復の成果を一堂に会して初披露いたします。またあわせて、大阪大学が調査を行ってきた河内周辺での遺跡調査の成果なども出品し、古墳時代研究の進展と「百舌鳥・古市古墳群」の★世界遺産登録に向けての一助にしたいと思います。

 

 

●第11回特別展 

四大文明の源流を求めて、探究の旅、描きとめる熱情「洋画家★中村貞夫」 

平成30年4月27日(金)~6月30日(土) 

https://www.museum.osaka-u.ac.jp/2018-03-30-12108/

 

【中村貞夫】(1934~) 

http://www.osaka-u.ac.jp/ja/news/storyz/ou_ogob/201303_nakamura_sadao

府立大手前高校在学中に新制作展に初入選し、大阪大学文学部仏文科に進んでからも小磯良平、伊藤継郎に師事。昭和44(1969)年に新制作協会会員に推挙され、翌年に安井賞展に出品。初期の抽象的傾向を見せる作品から中期の《燔祭》など絵具の材質感を意識した重厚な画風を経て、昭和60(1985)年からは《富士》の四季を描いた連作を発表し、大地のような物質感とミルクのように白く耀く大画面に雄大な風景を描く画風を確立しました。四大文明誕生の地に滔々と流れる河川の源流を旅し、“水”の流れを描こうと志したのが60歳の時。最初はナイル川の源流から河口へ、続いてパキスタンを拠点にインダスシリーズに取り組み、70歳を越えて黄河と対峙した成果は、平成24(2012)年、北京の中国国家博物館での日中国交正常化40周年記念事業「黄河ー中村貞夫展」などでも公開されました。最後のメソポタミアは政情不安な中、ノアの方舟伝説が残るアララト山に到達しています。 

http://www.shinseisaku.net/wp/archives/3394

 

・・・中村さんのアトリエは、★羽曳野市にあります。★「畑田家」納屋を改装して、精力的に大作を描いておられるということです。ぜひ、この展覧会には行きたいものです。

 

 

【畑田耕一】(理学博士) 

1957年大阪大学理学部化学科卒。大日本セルロイド株式会社研究員を経て、1983年大阪大学基礎工学部教授。1994年基礎工学部長、1997年副学長、1998年大阪大学名誉教授。その後、福井工業大学教授、放送大学客員教授。1996年より豊中ロータリークラブ会員として、会長、国際ロータリー第2660地区職業奉仕委員長、地区研修委員などを務める。2005年より2015年まで大阪府登録文化財所有者の会会長、2015年大阪府登録文化財所有者の会名誉会長。

 

 

【畑田美智子】(ガラス工芸家) 

http://www.culture-h.jp/glass/index.html

https://www.osaka-cu.net/member/2017/02/14175241

http://www.nihonbijutsu-club.com/hatada/#top

 

・・・羽曳野の誇りです。古墳や建物など遺跡史跡も大切だけれど、結局ところ「ひと」が重要なんだとつくづく思います。


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・・・芸術の春?「群展」や「主題派」メンバーの展覧会が立て続けに開催され、また教え子が出品する公募展もあり、さらに第122回「主題派美術」会員展への出品もあります。

 

 

《第3回「大山博子」個展》 

4月26日(木)~5月1日(火)於:ギャラリー香

http://www.midosuji.co.jp/

 

 

《第1回「堀中太一」個展》 

5月1日(火)~6日(日)於:茶臼山画廊 

http://www.art-express.co.jp/guide-net/osaka/chausuyama/

 

 

《堺勤労者美術協会「選抜展」》 

5月1日(火)~10日(木)於:ギャラリー住吉橋 

http://sumiyoshi-gallery.com/

 

 

《第71回「関西新制作展」》 

5月3日(木)~11日(金)於:兵庫県立美術館王子分館 原田の森ギャラリー 

http://hyogo-arts.or.jp/harada/company.html

 

 

《日本現代美術協会「堺グループ展」》 

5月9日(水)~13日(日)於:堺市立文化館ギャラリー 

http://www.sakai-bunshin.com/shisetsu_kihon_bunka.jsp

 

 

《第122回「主題派美術」会員展》 

5月10日(木)~15日(火)於:ギャラリー香 

http://www.midosuji.co.jp/

 

・・・「芸術」とは、まず「健康」であり、そして「体力」だ。


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・・・「鳳翔館」の近くにあるブティック、 

 

《INVECTIVE》 

堺市堺区 綾之町西1-1-1/072-228-5334 

http://sakainoma.jp/spot/invective/

https://www.facebook.com/INVECTIVEclothing/

https://ameblo.jp/invective-clothing

 

 

2013年、大阪・堺を拠点に生まれたファッションブランドINVECTIVE。堺生まれのブランドとして、シンボルマークは堺を象徴する一つである古墳(前方後円墳)をベースにしている。商品展開は、シンボルマークを使ったアイテムの他、日本・世界の歴史、音楽、アートからインスピレーションを受け、流行に流されないデザインを展開している。★古墳をシンボルマークにしていると言っても、普段よく見る鍵穴のような古墳のシルエットとは上下が逆さま。その理由には、「前方後円墳」という名称を正しく見るとそうなるのではということと、もう一つ理由が。ヒントは★「マナの壷」。このブランドの世界感が垣間みれると同時に、きっと新しい視点も得られるはず。ちなみに「INVECTIVE(インベクティブ)」とは「毒舌」という意味。そのネーミングからもわかるように、彼らが展開するプロダクトやセレクトもよい意味でシニカルでエッジの効いたものが多い。少し違った視点でファッションも堺も楽しむことのできるショップ。堺に来たお土産とともに、お土産話としてもどうぞ。

 

 

《参考》「マナの壷」 

イスラエルにも三種の神器がある。「出エジプト記」には、イスラエル人(ユダヤ人)がエジプトから脱出する時の話が書かれています。神との約束の地「カナン」に辿りつくまで、イスラエル人たちはシナイ半島を40年間さまようわけですが、イスラエルの三種の神器は、その間にモーセが作らせたものです。まず、モーセの兄にアロンという人物がいましたが、このアロンが持っていた「杖」が三種の神器の一つです。「出エジプト記」には、「アロンの杖」がエジプトで、いくつもの災いを起こす様子が描かれています。例えば、蛇に姿を変えたり、水を血に変えたり、疫病を流行らせたり、雹を降らせたりなど・・・これは、モーセ率いるユダヤ人と対立したエジプト王に対する反抗で、モーセと兄アロンがエジプト王とエジプトの国力を弱体化さるために行ったことです。この「出エジプト記」で最も有名なのが、ユダヤ人がエジプトを脱出する時に、モーセが「アロンの杖」を持って、神に祈ると、海が真っ二つに割れ、道ができ、そこをユダヤ人たちが渡って脱出するという話です。しかも、それを追ってきたエジプト軍を海に飲み込んだのです。その過程でアロンの杖にはアーモンドのツルが巻きつきますが、日本の三種の神器の一つ「草薙の剣」にも草のツルが巻きつきます。「杖」と「剣」の違いはあるものの、ツルが巻きつくという意味では両者は非常によく似ています。 

モーセは「マナ」というウエハースに似た食べ物を記念に残そうと、黄金の壺を作らせましたが、その壺の名前が「マナの壺」です。このマナの壺のシルエットを逆さにすると、天皇陵である「前方後円墳」に似ているということで、いろいろな説が考えられています。 

 

・・・そろそろ「古市古墳群」の方も調べてみましょう。

 

 

《「広報ふじいでら」》第329号1996年10月号より 

http://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/kodaikaranomesseji/index.html

日本列島に鉄器が現れるのは、よく知られるように弥生時代になってからです。それから古墳時代前期にかけて特徴的な鉄製品に「板状鉄斧」あるいは「短冊形鉄斧」と呼ばれる道具があります。朝鮮半島で鉄素材として作られたものを輸入してそのまま樹木の伐採などに使用していたのでしょう。ところが朝鮮半島では、釜山の福泉洞(ポクチョンドン)古墳群などで明らかになったように、4世紀の中ごろに★「鉄てい」という両端が幅広になった長方形の鉄板が出現します。この鉄ていはいろいろな鉄製品を作る素材で、4世紀末には日本にも輸入されています。徳島大学の東潮さんは、日本にもたらされた鉄ていの多くは、朝鮮半島南部で作られたと推定されています。5世紀になると古墳の副葬品にも鍛冶の道具が現れ、以降、鉄鍛冶生産が発展することが知られています。ときを前後して、須恵器の生産が開始されます。これらのいわば★産業革命の背後には、朝鮮半島からの技術者集団の渡来があったことは間違いないところでしょう。5世紀後半に築造された史跡野中古墳からは、加羅系の陶質土器、鉄てい、それから高度な鍛冶技術を要する甲冑などが出土しています。これらは、日本における鉄生産と流入経路の実態をうかがう重要な資料となっています。最近、韓国の池山洞(チサンドン)32号墳から日本製と考えられる鉄製よろい(横矧板鋲留式短甲)が出土して注目されています。5世紀後半には、日本の鉄製品を逆輸入するほどに鍛冶技術が向上したことを知ることができるのです。朝鮮半島の忠清北道の石張里(ソクチャンニ)では、精錬炉、溶解炉、鍛冶炉を備えたいわば製鉄コンビナートのような遺跡が見つかっています。これらの炉は4世紀には稼働していたと推定されています。一方、日本ではどうでしょう。今のところ6世紀後半をさかのぼる製鉄一貫工場の遺跡は見つかっていません。日本における製鉄の歴史は、弥生時代にまでさかのぼるという説もありますが、現在の具体的な資料からは、古墳時代も終わりに近づいたころにようやく本格化したとなるのですが、確定したとはまだまだいえないのです。

 

 

《呪術から軍事へ》大阪大学考古学研究室HPより 

http://kofun-ina-r.extrem.ne.jp/

4世紀になると、中国では政治的な混乱が起き、中国との交渉の窓口であった朝鮮半島北方もその混乱に巻き込まれていきます。中国王朝との関係をうしなった日本列島の有力者は、朝鮮半島の南の方にいた勢力との関係を重視し始めます。そして5世紀には、朝鮮半島から安定的に鉄を入手し、かつてないほど大量の武器・武具を生産し始めました。これが「古墳時代中期」と呼ばれる時期で、あわせて、それまで大型古墳が密集していた奈良盆地ではなく、大阪平野に★巨大な前方後円墳が築かれるようになります。大阪府★百舌鳥・古市古墳群からは、膨大な量の鉄製武器・武具や、鉄鋌(鉄素材を一定の大きさ・重さにそろえたもの)などが発見されています。かつて大阪大学が調査した大阪府★野中古墳からは、10領以上の甲冑や、150本以上の刀剣、700本以上の鏃が出土しており、当時の副葬品のありかたがよくわかります。

 

 

《野中古墳》 

http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/nonaka/about/index.html

藤井寺市野中3丁目に所在する野中古墳は、2010年に世界遺産暫定リストに記載された百舌鳥・古市古墳群のうち、古市古墳群のほぼ中央に位置する5世紀の古墳です。この古墳は墳丘長225メートルを誇る墓山古墳に近接して築造された一辺37メートルの小さな方墳です。住宅街の中にあり、「うらやぶ」と呼ばれていた野中古墳は、実は発掘調査がなされるまでは、はたして古墳かどうかさえ、よくわかっていませんでした。しかし、1964年、大阪大学文学部国史研究室によって実施された発掘調査によって、この小さな古墳には、当時の政治社会や対外交流を知るうえで、貴重な手がかりを有することが判明しました。その成果は、『河内野中古墳の研究』(大阪大学文学部国史研究室、1976年刊行)にまとめられています。 

 

《教育広報「萌芽」》第14号 平成9年2月号より 

http://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/shiteibunkazai/kunifusiteibunkazai/1387761324664.html

1964年、大阪大学によって発掘調査が行われることになりました。当時の野中古墳について、調査を主導された北野耕平先生は、「はたして古墳であるかどうかの判断を下しかねるほど、著るしく荒廃した感を抱かせ、とくに南側の盛土が大きく削りとられて、墳丘としても主要な部分の大半を失っているような印象を与えるものがあった」と報告書に書かれています。ところが、通称「うらやぶ」と呼ばれていた小さな古墳は、この調査によって一躍人々の注目を集めることになるのです。調査では、甲や冑、刀や剣、鉄の矢じりといった武器類、鉄ていと呼ぶ鉄の地金、鍬や鋤などの農具類、錐やヤリガンナなどの工具類といった多様な鉄製品が出土しました。また、朝鮮半島南部にあった伽耶という地域の土器もまとまって出土しました。円筒埴輪列や墳丘斜面に石を葺いた葺石も確認されています。これらの中で、とくに★鉄製の武器・武具類の圧倒的な多さが目を引きました。これは、一体どのような理由によるのでしょうか。北野先生は、野中古墳が大形の前方後円墳である墓山古墳の陪塚的位置にあることに注目されました。そして、野中古墳に葬られた人物は、生前、墓山古墳の被葬者に仕え、軍事的な仕事をつかさどっていたと推定されました。つまり、そのような人物が社会的地位を承認されることにより、野中古墳のような古墳に葬られることが可能になったと考えられたのです。1990年の藤井寺市教育委員会の調査では、濠の外側斜面から多量の滑石製模造品が見つかり、新たな知見を加えることになりました。発掘調査の喧騒から解放された野中古墳は、再び、往古の静寂を取り戻したかのように見えます。

 

・・・すごい量の武器・武具です。いざという時には、掘り出して使うつもりだった?かもしれませんね。


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《井上家住宅主屋(堺鉄砲鍛冶屋敷)》 

590-0928堺市堺区北旅籠町西1丁3-22 

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/kenzobutu/inoueke.html

通称「鉄砲鍛冶屋敷」の名で知られている、江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶・井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、★「元禄二年堺大絵図」(1689年)にも同地で記載されています。建物は江戸時代前期まで遡り、わが国の町家建築としても最古の部類に属するものであるとともに、堺を支えた鉄砲の生産現場が残されている建物としても貴重です。現在も居宅として使用されていますので、外観からの見学のみお願いします。

 

 

《参考》元禄堺大絵図、日本図の展示が復活(堺市博物館)2018.1.14 

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/arecore/nihonzu.html

展示場の模様替えのために無くなっていた元禄堺大絵図、日本図が展示場所を変えて復活しました。今回は須藤館長やこの展示復活を強く希望されていた博物館ボランティアさんにも展示パネルの作成に参加いただきました。元禄2年(1689)につくられた堺のまちを描いたもっとも大きい地図です。まちの周囲を濠がめぐり、内側には現在も残っているまちの名前がみられます。 

 

《参考》「つ-るど堺」 

http://toursakai.jp/zakki/2017/02/28_2283.html

http://toursakai.jp/zakki/2017/03/03_2284.html

http://toursakai.jp/zakki/2017/03/07_2285.html

 

 

《NEWS》2018.3.18毎日新聞より 

堺市に寄付、井上さんに感謝状/江戸初期建築、改修し常時公開へ/大阪 

江戸時代初期に建てられた鉄砲の生産現場として全国で唯一残る堺市の鉄砲鍛冶(かじ)屋敷、井上関右衛門家住宅(堺区北旅籠町西1丁)の主屋と座敷棟や鉄砲23丁を、所有者の井上修一さん(74)が市に寄付し、15日、竹山修身市長が感謝状を贈った。市は残りの建物や土地を購入し、★2023年度までに常時公開できるよう改修する予定。屋敷は市指定有形文化財。市によると、井上家は寛文年間(1661~73)ごろに堺に住み着き、鉄砲製造の技術力と伊予・大洲藩との結びつきを生かして発展した。市と関西大の調査では屋敷から約1万1700点の古文書が見つかり、全国の旗本や大名、猟師らから1752(宝暦2)~1871(明治4)年に受けた注文件数が年最大で約330丁あったことが判明した。それまで江戸後期は斜陽とみられていた堺の鉄砲産業が盛んだったことが初めて明らかになった。感謝状を受け取りに弟の俊二さん(71)らと市役所を訪れた井上さんは「歴史の一端を担っていることに重荷と誇りを感じる。バトンタッチするので、よろしくお願いします」と話した。竹山市長は「これからも守り伝えていかないとあかんものだと思う。市民全体の財産として継承していきたい」と話した。 

 

・・・公開されるまで、あと5年近く待たなければなりませんが、 

 

 

《堺鉄砲館》 

590-0928堺市堺区北旅籠町西1-2-7/072-233-6601 

https://www.sakai-tcb.or.jp/spot/detail/378 

町家を利用した内部は鉄砲を鍛造した炉を再現、実戦に使う足軽筒から侍筒、彫金が見事な大名筒、鴨居には陣羽織や陣笠が展示され、鍛冶屋と陣屋が一見できます。火縄銃の使い方までの説明など、堺鉄砲の歴史に触れることができます。(土・日・祝日のみ開館)江戸期の鉄砲鍛冶屋敷(内部非公開)など戦前の街並みが残る北旅籠町界隈に、地元の有志たちが築約100年の町家を利用して平成21年オープンしたもので、堺鉄砲の歴史に触れることができます。建物内部は鉄砲を鍛造した炉が再現され、造りかけの銃身や時代物の道具類が置かれています。大床の鉄砲掛けには実戦に使う足軽筒から侍筒、彫金が見事な大名筒まで並び、鴨居に目を移せば陣羽織や陣笠がずらり、鍛冶屋と陣屋が一見できる古い屋敷です。土・日曜日、祝日のみの開館。火縄銃の使い方など詳しい説明を受けることができます。急変する戦国に堺鉄砲がどのような影響を与えたのか、既成概念に毅然と立ち向かった武将は誰なのか、そのスキルと鉄砲の威力は・・・・・、館長のミニカルチュアも聴くことができます。また、希望すれば鎧兜と陣羽織を着用できる「武将変身体験」(有料100円)を楽むこともできます。

 

・・・本当に丁寧に熱心に解説してくださり、時間を忘れてしまいます。「鳳翔館」にも行ってみましょう。

 

 

《鳳翔館》 

590-0926堺市堺区綾ノ町西1-2-17/072-205-5909 

https://ameblo.jp/maeda-sakaip/

https://www.facebook.com/profile.php?id=100013146345478&pnref=lhc.friends

阪堺線「綾ノ町」電停の西側すぐにある私設の休憩所です。古い町屋を改造した室内は堺の歴史と文化の展示室であり、観光客と近隣住民の交流の場になっています。与謝野晶子ファンのご店主が一目惚れして手に入れ、晶子の旧姓「鳳(ほう)」を取り、その名を『鳳翔館』として2007年11月にオープン。臙脂色の大きな暖簾をくぐれば、古きよき時代を彷彿とさせる調度品が、品良く並べられた空間が広がります。2階には、同館オープンのきっかけとなった与謝野晶子直筆の短冊をはじめ、様々なゆかりの品があります。また、作りが似ていたこともあって、館全体が与謝野晶子の実家をイメージしているそうです。その他、千利休の茶室をイメージした座敷や、夜着(やぎ=掛け布団と上着の中間的なもの)の復元品もありす。1階は机と椅子のある土間、書斎、かまどのある台所、古地図、火縄銃などがあり、傘立てには当時の傘が収められていました。また、堺に関する本を中心とした蔵書は自由に読むことができます。当初「鳳翔館」に展示されていた火縄銃は、2009年5/2オープンの2号館★『堺鉄砲館』に移設、これまで以上にそろえた旧式の銃や武士が着た鎧兜( よろいかぶと ) などが展示されています。

 

・・・堺を愛するボランティアの方々の具体的な取り組みが、形となって私たちを楽しませてくださっていることに、敬意と感謝を申し上げます。


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・・・鉄器生産が行われていた「五斗長垣内遺跡」や「舟木遺跡」は淡路島でしたが、 

 

《栗東歴史民俗博物館》 

520-3016滋賀県栗東市小野223-8/077-554-2733 

http://www.city.ritto.lg.jp/hakubutsukan/

◆特集展示「技術者の系譜~古代近江の金属生産~」
平成25年11月2日(土)~平成25年12月8日(日) 

近江国は古墳時代から製鉄を行っていたことで知られます。栗東でも鉄の保有を背景に集落が発展します。さらに律令期になると湖南の各地で製鉄遺跡が展開し、官衙や寺院の発展を支えます。今回の展示ではこうした近江と鉄とのかかわりをさぐります。 

・平成25年11月24日(日)見学会「瀬田丘陵の製鉄遺跡をあるく」 

・平成25年12月8日(日)調査研究報告会「古代近江の鉄生産~栗太郡における製鉄技術の背景~」 

 

 

《近江の古代製鉄》 

http://ohmikairou.org/col15.html

古くから「近江を制するものは天下を制する。」と言われ、権力者の争奪の的となった近江は、地政学上の好条件を備えた国であるばかりでなく、古代における★近畿地方最大の鉄生産国でもありました。 

 

《NEWS》古代の都支えた湖畔の製鉄2013.3.12日経電子版より 

大津市郊外、緑豊かなびわこ文化公園の片隅にそそり立つ楕円形の塔の群れ。一見オブジェのようだが、ここ★源内峠遺跡で見つかった7世紀後半の製鉄炉を復元したものだ。一帯には7~8世紀の製鉄や製瓦陶に関わる遺跡が集中し、瀬田丘陵生産遺跡群として国史跡に指定されている。この時期は飛鳥京や藤原京、平城京をはじめ恭仁京、紫香楽宮、大津宮など宮都が各地に相次いで造営された。北に東国へ続く東山道が走り、西には木津川経由で大和へ通じる瀬田川が流れる同丘陵は、地の利を生かして宮都造営の現場に必要な鉄や瓦などの物資を供給する古代のコンビナートだった。源内峠遺跡もその一つ。15年前の発掘で製鉄炉跡が4基見つかった。いずれも粘土を積んで築かれ、いずれも長さ2.5メートル前後、幅30センチ前後、高さは推定で1メートル余り。近江で製鉄が始まった初期段階の遺跡と考えられている。原料となった鉄鉱石(磁鉄鉱)も出土。「伝統的なたたら製鉄は通常、砂鉄が原料ですが、古代近江の製鉄は鉄鉱石を用いるのが特徴です。近江に鉱山があったのでしょう」。調査を担当した滋賀県立安土城考古博物館の大道和人さんが説明してくれた。当時の採掘跡こそ見つかっていないが、続日本紀などに「近江の鉄穴」に関する記述が登場するという。この炉に砕いた鉄鉱石と木炭を投入して点火し、側面に並ぶ小穴からふいごで空気を送り込んで温度を1200~1400度まで高める。不純物(鉄滓=てつさい)を炉外に排出し、最後に炉壁を取り壊して、底にたまったケラ(鉄素材)を取り出したと考えられている。同遺跡では25~50年の間、継続的に製鉄を行った形跡があった。大道さんは「発掘では鉄滓が約15トンも見つかりました。炉は他にもあったとみられ、鉄滓は全体で50~100トンはあるのでは。当時、国内最大級の製鉄所だったのでしょう」と話す。

 

 

源内峠遺跡から約2.5キロ北東の立命館大学びわこ・くさつキャンパスには木瓜原(ぼけわら)遺跡がある。製鉄や鍛冶、梵鐘(ぼんしょう)の鋳造、土器の生産などの多様な工房が集積し、8世紀前半を中心に操業していたことが20年前の発掘で判明。同大学の施設内のロビーには梵鐘を鋳込んだ跡の遺構をはじめ、様々な出土品が展示されている。運動場には地下室が設けられ、製鉄炉の遺構を発見時の状態で保存している。炉の構造は源内峠遺跡のものと基本的に同じ。取り壊され廃棄された炉壁の破片が、地表に顔を見せている。学校や地域などのグループ単位で同大学BKCキャンパス事務課((電)077・561・2617)に申し込めば見学できる。 日本に鉄器が普及した弥生時代は、鉄素材を朝鮮半島などから持ち込んでいた。国内で製鉄が本格的に始まったのは古墳時代後期との見方が強く、6世紀ごろの製鉄炉跡が中国地方を中心に各地で見つかっている。近江の製鉄技術は渡来人がもたらしたと考えられているが、朝鮮半島に先立つ事例はなく、その由来については様々な見方がある。源内峠遺跡の炉をみると、最も古い炉は石の多い地面に粘土を張って基底部としているが、次の時期になると底にこぶし大の石を充てんしている。さらに次の段階の炉は木炭を敷いてあった。大道さんは「炉の温度を下げないよう、断熱性を高め地面の水気を遮断するために試行錯誤を続けています。完成した形で持ち込まれた技術ではなく、近江などで鍛冶炉の技術をもとに編み出されたのでは」とにらむ。「製鉄は当時の朝鮮半島や中国大陸でも先端技術。機密扱いで、外に漏れることはなかったのでしょう」。炉の復元は地元住民ら約30人で組織する「源内峠遺跡復元委員会」によるものだ。歴史遺産を生かしたまちづくりを目指して7年前に結成。当時の炉の築造方法を探るため、1年以上を掛けて粘土積みで1基を復元した。「乾燥レンガを積んだり、粘土にわら(スサ)を混ぜて強度を増したり、何度も失敗してはやり直しました。先人たちも同じように試行錯誤したのでしょうね」と代表の松田文男さんは話す。昨年にはコンクリートで3基を復元した。展示用で、時期による基底部の違いなど、炉の構造が一目で分かるよう工夫した。最近は周辺の歴史マップ作成やウオークイベントといった活動にも力を入れている。「だんだん参加者が増え、自分たちが実は地元の歴史をよく知らなかったことに気付いて、ますます関心を持ってくれます」。これまでの取り組みが無駄ではなかったと、松田さんらは感じている。

 

 

《立命館大学「木瓜原遺跡」》 

http://www.ritsumei.ac.jp/rs/category/tokushu/150219/

立命館大学が滋賀県草津にキャンパス用地を造成しようとした時、発見されたのが「木瓜原遺跡」。遺跡周辺がボケの原生林だったことからこの名がついた。学術的にも貴重な製鉄遺跡で、現在は一部がグランドの地下に保存されている。「鉄は国家なり」と言われる。古代においても然り、鉄を掌握することは権力を掌握することでもあった。その鉄の一大生産地が近江。日本で鉄が生産されるのは、6世紀頃。それ以前は、朝鮮半島の伽耶地域から手に入れていたようだ。当然、地理的に近い九州地域は鉄を手に入れやすい。逆に鉄を生産していない大和が、鉄を確保するために強力な政治権力が必要としたのは皮肉なことである。多くの渡来人が住み着いた近江では、朝鮮半島からやってきた工人たちが鉄生産を開始したと考えられる。木瓜原遺跡の近くにも、源内峠遺跡(大津市瀬田)、野路小野山遺跡(草津市野路町)などの大規模な遺跡があり、立命館大から滋賀医大、図書館、美術館、龍谷大と続く瀬田丘陵は古代の一大製鉄コンビナートだったのだ。通常は燃料となる薪を求めて、製鉄炉は移転するのだが、この付近は原生林が豊富で、他の場所に移ることなく鉄が生産されたようだ。これら湖南地方の製鉄は7世紀のもので、近江朝の時代と一致するのは興味深い。湖西地方のものは8世紀奈良時代、9世紀に入ると近江の製鉄は急激に衰退する。砂鉄を材料とするのは、後の時代で、近江でも材料は鉄鉱石であった。ある研究者の発表を聞いたが、そのまとめは衝撃的だった。 

《NEWS》2017.5.3京都新聞より 

立命館大びわこ・くさつキャンパス=通称「BKC」=(滋賀県草津市野路東1丁目)の陸上競技場「クインススタジアム」に、知る人ぞ知る扉がある。看板には「遺跡保存施設」の文字。階段を下りて競技場の地下へ進むと、最深部に「木瓜原(ぼけわら)遺跡」が広がる。7世紀末~8世紀初頭に製鉄や製陶、釣り鐘の鋳造を行っていた複合生産遺跡で「古代のコンビナート」とも言われる。開学に先立って県教育委員会などが発掘調査し、製鉄炉など一部を保存した。キャンパス内に遺跡があるのは珍しいが、管理する同大学の出資会社「クレオテック」によると「学生も存在をほとんど知らない」という。昨年度は地元の小学生ら835人が見学に訪れた。遺跡名は周辺にボケの木が生い茂っていたことに由来する。「クインス」はボケの英語名で、花言葉は「先駆者」。全日本大学女子駅伝で史上初の5連覇を果たした陸上部の本拠であることも、縁を感じずにはいられない。

 

・・・さて堺市にもどりましょう、堺の鉄と言えば「鉄砲」です。

 

 

《堺市博物館》常設展示に「堺と鉄砲」コーナーを新設しました 

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/tenji/sakaitoteppo.html

平成29年4月、常設展示場に「堺と鉄砲」コーナーを新設オープンしました。鉄砲を通して、堺のものづくりと商売の歴史をご覧頂いています。大勢の方々のご来館をお待ち申し上げております。

 

 

《参考》南海本線「七道駅」ロータリー 

★《放鳥銃定限記碑》 

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/rekishi/teigenki.html

日本にはじめて鉄砲が伝来したのは、天文12年(1543)のことです。泉州堺の橘屋又三郎は、いちはやく種子島より鉄砲の製造技術と砲術を習得して堺に帰り、安土桃山時代には堺は日本でも有数の鉄砲生産地となりました。江戸時代に入っても堺の鉄砲鍛冶たちは、全国の諸大名に鉄砲を供給し、多くの鉄砲鍛冶や関連する職人たちが現在の北旅籠(はたご)町周辺に集住していました。それとともに、堺七道浜(しちどうはま)には鉄砲の試射場が作られ、昭和の初めまで「鉄砲塚」としてその面影を残していました。大正3年(1914)頃、大和川畔の東西水路開削工事の際に「放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)」と題した碑が発見されました。この碑の文は、寛文4年(1664)に砲術家・川名金右衛門忠重によって書かれたもので、恩師・小濱民部丞(みんぶのじょう)嘉隆への賛辞と鉄砲試射場の由来が記されています。開削工事の発起人であった堺の実業家・柳原吉兵衛は、堺鉄砲の歴史を物語る貴重な石碑を顕彰するために、昭和3年(1928)自然石をくりぬいた中にはめ込み、吉兵衛が経営していた大和川染工所の前庭に建立しました。その後石碑は、昭和19年(1944)に堺市に寄贈され、長くザビエル公園に保存されてきましたが、平成2年(1990)に発見場所に近い七道駅前に移設されました。放鳥銃定限記碑は、堺の鉄砲史の一側面を物語り、江戸前期の鉄砲の教習や試射に関する情報を伝える資料として大変貴重なものです。また、石碑が発見されて以来の歴史的経過を鑑み、昭和19年(1944)に堺市に一括して寄贈された柳原吉兵衛による石碑顕彰資料を附(つけたり)指定としています。 

《江戸時代の鉄砲試射場の碑》 

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/rekishitsutaeru/tepposhishajo.html

大正3年(1914)に南海本線七道(しちどう)駅近くの運河掘削工事現場から石碑が発見されました。その石碑には『放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)』と題する377文字の漢文が刻まれていました。石碑は江戸時代初期の鉄砲師範であった小濱民部丞嘉隆(こはまみんぶのじょうよしたか)の遺徳を称えて、砲術家・川名金衛門忠重によって寛文4年(1664年)に作られたものです。碑文は、「小濱民部丞嘉隆は文武両道の達人であり、堺の海辺に鉄砲の試射場(ししゃじょう)を設け、砲術の訓練と研究を重ねた」といった内容であり、江戸時代初期の堺における鉄砲関連資料として大変貴重なものです。また、江戸時代の試射場がこの近くにあったことを示しています。石碑発見当時、運河の発起人であった柳原吉兵衛氏は、石碑を★後世に伝えるために高さ約3メートル、幅約2メートルの自然石にはめ込み鉄砲記念碑として保存しました。その後、昭和19年に堺市に寄贈され、ザビエル公園に保存されてきましたが、七道駅前の整備に伴い平成2年3月に発見地に近い現在地に移設しました。

 

・・・後世に伝えるために保存された石碑の重み、受け止めましょう。

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