西国街道を歩く(その3)~才蔵寺 | 大根役者

大根役者

日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

関ヶ原で20の首級を上げ、家康に賞賛された可児吉長(通称才蔵)は馬に多くの首級を下げるのが面倒臭いので、打倒した敵の口に笹を差し、じしょんの戦果を誇示したため、別名笹の才蔵と呼ばれた。宝蔵院流槍術の開祖、胤栄に槍を学んだ槍の名手であり、槍の才蔵とも呼ばれた。

天文23年(1554)美濃可児郡に生まれた才蔵は、はじめ、斎藤龍興に仕えたが永禄10年(1567)に織田信長により斉藤氏が滅亡したため信長の家臣であった柴田勝家、明智光秀、前田利家、森可成らに仕えた。その後、信長の三男である信孝に仕えたが、天正11年(1583)に信孝が羽柴秀吉の攻撃を受けて自害した後、秀吉の甥・秀次に仕えた。小牧・長久手の戦いで秀次が徳川家康に大敗を喫した後、秀次と対立して浪人になった。その後、福島正則に仕え、小田原征伐にも参加した。関ヶ原で福島が東軍に参加し、前述の首級を上げることになるのだ。その後、関ヶ原の武功により、安芸広島藩に移封された正則に従い、広島に赴いた。才蔵は若い頃から愛宕権現を厚く信仰しており、「我は愛宕権現の縁日に死なん」と予言し、その予言通り、慶長18年(1613)6月24日の愛宕権現の縁日の日に身を清め、甲冑を着けて床机に腰掛けたまま死去したと伝えられている。福島正則改易、川中島移封の前に死去したことは才蔵にとって、幸せだったのかもしれない。槍の才蔵を槍の福島が一番理解していたのかもしえないのだ。

武将が主を代え、生き延びる様を世間は評価しないはずだが、才蔵の場合は違った。庶民は彼を戦国時代のヒーローとして意識し、可児才蔵の名は日本中に鳴り響いた。

松永染工場で西国街道を右折せず、矢賀峠方面にしばらく進むと才蔵寺に上る階段が見えてくる。





階段を上ると、可児才蔵が迎えてくれる。




ご利益のデパートみたいだ。



才蔵寺は別名みそ地蔵とも呼ばれている。可児才蔵は、晩年は仏門に入り、貧しい庶民に対して栄養価の高い味噌を配って与えたと言われている。 また、幕府との戦に備え、味噌を蓄えたとも言われているが、才蔵死後、5年後に改易となるので、前者が正しいのだろう。

可児才蔵像の後ろにあるのが、ミソ地蔵だ。売店で味噌を買い、味噌を頭にのせ、祈ると頭がよくなるとされている。脳みそと味噌をかけあわせたものだ。 受験・就職シーズンになると参拝客が絶えない。供えられた味噌は福祉施設に寄付される。新庄味噌しかないので、癒着しているように思える。今度、マルコメ味噌やますや味噌を持ってこようと思うのだが、いつも忘れるので、新庄味噌を供え、忘れないようにお願いしてみよう。



この場所は才蔵の山荘のあった地だ。西国街道を進む旅人は才蔵が祀られた矢賀峠の下を通るとき、峠を見上げ手を合わせた。戦国のスーパースターは時代が下って街道のスーパースターになった。