大根役者

広島のイベント会社社長の日常を淡々と綴っていきます。


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芸備線戸坂駅から重氏稲荷の参道の赤い鳥居をくぐり松笠山滝見コース登山口を登る。戸坂霊園の側の道を登りきったところで小さなお堂に遭遇する。

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琴比羅神社(龍泉寺観音)の観音堂だ。由緒によると祭神は大汝神(大国主命)と少彦名之神で他神社のようにこれでもかというくらいにあらゆる神を祀っていないことに好感を持てる。

『創立年代は明らかではないが「滝の宮」と呼ばれ、滝口の磐境、即ち屏風岩と釣鐘岩の間を御神霊と斎き奉ると由緒にある。禁厭の道、医薬の術を伝へ世人の病患を救療擁護し給ひまたこの滝の水を御神水と称えこの神水にて湯浴すれば「宿病平癒」の御神徳頗る顕著で御恩頼を蒙る者多しと万延年中(1860年)に著述された「滝の金比羅宮記」にある』と由緒に書かれている。

『滝の磐上に「連柯之璃史不絶」と謂ふ瑞祥の名木である榊の連理木を始め湯坪、竃石などと呼ぶ地名が存し、往昔はこの所から温泉が湧出し滝の神水と共に信仰の人跡が絶えなかったと言う』

なかなかいい。かっては、この観音堂のある地に神殿、拝殿があり、奥の院である琴比羅神社に参拝したのだ。

龍泉寺観音堂の本尊は聖観世音菩薩で、奥の院に対して下観音と呼ばれている。神仏混淆時代の別当寺が龍泉寺なのだ。

谷沿いの細い道を上ると奥の院に着く。いい風景だ。


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神は確かにここにいるのだ。今では訪れる人も少ないのだが広島には神がいたのだ。今でも鎮座している神に会うために訪れてほしい場所だ。滝の側の登山道を通り、松笠山山頂に登ると八畳岩から城下町広島を一望にできる。戸坂の地には古墳も多く残されている。神と人の距離が近かった時代に思いを馳せていた。

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寺山修司の文章だったと思う。『初めてニューヨークに行ったときにワンダーランドの植草甚一からもらった地図と寸分違わないニューヨーク風景にびっくりした』と書いていた。植草甚一はそれまで、ニューヨークどころか海外に一度も行っていないのだ。どこのパン屋がうまいとか、あの街角にはいつも口うるさいおばさんが立っているという細かい情報まで寸分違わない風景だったのだ。

植草は1955年に紹介されたニューヨークンタウン誌『ビレッジボイス』を丹念に読み、寺山のために地図に落とし込み渡したのだ。ジャズとミステリ-を愛した植草はニューヨークが大好きでビレッジボイスを媒介にニューヨークに旅をしていたのだ。平凡パンチで植草ブームが作られるのだがそれを見た若者たちが「ぴあ」「シティロード」「アングル」を創刊していくことになる。僕もそうだが植草はレコード以外に海外へ目を向けさせた先人だ。

寺山は日本人の旅は他国の人と違い確認の旅だと述べている。旅とは本来、想像力を伴う思想行為のはずなのに日本人の旅は旅行ガイドを確認するだけだと書いていたように記憶する。正しいとか正しくないことじゃなく日本人の特性を寺山は言いたかったのだ。日本人の旅のゴールは自宅なのだ。若者たちの放浪もゴールがあるので放浪じゃない。そのゴールは日本なのだ。日本人からはホーボーは生まれない。

日本人がオリジナルと思っているもののルーツはすべて海外にある。大陸とのつながりの中に位置した日本だから仕方がない。

こんなことを書いているのはサッカーと蹴鞠のことを考えていたからなのだ。サッカーは戦場でごろごろ転がった頭蓋骨を片づけるのに手で運ぶのが面倒だから足で蹴って運んだことを起源としている。片づけるのが遅いので早く片付けたものに賞金を出すと兵士達は争って頭蓋骨を蹴り、あっというまに片付いた。その後、いくら敵とはいえ、宗教的見地から頭蓋骨を蹴るのはよくないとされ禁止されたが、蹴る興味だけは残り、革で頭蓋骨を作り、蹴りあったのだ。

蹴鞠は中国の蹴鞠(しゅくきく)にその起源を持つ。紀元前300年以上前の斉での軍事訓練から始まり、漢代には12人のチームが対抗して鞠を争奪し「球門」に入れた数を競う遊戯として確立した。ヨーロッパで頭蓋骨を蹴る遙か前の時代にサッカーは中国で確立していたのだ。

日本 には600年代、仏教などと共に中国より日本へ渡来した。中大兄皇子が法興寺で「鞠を打った」際に皇子が落とした履を中臣鎌足が拾ったことをきっかけに親しくなり、645年の大化の改新につながることはよく知られている。

日本では鞠を蹴りあう独自の文化として定着した。民衆は毬を同じ場所でつく遊びが定着した。

農耕文化の日本人は本来は争いを好まないのだ。

毬つきも蹴鞠も原点に戻るのだ。相撲だって丸い円の中で戦い、敗れたものはもう一度、円の中に戻り、礼をして、競技が終了する。野球が大好きなのもホームからスタートしてホームに帰るゲームだからなのだ。

日本では四角いリングや四角いコートは育たなかった。明治以降の異文化の参入なのだ。

旅にしてもスポーツにしても回帰の文化が日本なのだ。行きっぱなしの欧米にはない文化を持っているのだ。

日本人は原点回帰を受け入れる国民のはずだ。今、起こっている諸問題も日本人の持っている文化から
考えれば解決策があるはずだ。原点に回帰することは後退ではないことを意識しよう。

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久しぶりに岩国基地周辺に行った。10年くらい前に基地の中で仕事をしていたので
ベース内には時々入っていた。将校食堂で山盛りのポテトとゴロンと転がった鳥の塊を眺めながら文化の違う国で仕事をしているのだと感じていた。味は塩味だけなのだ。ハンバーガーもPIZAもでっかいだけでまずい。まあそんな国なのだ。米兵たちは日本人を自分たちの飼い犬以下だと思っている。

岩国は米海兵隊の本土唯一の基地だ。だけど日本国民の意識は日本国内の他の米軍基地と同様に考えているのだろう。沖縄と岩国は問題を共有しているのだ。米海兵隊は沖縄、佐世保、岩国のベースをもとに戦略を組み立てる。岩国は海兵隊航空基地であり、佐世保は米海軍第7艦隊の基地である。有事の際は佐世保より沖縄に向かい海兵隊を搭乗させ、現地に向かう。ヘリコプターは長時間の航行能力がないためだ。

岩国、沖縄の海兵隊は最前線に配備される。ということは常に死を意識せざるを得ない部隊なのだ。

岩国も沖縄なのだ。

1995年沖縄米兵少女暴行事件の後、基地移転問題が世論になったときに真っ先に普天間基地のヘリコプター部隊を岩国基地が受け入れることをを表明し、岩国市長も賛成した。その後、先述のロケーション問題で沖縄県内移設に落ち着くのだが民主党政権は1995年の時点まで普天間問題を戻してしまった。

岩国も沖縄なのだ。

1998年には女子中学生暴行事件を起こし、2007年には広島市で集団レイプ事件を起こしている。常に死を意識せざるをえない人間はまともな精神状態におかれない。

岩国は日本軍の航空隊基地だった。1945年8月14日ポツダム宣言受諾の日に基地を残し、岩国大空襲を米軍は実行した。半島有事の戦略拠点として岩国基地窃取を前提にしての戦術だ。

岩国は基地の街として潤った。朝鮮戦争、ベトナム戦争時に基地前は大いに栄えた。吉田拓郎たち広島のミュージシャンたちは基地内で演奏し、腕を磨き、アメリカの音楽を吸収した。コーヒーハウスホビットは反戦米兵の拠点となり、ここから全国に情報が発信された。。岩国は文化の拠点にもなった。バブル時には広島から岩国のディスコに若者たちがあふれた。ブラザー狩りの女の子が大挙押しかけた。

バブル崩壊後は基地前の衣料品店に広島のブティックから買い付けに行った。基地前にはインド人が衣料品店を開いていた。彼らの店でバンドマンたちは衣装を作った。

岩国はアメリカ文化と触れられる場所だったのだ。21世紀になると広島市内にクラブが出来始め、米兵たちは週末広島に来るようになった。クラブではコーラ一本で入場し、ナンパし、金と食にありついた。そんな情報が米兵たちの間で共有され、2007年の集団レイプ事件につながるのだ。県知事藤田雄山は午前三時まで盛り場をうろついている方も問題だと発言したが、知事の発言としては不適切で裁判に影響を及ぼし、被害者の人権を傷つけた。彼は親としての発言をしたのだ。よく知っている人でいい人なのだが知事としては不適切だった。

1950年代から多くの事件が岩国で起こった。有名なハナちゃん事件を始め、女性がらみの凶悪事件が多く、基地内で遺体が発見され、いまだに犯人がわからないような事件も多い。

沖縄は県の問題として基地問題をとらえている。山口県、広島県は県の問題として意識する必要があるのではないだろうか。

久しぶりに岩国に行った。ホビットはこのあたりにあった。10年くらい前まで看板だけは残っていた。

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基地前は寂れている。かっての面影はなく死んだ町だ。

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それでも岩国基地がなくなることはない。岩国から基地が消える日は日本から米軍が撤退する日だ。
その日は幸せが訪れる日ではなく、不幸の始まる日かもしれない。


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僕は基地の存在を是とするものではない。ただ、現実として、米兵との共存を考えることも必要だ。彼あらの犯罪を未然に防ぐことを考えよう。これから日本は鎖国を辞め、異文化と共存する時代が来る。
そのためにも基地問題を少し、視点を変え、考えてもいいと思う。






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早春賦の歌詞を口ずさみながら立春の2月4日広島市北部の安佐町を歩いた。実は可部から三段峡に至る可部線復活を広島市がJRに働きかけ、まじめに議論がなされている。ただ飯室から先は鉄橋も撤去(洒落じゃない)されているし、駅舎の付近も再開発されており、新たに線路を敷設することは現実的に無理なのだろうと思う。その中で旧布駅、旧小河内駅周辺が復活のキーポイントになると思っている。

この付近には日本の原風景となる集落があり、僕の好きな場所だ。

野冠(のかずき)は清流太田川と中国山地に囲まれた静かな村だ。


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神社の名前はわからないが小さな神社、集会所には半鐘がある。国道191号線から野冠橋を渡ると残雪の中で村は静かに春を待っていた。雲雀のキョロキョロという声が聞こえた。
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国道を渡り、部木谷に入った。
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太田川の支流右平川沿いに集落を歩いた。この川の名から各地にある平家の隠れ谷の一つだと思っているのだがまだ調べていない。

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川の途中に小さな滝を発見した。何だかほっとする風景だ。鳥獣駆除の看板がある。広島では鳥獣被害は深刻で今年は許可を取る人が倍増したとニュースが伝えている。彼らと共存することができないものだろうか。人間が彼らの生活を侵害したのだから。

小さな祠もある。まだ村は冬の季節の中で音もなくひっそりと存在している。

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道路脇の梅の木が小さな固いつぼみを付けていた。

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春は確実にやってくるのだ。キョッキョという鳥の声も聴いた。鶯の初啼きかな。
川沿いを登って行き、集落のはずれに来ると雪が急に深くなった。この道を上ると中国道にぶつかるはずなのだが先の状態がわからないので引き返した。

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人には誰も出会わなかった。立春の日に春を探す酔狂な人はぼくぐらいなのかもしれない。

去年は日本中が冬の時代を迎える恐怖におののいたが、春は確実にやってくる。被災地の春はまだまだ固いつぼみかもしれないが季節に期待しよう。季節にしか期待できないのが残念なことなのだが。

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『早春賦』という唱歌が好きだ。唱歌自体がすでに死語となっているのかもしれない。小学生のとき僕たちは小学校唱歌という文庫サイズの本を入学と同時に持たされた。

今でも文部省唱歌という表現はあるのだろうか?今では文科省唱歌ということになるのだろうか?
いずれにしても唱歌は戦前の尋常小学校唱歌にそのルーツがあり、国家が作った歌ということで
小学校の音楽教育に使われた。作曲者や作詞者の名は記されず、作詞、作曲者名に文部省唱歌とだけ
記された。

実は今では音楽のジャンルとして、童謡のように唱歌という表現がされるだけで唱歌の更新はない。

戦後、作詞作曲者を調査したのだが不明のものがかなりある。その中に選者が作詞者となった曲がかなり入っている。唱歌の中でモーツアルトから曲想を盗作したと言われたのが「早春賦」なのだ。

大正2年に尋常小学唱歌選定委員会代表吉丸一昌が作詞した75編の歌の一つだ。選定委員長が自らの詞に若手作曲家に曲をつけさせ、発表したのだ。安易だと思うがエンドの決まった国策だったので仕方なかったのだろう。吉丸がすごいのはやっつけ仕事でなくそれぞれがスタンダードになっていることだ。

『春は名のみの風の寒さや』は誰でも知っているだろうがこれに続く歌詞を覚えている人は少ないだろう。

春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷融け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か

安曇野付近を切り取った詞なのだが吉丸はやっつけ仕事にしていないところに才能を感じるのだ。
もっとも後にモーツアルトの「春の憧れ」に曲想が酷似していると指摘されるのだが・・・・。
そんなことを思い出しながら立春の日に春の兆しを探して広島市北部を歩いた。

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以前のドライブの折、気になった神社があったので再訪した。太田川沿いの県道177号線沿いにある久地の萩焼工房に行くことが目的だったのだが、道を間違えて山沿いに走り、県道に出る手前にその集落があった。長沢橋を渡ると国道191号線でしばらく行くと安芸飯室駅がある交通インフラには恵まれた立地だったが橋のないときには孤立した村だったのだろう。

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油瓦に白壁の家は裕福な村だったことをうかがわせるし、火の見櫓や神社が村はずれにあることで以前の風景を創造できる。

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この神社は長澤神社というのだが由緒はなくて勧請由来はわからない。ただ土地名を神社に着けることは各地に見られ、主に米つくりを中心にした村や川の側の村に多く見られる。八幡様が勧請されるのが普通だが土地の名を付けていることから側を流れる太田川の治水を目的にした水の神が祀られていることが想像できる。

太田川は村を豊かにすると同時に村に禍をもたらす川でもあったのだろう。

可部線が可部駅より北に延び、沿線の住民は豊かになった。特に安芸飯室周辺は国道191号線、県道177号線、鉄道が交わり大いに栄えたことは安佐町役場や安佐町商工会があることでもうかがい知ることができる。

2003年に可部から三段峡間が廃線となりこの駅は廃駅となった。1969年沿線三段峡まで線路が伸び、住民の夢が実現したのだがわずか30年余りで廃線になるのだ。加計までは1936年に開通していた。飯室は単線の可部線において、戦前、戦後ともに可部より先で加計とともに列車を交差させる重要な駅だった。鉄道の時代は終わっていくのだが20世紀の最後、日本人はあまりに急ぎすぎたのではないだろうか?そのひずみが今になって現れているのではないかと思うのだ。

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廃駅というのは哀れだがその哀れさが共感を呼ぶ。安芸飯室駅周辺を保存することはできないのだろうか?

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先日、若い友人と飲んでいた折にドラッカーの話になった。彼は今会社でドラッカーの勉強をしているそうだ。今さらドラッカーと思うのだが若い人が勉強をすることはいいことだ。

僕はオイルショック後社会人になったのだが、入社後、さまざまな研修メニューが僕を待っていた。そんなことは無意味なことだと思ったのだが、会社の金で勉強させてもらえるのだからまあいいかと思っていた。その頃、話題になっていた『地獄の研修』なるものがメニューに入っていれば即辞めようと思っていたがその会社にはそんな馬鹿な経営者はいなかったのが幸いだった。

その会社は世界に拠点を伸ばしつつあったのだがオイルショックの影響をもろに受け、今までのマーチャンダイジング主導の経営からマーケティング主導の経営に変化しようとしていた。その時に営業マンの再教育に着手し、科学としての営業を模索し、僕たちに様々な機会を提供し、脱皮を図っていたのだ。

その後「そうは問屋が卸さない」という時代が崩壊するのだがそのことは予測されていた。

僕は、あらゆる機会でマーケティングとマネージメントを学んだ。最初に研修で使われたのはドラッカーの『現代の経営』だった。修善寺で行われた研修では何で、社会人になっても勉強するんだと反発していたのだが、ドイツ系ユダヤ人がアメリカの巨大企業を見てショックを受けただけの話だと思ったいたのだが二日目にこの人の分析は哲学であると思って研修が面白くなった。

『断絶の時代』は個人的に読んだのだが欧米的な分析であり、日本にはそぐわないと思ったのだがベストセラーになった。

先日の会話の中で僕はドラッカーの言っていた内容をを思い出した。

『事業の目的は企業の外にある。企業が社会の一機関である以上、事業の目的は社会に求めなければならない。有効な定義はただ一つである。それは、顧客を創造することである』という有名な『顧客の創造』理論なのだ。

研修では『顧客はだれか』『顧客の価値は何か』 ということで議論したことを覚えている。

30年以上前のことだ。なぜ、いまさらドラッカーなのかと思うのだがその頃、僕はドラッカーは哲学だと理解した。だから普遍なのだ。

その普遍哲学を実践するのに僕はランチェスターを学んだ。もちろん田岡先生の理論だ。

ランチェスターは戦略と戦術を混同して議論を展開するわかりにくい。ストラトジーとタクティクスを混同してはならない。

現状認識、経営構成意図、マーチャンダイジング、ロケーション、弱者の戦略、強者の戦略等を駆使しし戦術を構築する。その後、川上、川下、弾着点戦術を展開していくのだ。

他にもマーケティング、マネージメントの研修を受けたのだが、研修の目的はそのすべてを理解することにあるのではないと思っている。

僕はあの長時間の研修の中で僕の中に取り入れたことは3つだけだ。研修という言葉通り、理解するのではなく自分の一部にすることだと思う。だから『もしドラ』なんてことでブームになっていることを嫌悪するのだけれど最近、ドラッカー、ランチェスターがまた企業研修の主力になりつつあるのは事実だ。ランチェスターに基づき、全国各地に展開されたブランチ戦略がバブル崩壊後廃止されたが、最近距離感を詰める戦術が見直され、ブランチ戦略が浮上し、コールセンター廃止の動きも出ている。

哲学は普遍であることを意識しよう。

驚いたことだがまだ会社は社員のために存在し、社員は社のために存在すると考えている人間がいることだ。彼らにはドラッカーをエロ本を読むくらいに熟読してほしい。

僕が自分を戒めている先述した3つとは

『我々はお客様のお役立ちをして対価をいらだいている』
『前工程もお客様。後工程もお客様』
『仕事を通じて知り合ったお客様と一生の友になろう』

ということだけだ。

先日の会話の中でドラッカーの「顧客の創造」を改めて普遍の哲学として意識した。いい夜だった。

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今年は恵方巻きサンドが登場した。もうこうなればなんでもありだな。$大根役者-Image21331.jpg

2009年に初めて恵方ロールなるものが登場したときにブログに書いた。

http://ameblo.jp/mako1110/entry-10202761649.html

もういいや。こんなのは文化じゃないけど、恵方巻き自体がセブンイレブンの仕掛けた端境期の戦略だからどうでもいい。

来年からは恵方カレー、恵方餃子、恵方ピザ、恵方うどんに恵方そば、恵方バーガー、恵方弁当も発売されるだろう。なんでも恵方だ。ジャパネットタカタは2月3日限定の恵方セットを発売するし、風俗の世界では節分限定恵方プレーが人気を呼ぶだろう。想像してみよう。恵方プレーだぜ。一日限定。恵方を向いて丸かぶりだぜ・・・・・。

真知子巻きならぬ恵方巻きや恵方巻きスカートもファッションとして定着するだろう。恵方焼きなんて焼き物もあっていい。

なんでも恵方だ。寿司屋だって負けちゃいない。恵方巻きずしを出すな。えっ?・・・・・・・・?
何かおかしい。

2月3日は吉原ではお化けの日とされていた。お化け巻きを仕掛けてみよう。恵方以上に大ヒット請け合いだ。


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興味のない方にはどうでもいいこなんだろうけど、久しぶりに珍しい神社と出会った。戸坂の原神社だ。

『原神社は天文二年(1533年)の勧請でこの一帯を惣田原というので原神社と称えるに至ったという。八幡三神は全国で最も多く祀られている神で武士の守護神、商売繁盛、文化神、安産、厄除け、
交通安全などのご利益がある。といわれている。『とうびらさん』とも呼ばれている。
万延元年(1860年)に再建した。明治の初めに若宮社(惣田山の内)を合祀、ご祭神の沖津彦神、神津比女神は海の神で倉稲魂神は五穀の神、産業の神である(宮司 木村伸次記)』と境内の由緒にある。

木村宮司といえばくるめ木神社の神官だ。戸坂一帯の神社は木村家が管理しているのだろう。

はっきりいってどこにでもある八幡様だ。



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この神社がユニークなのはその本殿にある。一般的に見られる神社建築は本殿・幣殿・拝殿が中心である。本殿の手前に礼拝用の建物である拝殿が建っており賽銭箱が置いてある。拝殿の奥の方に御神体を収める本殿がある。本殿は流造、春日造が一般的で、小型の本殿では、風雨から守るために覆屋をかける場合もある。 拝殿と本殿をつなぐ部分に幣殿が造られることも多く、これらを一続きに建てる場合もある。

本殿は神がいるとされる神聖な場所であるため、瑞垣などで囲われたり、覆屋が造られ、普段は見ることができなくなっている。僕は神社に参拝するときは必ず、本殿を横から拝観させていただくのだが、山や岩を神体として崇め、本殿を持たずに神体を直接拝むための拝殿のみが建てられているところもある。本来は社殿を持たない神社が古風な形式であったと考えられる。


原神社の本殿は大きな岩である。

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ということは由緒にある年代以前にこの地で自然崇拝されていたのかもしれない。戸坂に住み着いた古代人もこの岩の前で祭礼を行っていたと考えられないだろうか。そんな古代ロマンはないのかもしれないが歴史に夢を見ることも僕の楽しみの一つなのだ。





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前に書いた重氏稲荷の参道を外れ、あぜ道を登ると小さな祠に出会う。若宮稲荷神社だ。畑の中にあり、参道も整備されていない。拝殿内は掃き清められ、地元の方が管理されていることは理解できる。




神社が勧請されることは必然だ。由緒はないが奉納された額や絵馬でその背景を知ることができる。

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拝殿内に明治天皇ご成婚の写真と肉弾三勇士の写真が掲げられていた。肉弾三勇士は日本陸軍独立工兵第18大隊(久留米)の、江下武二、北川丞、作江伊之助各一等兵3名のことである。上海事変中の1932年2月22日、蔡廷?率いる19路軍が上海郊外の廟行鎮に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破し、自らも爆死した。大阪毎日新聞・東京日日新聞が爆弾三勇士として称え、東京朝日新聞・大阪朝日新聞は肉弾三勇士と称した。

本当は未熟な新米の兵隊の戦術ミスなのである。同じような戦術は他所でも採られたのだがこの三名だけが戦死した。軍部はこの出来事を最大限に利用した。彼らをマスコミと一緒に軍神に祀り上げたのだ。



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長崎の若宮稲荷は亀山社中の時代龍馬と所縁のある神社だが、関係あるかどうかは勧請された時代がはっきりしないのでわからない。
戸坂の寒村まで召集令状が配布されたとき、この神社から死出の旅路に就いた若者が多くいたことが
窺われる。各地の神社の奉納額を見るのだが戦地からの無事帰国したことへの感謝の奉納額を見ることがない。

そんな時代だったのだ。神様には何の罪もないのだが神までも利用したあの時代の異常さをこの小さな祠からも認識できるのだ。祭礼日がいつなのかはわからないが、稲荷神社の本来の役目である実りの秋には祭礼が行われるはずだ。秋にもう一度、訪れてみよう。






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