山陽自動車道尾道I..Cから尾道市街方面に進み、木梨口の信号を左に折れると、すぐ、標柱が見えてくる。

三成八幡神社だ。豊臣秀吉が文禄・慶長の役の時に立ち寄って武運長久を祈願したと伝えられる神社だ。

参道を進む。このあたりは以前、宮山と呼ばれていた。

境内に入る。最近は、安全の為、参道階段の真ん中に手すりを設ける神社が増えているが。参道の真ん中は神が通る道なので、

このように、階段の端に手すりをつけるのが正しい。

拝殿へ向かう

参道階段途中には、顕彰碑や奉納狛犬が並んでいる。狛犬の台座に旅行記念と彫られているのが気になる。どこに旅行に行ったのだろう。

拝殿下の狛犬が面白い。

拝殿

本殿

創建年代は不明だが、古くは少祠が祀られていた。寛永十三年(1636)に現在の規模に再建された。現在の社殿は昭和9年に改築されたものである。

摂末社として、祖霊社(豊岡重友霊)が祀られている。

 

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山陽自動車道尾道インターチェンジから尾道市街地へ向かう。美ノ郷町郵便局が見えてきたら、左折する。この松永へ向かう道も区画整理と道路の拡幅により、風景がすっかり変わってしまった。

養老温泉郷の手前を右折し、山道に入ると、住宅地の一角に標柱が見えてくる。

浦島神社だ。

 

参道を進むと、鳥居が見えてくる。

手水舎

狛犬は岡崎現代型だ。新しいものだ。

浦島神社がこの地に勧請されたのは平安時代だ。

由緒によると、備後国浦島の領主、水の江左衛門介の一子成延が金亀を助けたところ、帰路に美しい少女が現れ、竜馬に乗せ、

龍宮に案内した。幾年かを龍宮で凄し、弁財天像と玉手箱を持って、帰ると一人として知るものがいなくて、仕方なく、弁財天像を祀ってくれるように人に託し、いずこともなく立ち去った。このことが天子の耳に入り、勅命により、天長二年(825)小祠を建て、浦島大明神として、弁財天像とともに祀ったと伝えられている。承和3年(836)に高僧大智識利元阿闍梨によって、海面山浦島寺が建立され、弁財天像とともに観世音菩薩を御本尊として祀ったという。

南北朝時代には足利直義の兵火により、荒廃していたが、この地の長老たちが7日間、霊夢を見て、宝暦十年(1760)に再建された。その後、文政元年(1818)修復、明治十三年に改築された後。昭和49年に区画整理の為、現在地に移転した。

 

拝殿

本殿

浦島神社には、別の伝承が残っている。浦島太郎伝説が、この地にもある。勧請時の年代は、日本最古の浦島伝説とされ、『日本書紀』などにも記載のある京都府与謝郡伊根町の浦嶋神社の伝承とも合致する。

この里にいた島子という浦人が花小松を玉の浦へ運び、生計を立てていた。いつも龍神への手向けとして花小松を玉の浦にを投げ入れていた。あるとき、花小松を投げ入れると、大鰐が現れ、島子を龍宮に連れて行った。龍神の娘と結婚し、数年、過ごした後、故郷へ残した両親のもとに帰りたいと、龍神に言うと、玉手箱を持って、故郷に帰してくれた。知るものもなく、風景も変わった故郷に帰ってみると、大鰐にさらわれた若者がいたという伝承が残っていると古老に聞いた。家のあったあたりへ行くと、見覚えのある大岩を見た、その岩に寄りかかり、玉手箱を開けると、一筋の煙とともに

亡くなった。村人たちは少祠を建て、島子を祀った。丹後と備後に

同様な伝承があることが面白い。

 

神輿舎

摂末社として荒神社が勧請されている。

現在地に勧請されたころから、祭礼日は五月五日になり子供神輿等で賑わっている。

 

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九段下の田安門から北の丸公園に入り、左に進む。

神社のような風景が現れる。弥生慰霊堂だ。かっては、弥生神社、弥生廟と呼ばれていた。

警視庁及び東京消防庁の殉職者が祀られている。

社殿は拝殿と本殿からなっている。参道入り口にあるのは、狛犬と呼んでいいのだろう。灯籠もある。神社としての面影を残している。拝殿は土間だ。

 

明治10年(1877)に起きた西南戦争に出征して戦死した警察官は東京招魂社に祀られたが、凶悪犯逮捕や、災害により、殉職した警察官の追悼施設はなかった。明治14年頃から、警察・消防の殉職者のために警察庁招魂社の創建が唱えられ、明治18年10月7日に「弥生神社」が創建された。当初、本郷区(現文京区)向ケ岡弥生町に創建されたことが神社名の由来だ。最初に祀られたのは明治4年以降の殉職者94柱及び特別功労者2柱の96柱だった。明明治20年11月、芝公園に遷座された。その後、明治23年4月に警視庁加治屋橋庁舎構内に、明治44年4月に青山墓地に遷座された。昭和6年10月には麹町区(現千代田区)隼町に移った。

社歴を見れば、戦前は警視庁の管理下にあったことがわかる。戦後の「神道指令」で警視庁は神社を管理できなくなった。昭和21年10月に有志により、奉賛会が結成され、昭和22年10月に現在地の千代田区代官町に遷座され、遷座とともに名称も「弥生廟」と改められた。昭和58年9月に名称が「弥生慰霊堂」に改称されるとともに、神社としての存在はなくなり、慰霊祭も無宗教で執り行われるようになった。

弥生廟ができる前の昭和5年に昭和天皇が関東大震災の復興状況をこの場所で視察された。「昭和天皇野点所」の石碑がある。

由緒からもわかるとおり、この慰霊所の歴史はタスクに神社と同様に、招魂信仰に基づくものだ。明治に創建された神社が戦後、政治により、神社でなくなってしまう過程に近代史を見ることができるのだ。北の丸公園の向かい側にある靖国神社を考える場合にこの場所を意識してほしい。

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久しぶりに愛宕山へ行った。愛宕山は標高26mの愛宕山山頂にある。自然の山で造成されたものではない。ホテルオークラの近くなので、僕は虎ノ門駅から歩いた。

愛宕神社といえばやはり、出世の石段だ。

寛永11年、江戸三代将軍、徳川家光が芝の増上寺に参詣した帰りに、愛宕神社の下を通った。愛宕山には源平の梅が満開で、家光は、「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命じた。
愛宕山の石段は急勾配で、馬で石段をのぼって梅を取ってくることなど出来そうもなかった。
家臣が皆躊躇している時、この石段を馬で登り始めた者がいた。

家光が「あの者は誰だ」と聞いても、近習の臣に知る者はなかった。ある家臣が「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」と告げた。
家光は「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」と言った。
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬で石段を降り、家光に梅を献上いた。
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいた。

朱瀬野石段の由来だ。

僕はもう出世なんてしたくないがとりあえず石段を上った。

山門を通り境内へ。

奉納絵馬

馬関係の奉納絵馬が多い。

この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)が「出世の石段」と呼ばれるようになった。
急こう配の石段は事実ではなく、講談上の伝承と言われているが実際に江戸時代以降、明治15年、大正14年、昭和57年に上りきった人がいる。昭和のものはテレビ番組の企画だった。

神社の由緒は比較的に新しい。

慶長8年(1603)、徳川家康公の命により、城下の防火の神様として、京都から勧請され祀られた。
慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等が将軍家の寄進により、建立された。城下の防火の神として将軍家から篤く、尊崇された。
江戸大火災で全焼したが、明治10年9月に本殿、幣殿拝殿、社務所が再建された。その後の大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失した。昭和33年9月、氏子中の寄付により、本殿、幣殿、拝殿などが再建された。

主祭神は火産霊命だが、罔象女神、大山津見神、日本武尊

将軍地蔵菩薩、普賢大菩薩、天神社だ。神仏混淆時代の名残をとどめている、維新政府は神仏分離の愚策をしたが、幕府縁の神社には遠慮したのかな。

 

摂末社は猿田彦を祭神rとする太郎坊社、福寿稲荷社、弁財天社、大黒天社がある。

神社裏の撮影ポイントがおかしい。

 駐車場前にはNHK放送博物館がある。

大正14年(1925)年3月22日朝9時30分、東京芝浦の東京放送局仮放送所から、日本のラジオ第一声が流れた。7月、愛宕山で本放送が始まり、愛宕山は“放送のふるさと”となった。城下の防災拠点と後の防災の役目を負った放送の拠点が同じ場所にあることに運命を感じる。

 

 

 

新橋駅の烏森口にある通勤客になじみの神社だ。ただ、なぜここに鎮座しているか知っている方は少ないのだろうな。

 

 

社伝によれば、天慶3年(94)、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国の稲荷神社(場所は不明)に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。その矢によって速やかに乱を鎮めることができた。それに感謝して稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとのお告げがあった。

秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り

烏が群がっていたので、そこに神社を創建した。

江戸時代に稲荷神社参拝がブームになった。その際の初午の稲荷祭の賑わいは江戸で一二を争うものであったと伝承されている。

江戸文化いいな。

 

新橋には他に日比谷神社がある。大祭は日比谷神社と交互に隔年で行われている。

烏森神社の大神輿は1930年に名人、山本正太郎(通称だし鉄)によって作られた巨大なもので、だし鉄の最高傑作とも言われている。だし鉄は山車鉄で、出汁鉄じゃないんだろうな。新橋だったら、出汁鉄が似合いそうだ。

 

 

 

心願色みくじは女性に人気があるらしい。僕がお参りした時に御札所で恋愛の色みくじを引いていた。青の19番だったと思うが、残念なことに、彼女はおみくじの棒を落としてしまった。彼女の恋はどうなったのだろう。

御朱印をいただいたのだが、この神社のカラフルな御朱印は人気がある。

お守りや幸飴や色んなグッズをいただいた。僕の前のおみくじの彼女にも同じものが授与されていた。彼女は少しだけ、笑顔になっていた。時間があれば、僕がお話を聞いてあげてもよかったのだが、時間がないため断念。

僕は東京にいた頃、神社横のこの風景の中に夜は溶け込んでいたのだが、広島に帰る時間が迫っていたので断念した。

 

正受院は正式には明了山正受院願光寺という浄土宗寺院だ。文禄3年(1594)、正受乘蓮和尚を開山として創建された。

奪衣婆像は「綿のおばば」と呼ばれ、民衆の信仰を集めた。

咳止めや子どもの虫封じに霊験ありとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があった。幕末には、奪衣婆像に関して「正受院に押し入った泥棒を霊力で捕らえた」「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」といった噂が広まり、嘉永元年(1843)の年末から翌年にかけては参詣客が正受院へ押し寄せる騒ぎとなった。

歌川国芳などにより、綿をかぶった姿の奪衣婆を描いた綿絵が多数発行され、現存している。あまりに盛況であったため、寺社奉行により制限を受け、正月と7月16日以外の参詣が禁じられた。

毎年2月8日には、針仕事に用いた針への労いと、同時に裁縫の腕の上達を祈願する儀式である針供養大法要が行われる。当日には経を読み上げ、特大の豆腐に針を刺して供養するという光景が見られ、古い針を納めに来る参拝客などで賑わう。 針供養に関連したものとして、境内には昭和32年(1957)建造の針塚と昭和38年(1963)に造立された昭和35年3月に和裁で唯一人間国宝となった小見外次郎先の胸像がある。

いつも酔っぱらって、朝に新宿駅に向かい、歩く道沿いにこんな由緒を持つ寺院があるなんて当時は知らなかったな。

 

 

 

 

 幕末会津藩主、松平容保が葬られた寺院でもあるが、後に会津若松市の松平家院内御廟へ改葬されたため、現在正受院には墓石も記念碑も残っていない。

毎年2月8日には、針仕事に用い
た針への労いと、同時に裁縫の腕の上達を祈願する儀式である針供養大法要が行われる。当日には経を読み上げ、特大の豆腐に針を刺して供養するという光景が見られ、古い針を納めに来る参拝客などで賑わう。 針供養に関連したものとして、境内には昭和32年(1957年)建造の針塚と昭和38年(1963年)に造立された小見外次郎の胸像がある。

逸話[編集]

平和の鐘

綿のおばば
正受院の奪衣婆像は、咳止めや子どもの虫封じに霊験ありとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があった。幕末には、奪衣婆像に関して「正受院に押し入った泥棒を霊力で捕らえた」「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」といった噂が広まり、嘉永元年(1848年)の年末から翌年にかけては参詣客が正受院へ押し寄せる騒ぎとなった。歌川国芳などにより、綿をかぶった姿の奪衣婆を描いた錦絵が多数発行され、現存している。あまりに盛況であったため、寺社奉行により制限を受け、正月と7月16日以外の参詣が禁じられた。
平和の鐘
正受院の梵鐘は、昭和17年(1942年)に太平洋戦争による金属供出のため失われたはずであった。しかし、戦後になってアメリカ合衆国アイオワ州立大学内海軍特別訓練隊が所有していることが判明し、昭和37年(1962年)には正受院へ返還された。このため、正受院の梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれており、現在でも大晦日には除夜の鐘を響かせている。

文化財[編集]

奪衣婆像 - 新宿区指定有形民俗文化財
小野篁製作との伝承を持つ奪衣婆像。「綿のおばば」と呼ばれ、頭から頭巾のように白い綿をかぶった姿で祭られている。現在では「子育て老婆尊」とも称される。
梵鐘 - 新宿区登録有形文化財(工芸品)
宝永8年(1711年)製作の銅造梵鐘。「平和の鐘」と呼ばれる。

交通[編集]

暗闇坂~東京都新宿区愛住町

テーマ:

暗闇坂というとはっぴいえんどの『風街ろまん』に収録された「暗闇坂むささび変化」を思いだす。この唄は麻布十番の暗闇坂を大在任したものだが、東京23区内には文京区白山、文京区本郷、大田区山王、品川区南品川、目黒区上目黒、新宿区愛住町の7つの暗闇坂があった。いずれも、木々が坂をおおい昼間も暗かったことから名付けられた。そんなロケーションだから

幽霊伝説等橋にまつわる伝承が多い。

 

愛住町の暗闇坂を歩いたとき、そんなことを思いだしていた。

愛住町の暗闇坂は暗坂(くらやっみざか)が正式名称だ。今では往時の面影を偲ぶ術はないが、愛住町一帯は浄運寺、法雲寺、正応寺、安禅寺などのあり四谷北寺町と呼ばれていた。

法雲寺には江戸時代の梵鐘が保存されている。

 

説明板を転記しておく。

 

 

法雲寺大四世順意が枡屋、長谷川氏、飯田氏、江藤氏などの喜捨を受け、享保8年(1723)に鋳造された銅造の梵鐘。総高132.5センチで、江戸鋳物師河合兵部藤原周徳の作である。
 江戸鋳物師の梵鐘鋳造減少期における作品で、同時期における江戸鋳物師の技術的特徴を知ることができる。また、銘文から当寺の檀越等を知ることができ、史料的価値も高い。
 太平洋戦争中の供出により区内の江戸時代の梵鐘は残存数が少なく貴重である。
 平成18年(2006)10月 新宿区教育委員会

 

このあたりには、江戸時代の古刹が多く

静かな街だ。坂の上からは新宿の高層ビルが見える。車の音もあまり、聞こえない。住みたい町だ。だから愛住町なんだ。

 

 

浜田自動車道を大朝I.Cで下りて、国道261号線方面を進む。北広島町図書館の左に鳥居が見えてくる。多くのプロ野球選手を輩出している新庄高校もすぐ近くにある。

ここが龍山八幡神社だ。正和二年(1313)、吉川経高が駿河国より、この地に移封された時に吉川村八幡宮を勧請した。駿河八幡宮と称し、経高の氏神とした。故郷はこの神社を通じて経高とともにあった。累代の吉川氏の崇敬を集め、神社は、盛大を極めていたが慶長六年(1601)、福島正則の社領没収により衰微していった。明治初年の写っく制度により社名も現在のものに改められた。

龍山神社にお参りしたのは3月の終わりだった。境内にはまだ雪が残っていた。

手水舎

拝殿

本殿

現在の本殿は永禄元年(1558)吉川元治によって再建されたもので、国の重要文化財に子弟されている。

摂社の治功神社は元亀四年(1573)に元春の養父興経を奉斎するために元春が創建した。冶功神社には境内にあった摂末社、琴平社、稲荷社、八栄神社が大正二年に合祀されている。

重要文化財なので、24時間管理の消防設備がある。

広島県の県北を歩くと、毛利一族の往時の勢力を偲ぶことができる。特に北広島町一角には吉川元春の権勢を偲ぶ遺跡が整備されている。この地を歩くのが好きだ。あの時、天下を取ることができた毛利元就は天下を望まなかった。両川の二人も天下を望むよりも毛利家の永続的繁栄を望んだ。孫の輝元が叔父への反抗から歴史の歯車を狂わせたのだ。

 

三原駅から県道55号線を尾道IC方面に進み、三原バイパスの中之町I.Cを過ぎると大きな鳥居が見えてくる。瀧宮神社だ。

 

欽明天皇5年(554)2月、天地が鳴動し、桜山の頂上に瑞雲が現れた。木梨の里熊と言うものが須佐之嗚尊の御降臨であると占った。桜山の中腹に社を建立し、須佐之嗚尊を奉斎し、桜宮と号した。桜山中腹に神跡の古字が存在する。大宝元年(701)出雲須佐国造を請じて、桜山の奥、八雲路山の峡瀧のある所に、遷座し、瀧宮と改称した。延暦22年(803)6月の大洪水により、シャチが崩れ、現在地に流出した。現在の神域はその時の大洪水によるものだ。

二の鳥居を進む。

随神門

拝殿

本殿

文明6年(1474)鷲尾城主杉原又太郎信平が本殿を再建し、小早川春平の祈願所になった。三原城築城にあたり、城内小島にあった稲荷社を境内に遷座し、小島稲荷社として祀られた。

小早川隆景は祈願所として社領を寄せ、天正12年(1584)に本殿を修復した。寛政9年(1797)に本殿が再建され、慶応3年(1867)に修復されている。旧宮家、梨本宮、伏見宮、有栖川宮、華頂宮などの鬼神も受けている。

御祭神は須佐之嗚尊、相殿神として、奇稲田姫命、大穴牟遅神、少名毘古那神、多紀理比売命、市寸島比売命、多岐津比売命、瀬織津比売命の7柱が祀られている。

 

摂末社として、小島稲荷社のほかに、地神八社、天神社、風神社、荒神社、貴船社、伊那稲倉魂社、丹波社が祀られている。

 

かっては、旧可部線河戸駅から加計街道を朱越進んだところに、

拝殿を構えた神社があった。可部線の消滅とともに神社は廃れ、かろうじて、本殿だけが残っていた。今回の可部線の延伸で、この神社も見直され、修復された傷がさびしいけど、残されているのがうれしい。

 

 

拝殿にかっての面影はない。

本殿、痛々しいな。

祭神は神倭伊波礼毘古神、神武天皇のことだ。創祀年代は不詳だが、神武東征の折、この地に舟をつなぎ、居を求めたと伝えられていることにより創祀された。元々は大田川河畔にあttが、文化12年(1815)、現在地に遷座された。

近くに巨大な石灯籠がある。