井戸の街ー尾道

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尾道は井戸の街だ。路地裏には必ず、共同井戸がある。尾道は坂の街だ。坂の上から、釣瓶を下の井戸に落として水をくむ二階井戸もある。

尾道の井戸の文化を訪ねて」というウオーキングイベントも人気があるらしい。

尾道大学の学生が授業で探してみると70近い井戸が見つかったそうだ。

今回、僕は久保町と長瀬町を歩いた。

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尾道の井戸は共同井戸だった。何軒かの家の集まった一角に井戸がある。かっての生活の匂いを感じる。井戸の側には必ず祠が祀られている。この井戸に祀られているのは、集落の入り口で見かける六地蔵なんだろう。

尾道の井戸には名前がついている。先人たちがこの井戸を大事に守ってきた証しだ。

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井戸を探して、路地裏を歩くことも尾道を歩く楽しみの一つだ。

中には、秀吉献上の井戸等、由緒のある井戸もある。

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柳井には久しぶりに行った。

昭和59年 古市金屋地区が重要伝統的建造物群保存地区に選定 され、平成2年 柳井駅周辺地区を対象とした歴史的地区環境整備街路事業がスタートした。平成4年 古市金屋線まちかど広場の整備が完了、平成5年 柳井駅前から、都市計画道路が着工 された。平成7年 古市金屋線の電線地中化工事も完了した。 平成8年 柳井川が「ふるさとの川整備事業」に河川指定され、 身近なまちづくり支援街路事業(歴史的環境整備地区)としてスタートした。 平成16年には 都市計画道路も完成し、 平成19年 ふるさとの川整備事業柳井川本橋~三角橋間左岸(お散歩公園)も完成した。

この計画は柳井中央通商店街振興組合の若手理事により、マを伝統・歴史・文化・観光を活かした「白壁のある街づくり」として、柳井市全体の「街づくり」を市民、行政、関係機関にアピールし、幅広い協力と支援のもとに実施された街づくり事業だ。駅前広場の充実、開発ビル建設、道路幅20mに拡張、建物の形、色を白壁風に統一する等、当初、ビジョンで提示された計画が段階的に進行した。商店街活性化事業として、全国的にも注目された事業なのだ。白壁を街のキャラクターとして位置づけた計画に異を唱えるものではないが、以前の街の方が生活に隣接したものだった。今の街には夕暮れの団らんの灯りを感じられない。仕方のないことだとは思う。

柳井は好きな街だった。郷土玩具を収集していた僕にとっては、金魚提灯の街だった。

柳井土産は三角餅しかなかった時代だ。

 

今では、白壁の街の入り口となっている旧周防銀行の本店が街並み資料館になっている。

二階は松島詩子資料館で、一階は観光案内所になっている。

 
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金魚提灯は街のキャラクターになっている。金魚提灯は幕末のころ、柳井津金屋のさかい屋の熊谷林三郎が青森の「ねぶた」にヒントを得、伝統織物「柳井縞」の染料を用いて創始したといわれている。現在の姿になったのは、戦後、大島郡の上領芳宏が完成させ、広まっていった。

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今では、白壁の街に金魚提灯は欠かせないものになっている。

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柳井も路地の街なのだ。瀬戸内海の室津半島のつけ根部分に拓けた港町で、日本でも有数の日照時間の長さを誇る地域だ。穏やかな気候で、自然豊かな風土に恵まれている。柳井川の北側、古市金屋地区に残る町割りは、室町時代からのもので、約200mにわたり、街路に面して白壁と格子窓の家並みが続いている。
藩政時代には岩国藩のお納戸として栄え、産物を積んだ大八車が往来してにぎわった町で、間口が狭く、奥行きの長い建物は江戸時代の商家の造りで、各地に見られる。いわゆるうなぎの寝床だ。間口の広さで税を徴収していた間口税の時代だ。
 

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マンホールの蓋もかわいい。

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柳井は甘露醤油も有名だ。佐川醤油も有名な醸造元だ。天明年間、時の岩国藩主吉川公が柳井津に美味なる醤油有りと聞き、所望した。献上したところ、「甘露、甘露」と言われたことに名の起源がある。

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柳井のNTTは町の景観を損なわないように、赤白ではなく、青白に

塗装されている。

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柳井川に最初にかけられた橋が宝来橋だ。干拓された古開作と柳井津を結ぶ唯一の橋として、交通の要だった。商品は宝物で、その荷が来ることによって町が富むところから橋の名になった。

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宝来橋のたもとにあるお地蔵様が愛宕地蔵尊だ。宝暦10年(1760年)頃の建立と伝えられている。柳井は記録に残っているだけでも、江戸時代に大火の被害に四回会っている。愛宕権現を祀ることFで火事を防ごうとした。同時に、密集された街並みを防火対策に即した街並みに代えていった。その頃から、古市・金屋の街筋一帯が防火、盗難予防のために白壁土蔵造りの町並みになっていった。

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今回はあまり、ゆっくり、時間が取れなかった。柳井には多くの文化財も残されている。次回はゆっくりと歩いてみたい。

 

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哀愁の街~山口県下松駅前

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昭和の時代の下松の駅前ってよく覚えている。飲食店街や商店街があり、にぎやかな場所だった。戦前は塩田で栄え、戦後は塩田跡に重工業の工場が進出し、下松は重工業の臨海工業地帯コンビナートの中心地となった。その後、公害問題でコンビナート自体の存在が問題視され、企業は高度経済の象徴であった瀬戸内海を離れて行った。
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多くの乗降客で賑わった下松駅周辺から人は減少し、追い打ちをかけるように、その時、末武平野と言われた末武地区に大型ショッピングモールが進出し、駅前商店街から人が消えた。
下松市は補助金も使い、駅前を再開発した。リジューム計画と呼ばれ、全国から、視察する自治体が訪れた。確か、リジューム祭ってやったんだと思う。僕はリジューム=再生という意味で進む行政には違和感を感じていた。
広島の三原と一緒であることを意識する。正しい姿なのだろうか?
看板に往時の路地裏の町名がある。往時の街並みを彷彿できる一角もある。
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普門寺の昔のままの松は見事だ。遊龍の松ととでも名付ければいいと思う。

 

 

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僕は下松のリジューム開発は間違いだと思うのだが、往時の下松市民が納得したのだから仕方がない。
静かな街で唯一、行列ができるのがラーメン店の紅龍だ。
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今回、訪ねて、さびしかったのは恵比寿神社が降松神社に合祀される案内板を見た時だ。商店街、飲食街の象徴である恵比寿神社を守る人がいなくなったということだ。
この街は再開発で死んだのだ。
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大内氏ゆかりの妙見宮鷲頭寺もある街だ。街の再生は行政にまかせてはいけない。補助金という鼻先にぶら下げられた人参はゴール後、馬は食べられないのだ。

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下松駅から山陽線沿いに東へ歩くと五分くらいで高架が見えてくる。その向う側に青い屋根が見える。神社のような権現造りの屋根だ。

 

ここが、妙見宮鷲頭寺(ミョウケングウジュトウジ)だ。

真言宗御室派で、本尊は妙見大菩薩だ。開基以来、約1400年の歴史を持つ。

妙見大菩薩は大内氏の氏神とされる。

下松の地名の由来は、下松妙見縁起(大内氏実録)によると
推古天皇三年(595)9月18日、都濃郡鷲頭庄青柳浦の老松に大きな星が降りかかり、七日七夜の間、目もくらむばかりに光り輝いた。里の人は、これはただごとではないと恐れていた。その時、占星術師にお告げがあり、
「われは北辰の精である。今より三年の後、異国の太子が来朝される、その守護の為、ここに天降ったのである」と告げた。

里の人々は、急いで社を建てて、その星を北辰尊星王大菩薩として祀り、これを時の天皇に伝えた。
北辰の精が松の木に降ったというので、それまでの青柳浦を「降松」と改め、その後、今の「下松」と書くようになったといわれている。

この異国の太子とは百済王聖名の第三子、琳聖太子といい、大内氏の祖である。

大内氏の創作であることはわかるのだが、琳聖太子の古墳が防府に残されている。いずれにしても、大陸と、ここ山口のつながりが古代からあったことは事実なのだ。

鷲頭寺は、元は、『降松神社』の別当、閼伽井坊だった。あの維新政府の神仏分離令の際に、降松神社から現在地に移転した。ただ、神仏分離令に反するようなたたずまいがうれしい。この地は大内氏の地なのだ。

日本の節分祭発祥の地ともいわれている。降松神社は妙見信仰の発祥の地とも言われている。

毛利氏に滅ぼされた大内氏の地元に二つの発祥の地があることが大内氏のささやかな抵抗のように思える。

 

参道を歩く。寺院であることを忘れてしまう。

この参道にはかっては赤い鳥居が並び、両脇に土産物店も軒を連ねていた。今ではこの鍼灸院に名残がある。

参道を進むと仁王門がある。寺院だ。神仏混淆の時代を維新政府の暴挙を無視して、見事に伝えている。

随神門ではなく、仁王門であることを意識しなくてはならない。

今度は狛犬が迎えてくれる。

ここは神社ではなく、寺院なのだ。拝殿ではなく、ここは本堂なのだ。

境内社として、荒神社などもあり、亀の池もある。繰り返すがここは神社ではなく、寺なのだ。

周南七福神の大黒様が祀られていることでも有名な寺だ。1 月7日は一粒万倍の日として賑わう。

 

 

 

 

どぶ板通りの山の手、聖ヨゼフ病院の側に諏訪大神社は鎮座してる。米軍人向けの案内板が基地の街横須賀らしい。

狛犬がレイダーズっぽいのがうれしい。弘化三年の寄進だ。

高い石段の参道を進む。

手水舎

拝殿、寄灯籠がある。

本殿


諏訪神社であるので、主祭神は、健御名方命で事代主命他五柱が祭神として祀られている。
大鳥神社、稲荷社、天王宮、伊勢皇大神宮、東照宮、天満宮他が摂末社として、勧請されている。
由緒によると、

康暦2年(1380)足利義満の頃、三浦貞宗が横須賀の鎮守として、長峯城の城口当る当地古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請した。
三浦貞宗が中心になり城下の横須賀村の人々によって祭られていたが、三浦氏滅亡後、祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。慶長8年(1603)、徳川家康の将軍宣下後、慶長11年(1606)、代官長谷川三郎兵衛の発起で村の人々により、社殿・境内の大改修を行い農漁の守護神として崇敬を受け、以来永く代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所に指定された。

その後、村の民衆もまた神社や境内を整備し祭祀を怠らなかった。明治以来も崇敬を受け、明治6年12月、村社になり、明治40年4月30日、幣帛供進指定社となった。
昭和3年5月21日、郷社に昇格した。更に昭和17年、内務省神祇院十七総第二号通牒を以って、県社昇格の内許をうけ氏子で指定改築工事中に終戦となった。
戦後は、宗教法人となり、昭和22年5月16日、氏子会が発足し、氏子の手によって維持されている。

基地の街、横須賀が好きだ。横須賀は基地の街になる以前にも海とともにあった。横須賀を訪れるときには横須賀の歴史も意識しするべきだ。基地の街の在り様を意識するとともに、三浦一族の歴史も包含した横須賀を意識してほしい。

横須賀駅前の若松マーケットは懐かしい場所だ。戦後の闇市を母体とするこのマーケットは僕が東京にいた頃には、まだ、危ない場所で、路地裏には犯罪の匂いがした。日出町や黄金町同様、昭和の闇の部分も包含した街だった。そんな街が大好きな僕は、京浜急行で、時々、訪ねた。どぶ板通りも猥雑な街だった時代だ。その中にあった鳥居はよく覚えている。

この神社の由緒なんて、当時は思いすらしなかった。

由緒によれば、

正親町天皇の御宇天正元年(1573)3月12日信濃國諏訪明神の御分霊を勧請すとある。享和元年(1801)8月本殿・拝殿の造替があり、現在の社殿は大正12年に造営されたものである。

往古、当社は三浦郡横須賀村中横須賀瀧(現在の下町商店街地区)にあり、後背の丘陵海中に聳立し遙かに江戸湾を一望に収め波浪の響常に絶えずという環境にあり、散在せる住民は専ら漁業を以て生計となし、依って当社も漁業の守護神として崇敬を聚めた。

明治の御代に至り横須賀軍港の設置に伴い転入者の逐年増加する趨勢となったため付近の山崖を切崩し埋立てることになり当社の存置が危ぶまれたが、3人の篤志家が所有地を寄進し社殿を奉遷したのが現在地である。

因みにこの付近一帯の埋立て工事は主に高橋勝七氏によって施工されたため、その屋号若松屋から若松町と名付けられた。

大正11年5月村社に列格、更に同年9月神饌幣帛料を供進すべき神社に指定された。爾来、横須賀市の中心たる下町商業地域の中核をなす神社として御神威弥高く、殊に5月の例祭と11月の酉の市(境内社大鷲神社の例祭)は下町の風物詩として広く市民に知られている。

東京にいた時には。浅草の鷲神社、新宿の花園神社とともに、酉の市の神社として、知られていたことを覚えている。

手水舎

拝殿

本殿

水天宮

神輿庫

夕刻の若松マーケットはまだ、眠っていた。今度はゆっくり訪ねてみたいな。30年くらい前に初めて訪れたラビリンスのような街では中鳴っているのだろうけれど。

 

 

法圓寺を訪ねたのは、広島城京口御門のものと言われている門扉を見るためだった。

縁起によると、浄土真宗本願寺派、龍巌院丹和山法圓寺(りゅうがんいんたんわざんほうえんじ)は。かっては禅宗で小山村金山(現吉田町小山の山林)にあったと伝えられている。
その後、丹後の国の浪士善秀がこの寺に来て、剃髪し、俗名をそ善秀と称した。天文二年(1533)春、善秀は改宗して浄土真宗に帰依し、当山の開基となった。またこの年に、諸人の参詣の便をはかって、この竹原の地に一宇を建立して龍巌院丹和山霊山寺(りょうぜんじ)と号した。善秀40才の春であった。


同年、郡山城主毛利元就は38才、第三子隆景が誕生した年でもあった。天文九年以降毛利と尼子勢の戦闘が激化し、この地は主戦場となった。善秀60才の時、本願寺では浄土真宗中興の祖、第八世蓮如上人が遷化されている。
善秀が上京し、本山に詣でたとき、時の門主、第十世証如上人は善秀を見て。「そこなる異形の僧は誰ぞ」と問われた。善秀は「芸州の僧善秀にござりまする」と答えた。善秀はそのころ、長髪にして文字どおりの異形の僧であったと伝えられている。善秀の証如上人への帰依心は厚く、上人もまた特異なキャラクターの彼を愛して十字の尊号をたまわられた。
伝説によれば善秀が丹後から芸州へ下向の際に狐を伴に連れて来たという。近年まで丹後狐の穴というのが寺の裏の竹薮の中にあったというし、土地の古老は丹後狐という言葉をよく覚えている。。

霊山寺法圓寺に変えたのは明治初年のころと言われている。

現在、この霊山という名は住職の苗字に残っている。現在の住職の名は霊山 維透(よしやま これみち)さんと言う。

浄土真宗の寺としては珍しい異形の開基を擁するとともにこの寺が広島にとって重要なのは前述したように江戸時代の広島城の京口門の門扉を有することだ。

明治維新政府にとって、城は必要のないものだった。現在の住職の曽祖父十四世住職諦念が広島に住んでいた時に、八丁堀で売りに出されていたものを買って帰り、門扉に合わせ、明治14年に山門を建てた。ただ、いくらで買ったか、なぜ、京口門の門扉が売りに出されたかははっきり、記録が残っていない。明治新政府は国内に約n260あった城郭を撮り壊し、廃材として、売ってしまった。国宝姫路城のように、その暴挙を食い止めようとした活動で、今の城郭が残されたのだ。太平洋戦争の空襲で、焼け落ちた城も戦後、復興され、城下町のシンボルとなった。明治維新政府は幕藩体制の象徴である城を壊すことで、新しい時代を告げようとしたのだ。どこかの国と同じだ。日本の文化を消し去ろうとした維新政府が大嫌いなのだ。

勝海舟が求めに応じ、維新政府に参加していたら、今の日本と違う姿があったはずなのだが、くやんでもしょうがない。

広島城は櫓や門の大半が明治初年には解体されて、売りに出された。

法圓寺の境内を歩いた。瓦に浅野家の家紋『丸に違い鷹の羽』があった。

水琴窟

舌を出した鬼瓦が面白い。


 僕の先祖も輝元とともに吉田から浩に来て、寺を築いたと聞いた。郡山城下町とと広島城下町はひとっつの線上に存在すると思っている。

品川駅の高輪側、多くの人が行き交う場所に高山稲荷は鎮座している。通行人h、あまり、関心を示さないが、時々、道路kら、参拝する人もいる。

手水舎(昭和4年奉納)

拝殿

本殿

由緒によると、

室町・戦国期に京都・伏見稲荷大社の御分霊、正一位福聚稲荷大明神を勧請し創建したと伝えられている。
旧社地は二百数十段の石段を上る海岸線沿いの小高い丘陵上に置かれたことから「高山」と号した。
高輪南町・下高輪町の鎮守で、江戸名所図会・三巻には「高山稲荷社」として当時の風景が描かれている。
明治5年、旧社地を含めた旧久留米藩邸跡地に毛利公爵邸が建設されることになり、毛利家より替地の寄進があり現在地へ遷座された。
大正12年の関東大震災後、国道の拡張に伴い社地が削られ、北から南へ伸びていた参道も現在の形に移動された。
昭和6年9月、現社殿が造営され、昭和63年には鳥居・屋根の改修が行われている。

この狛犬は慶應元年(1865)9月寄進のものだ。

由緒によると、明治天皇が東京遷都に伴う東幸に際し当所で御休息・御野立をなされたとある。
明治5年に旧毛利公邸が建てられた場所が社地後方で、プリンスホテルがあるところだ。
毛利家の江戸屋敷は幕府に没収・破壊されていたことから、明治維新後に旧久留米藩邸地約1万7千坪が下賜され、高輪邸(常磐邸)が建てられ田のだ。
この毛利公邸には明治6年5月、明治天皇が行幸され、明治7年5月には昭憲皇太后・英照皇太后が行啓されている。

 

境内に港区登録有形民俗文化財の石燈籠(おしゃもじさま)がある。
石神横町(現・高輪3丁目)に鎮座していた石神社(釈地大明神、釈神社とも)が明治以降、遷座してきたと。いう。
教育委員会の説明文には、実はもともと切支丹灯籠であり、高輪海岸で処刑された外国人宣教師の供養のために造立された、また海中より出土したなどの説に触れられている。

このあたりは、元々は、海だった。今では往時の風景を想像だにできないが、神社を通して、漁村であった品川を見ることができる。

枝宮八幡宮は、古くから「三輪庄大麻三荘鎮守枝宮」とあがめられた神社だ。現在の本殿は、安土桃山時代の武将 吉川元春・元長父子によって再建されたものである。

僕が参拝したのは、今年の4/27~4/29に大朝一帯で行われた

あーとふる大朝の期間だった。この古社も会場になっていた。

保存に尽力するよりも、時代に即応し、古社を存在させるこのイベントが好きなのだ。

参道を進む。

狛犬は応安7年(1374)に寄進されたもので、県の指定文化財だ。

拝殿

由緒に『徳治元年(1306)源氏の子孫、小田八郎左衛門尉国信が出雲国神門郡誉田八幡宮より、勧請仕り、安芸国江田宮に斎祀す』とある。

本殿

現在の本殿は棟札により、吉川元春・元長親子が天正三年(1575)に寄進したことがわかっている。

あーとふる大朝の展示が拝殿内で行われていた。

祭神は足仲津彦命、息長足姫命、誉田別命で相殿神は大年神

須佐男命、市杵島媛命だ。

摂末社は賀茂神社、稲荷神社、金屋子神社が勧請されている。

本殿裏手には古墳群がある。この近くが古代から重要な地であったことがわかる。

 

 

富海は古くからの漁港で旧山陽道では重要な宿場町だった。独特の高速漁船「飛舟」を操りm瀬戸内海を縦横無尽に駆け回った富海の漁師は維新の志士たちを助け、維新に貢献したことでも知られている。

この地に鎮座している国津姫神社を訪ねた。

富海漁港から参道は続いている。

由緒によると、白鳳時代(673~710)富海の人たちにより、海岸守護のため、宗像三女神(田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命)を岡の宮にj祠を建て、祀ったことを起源とされている。
宗像三女神は天照大神の同体分身の天津神で、豊葦原の中津国宇佐島に天降り厳島に鎮座、水徳の神といわれ、いづれの地でも海辺にて尊崇され、祀られている。

 

 景行天皇の御宇十二年(742)秋、皇軍が筑紫の熊襲征伐の途中、周防娑婆に至るとき富海防府の地一帯に多くの部衆を有する女酋神夏磯姫なる物が居て勅使に帰順の意を表したが、なお、残賊として佐波川上流あたりに皇命に反する者があったので、それらを速やかに平定し復命したと日本書紀にある。

 

 周防娑婆一円を領した女大酋長「神夏磯姫」を推古天皇の御字に、先の天津神に対し、国津神として祀られた。 

女帝推古天皇の御代に女神四神が祀られているこの神社の時代の在り様を意識したい。

神橋を通り、二の鳥居に向かう。

手水舎

神額

参道を進む

狛犬

拝殿

本殿

摂末社の詳細が残念ながら不明だ。


 弘治3年(1557)の、毛利と大内の戦いで富海の戸田山・石原・脇は戦禍に巻き込まれ国津姫神社の社殿も社坊も戦火に遭遇した。毛利元就は、日頃から崇敬する厳島神社と同じ祭神であることを知り、6年後の永禄六年(1563)に社殿を修築した。
 修築した社殿の棟札に、「最初建立、承平五年(995)乙未至今及三百余歳・・・」と書かれていたと富海村史にある。

明治6年に富海小学校が境内に設置されたなどの記事が載せられている。ここなのかな。

富海には静かな時が流れていた。今では静かな漁村であった時代を取り戻しているが、確かに、上古以来、歴史の表舞台に登場してきた場所なのだ。