忘れ去られた神社『大神社』~広島市東区二葉の里 | 大根役者

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広島市の歴史は二葉山から始まった。『二葉の里歴史の散歩道』整備、広報活動の予算を計上していることを僕は英断として評価する。1945.8.6以前に行政が目を向ける意思表示をしているとして評価する。

ただ、この散歩道に欠かせない神社が欠如していることを僕は指摘したい。広島県神社庁が神社誌に掲載している重要な神社はこの散歩道のコースには入っていない。

大神社は東照宮に隣接した神社で、二葉山で一番古い神社なのだ。この神社抜きに輝元の広島城下建設もあり得なかった。地主神社なのだ。

元は黒髪山地主大明神と号した。二葉山の名前は元々は尾長山といったがその前は黒髪山と言った。この由来は興味深い。二葉山の下まで往時は海だった。その海に黒い大蛇が出没していた。その大蛇は頭は海中にあり、尾は山にとぐろを巻いていた。尾長の地名はそこから来ている。この大蛇は海上で難破している船の船員を救助した。人々はこの大蛇を黒神として祀り、神殿を建立した。黒神が現れるとき、あたりは霞に覆われた。この山の別名を霞山ということもある。

平清盛が音戸の瀬戸を開くときに黒神の霊験がり、久寿年間(1154~56)に神殿を再建し、黒神を地主尾長大神と号し、神田も献上したと記録にある。承久年間(1119~22)には安芸守護武田信光が本殿を再建し、文和年間(1352~6)に武田氏は峯姫神社の天照大御神と宇迦之御魂神を合祀し、天神宮と併せ、銀山城の守護神として、家臣串家に祀らせた。

武田氏の滅亡後、毛利元就は大神社、天神宮の神主を渡辺家に命じ、天正年間(1573~92)には毛利輝元は社領を寄進している。慶安元年(1648)浅野光晟が東照宮を造営した際には相殿とされたが明治2年には分社し、東照宮の西に境内地が設けられた。


由緒も明確な歴史のある神社だ。

にもかかわらず、その現状は

参道入り口にはチェーンが張ってある。

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急坂を進むと標柱、手水が見えてくる。雑草に覆われている。参拝客が訪れていないことがうかがえる。



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狛犬、石灯籠、一間造りの本殿が見える。原爆で社殿等すべてを焼失したのだが、本殿だけは再興されたのだろう。本殿前に雑草に覆われた石畳の参道が確認できる。

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大神社は先述したように、尾長天満宮の渡辺家が管理しているはずだ。明確な由緒が残り、昭和の終わりには再建計画もあった。何故、荒れ果てたままにしているのだろうか。今度、機会があったら、渡辺さんに聞いてみよう。

広島市もこの由緒ある神社に光を当てるべきだ。

参道を歩くときに気になった場所があった。建物の後だ。被爆時に第二総軍司令官は畑元帥だった。官邸は東照宮の西隣にあった元英国大使 松木勝太郎の別荘だった。広島の第一報は畑の命令で無傷であった馬木の送信所から中央に送られた。

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この建物がそうだったのかはわからないが、被爆時の第二総軍の官邸は歴史遺産だと思うのだが、広島市は第五師団、第二総軍の史跡を史跡と認めたくはないようだ。

閑話休題、大神社の再建に関しては、周りの人から興味深い話しも聞いた。この場所で自殺をした人がいたそうで、それ以来、人が近づかないようだ。だけど、お祓いをして、供養して、神社の再建を実現できれば死者も浮かばれる。

大神社の再建を祈っている。神社の祭礼日は10月9日だ。渡辺宮司は明日、お参りをするのだろうか?