漢字の話 | マキオカのネイチャーな日々

マキオカのネイチャーな日々

山梨県の牧丘に手作りの2区画だけのキャンプ場を作りました。

広い空には満天の星。
ティピィの煙突からはバーベキューのけむりと笑い声。
ハイジのブランコは空まで届きそう。

いるだけで気持ちが和んでいく。そんな不思議なキャンプ場から贈ります。

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

やっと春めいてきましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

それにつけても、かつて現代ほど人によって見えるものが違う時代ってあったのでしょうか。

例えば、このうららかな今日という日を、いつもと変わりない日常ととらえる人もいれば、高濃度の放射能、PM2.5とその他もろもろが高い数値が出ていると絶望的な思いで心配する人もいれば、「銀河連合の宇宙船が、大編隊を組んで地球を取り囲んでいる」「その存在が地球が抱えている問題をあっという間に解決してくれる」と信じている人もいる・・。

よく「引き寄せの法則」とか言うけど、あれは真実ですな。
その人が好きな情報は目に飛び込んでくるけれど、気に入らない情報は「あれは嘘」と思い込むわけだから。
そしてその「人によって異なる世界の様相」の違いは、年を追うごとにどんどん広がっているような気がする。

わたしが中学3年の時に「ノストラダムスの大予言」が流行った。
友人と一緒に貪るように読み、自分たちが迎えるであろう未来に絶望し「あと26年したら人類は滅んじゃうんだ。だったら今の内に美味しいモノをたらふく食べよう。(え、そこ?)」と今のわたしに通じるサモシサと短絡的思考で、学校帰りに寄り道しては、食べ歩きをしたものだった・・。

が。
現在のわたし達が置かれている状況を鑑みるとカワイイものですな、あの頃の「絶望」なんて。
まさかこんなSFチックな世界になるとはあの頃誰が想像しただろうか・・。

それはともかく。

2月5日の「いわゆる陰謀論(1)」の中で、漢字の「氣」について触れました。

FBで教えてもらった「GHQの占領政策の際に「氣→気」に変えて日本人の精神性を劣化させた。气にメというのは、天地のエネルギーを閉じ込める意味があり、人間に備わった潜在能力の封印という意味もある。」という説を載せ「これから気ではなく氣を使いまくるぞ、と固く心に誓った」はずなのに。

その後のブログを読むと「気」を使いまくり「氣」に変換していないじゃないですかあ。

その事実に氣が付き、うな垂れるわたし。

これをお読みになった方はさぞかし「忘れっぽくボケたおばさん」に苦笑されたことだろう。
せっかくのイイ話も豚に真珠、 馬の耳に念仏 。

しかも『「気」という漢字を使っていたら、知らず知らずの内に自らの才能や可能性を閉じ込めてしまう恐ろしい文字』とも書いてある。

道理で才能、開花しないはずだよ。
っつうか、才能以前に、ちょっと前に自分が書いた文章も忘れてしまうボケた脳がコワい。

「氣」について教えてくれた方のFBのウォールでは、別の漢字についても言及していた。

特に氣になった漢字が「體」。
『「体」の本来の漢字は「體」であり、漢字の簡略化による日本人の肉体の弱体化を狙った曰く付きの漢字であり、見事に成功している事実がある。
なのでわたしは本来の漢字である體を使うように心がけている。體は本来、体で訳せるほど単純ではない。』
とある。

「語彙辞典」で調べてみると
『「骨」は上部の骨格を示す象形文字に肉を下に加えたもので、なおも芯の存すること。
「豊」は器に穀物を盛った象形文字で、供え物が豊穣な様を示す。
「體」は全体を自然なる形として成立させる根本であり、かつ、形として生じている様を示すことになる。
故に使い方によって表面的な意味と本質・本体を示す意味の二通りを取ることができる。』
と書いてあった。

で、ちょっとオソロシイと思ったのはYahoo知恵袋にあったこの文章。
『手許の『新字源』には、「体」について「人と音符本(ホン)とから成り、そまつの意をあらわす。俗に體の略字として誤用されていた。
もともとあった、全く違う意味の「体」という字を、間違って略字として使っていたことによるみたいです。』

間違って略字として使ったって・・。
「そまつの意」の字をわざわざ?

むう、期せずしてまたもやインボーの臭いが。

はっ、いかん、いかん。
世間の常識ある方々に「またそんなこと言い出して。」と呆れられてしまう。

さらに「子供」という漢字についてもこんな話が。

『子どもを漢字で子供と書く人間は即刻やめてほしい。
「供」という漢字がふさわしくないとする理由は、お供(とも)」「供奉(グブ)」などというように、従属や隷属を意味するから、あるいは「○○ども」と複数の集団をさげすんで呼ぶいい方に使うからであるのも理由だが、供には供養の意味があり、逆さ仏の意味があるからである。』

な、なんですか。「逆さ仏」って。
コワいじゃないですかあ!

えーと、「氣」と「體」と「子ども」、ですね。

これぐらいにしておこう。
たった一つの漢字さえ変換できていなかった「忘れっぽくボケたおばさん」にはこれ以上は荷が重い。

「漢字には言霊というエネルギーが宿り、知らず知らずの内にそうした意味に引っ張られて生活をすることになる。」という話は何やら説得力がありオソロシイ。

わたしのことだから、これからも変換し忘れてしまうことが多々あるかもしれないけど、できるだけ変えていこう。

「意識する」ということが大事なのではないか、と思うから。


つづく