今日は英語のお勉強はお休みして音楽、それも詩のお話です。

荒井由実は当初はフォークシンガーであり、もうちょっと進んだ目で見ればニューミュージック系でした。歌詞はもっと泥臭くて、自然のこと、季節のことがあちこちにちりばめられていました。

美大に通っていただけあって色の感覚も鋭いのです。もちろん、そこには時代的な背景もあって、彼女が生まれ育って通学した地域も当時自然が豊富にあった武蔵野なのです。

そんな彼女の歌詞の特徴が一番出ているのが「14番目の月」というアルバムに収録されている
「晩夏(ひとりの季節)」という唄です。その歌詞はこうです。

ゆく夏に 名残る暑さは
夕暮れを吸って燃え立つ葉鶏頭
秋風の心細さは コスモス

何もかも捨てたい恋が あったのに
不安な夢があったのに
いつかしら 時のどこかへ置き去り

空色は水色に 茜は紅(くれない)に
やがて来る淋しい季節が 恋人なの

丘の上 銀河の降りるグラウンドに
子どもの声は犬の名を くりかえし
ふもとの町へ 帰る

藍色は群青に 薄暮は紫に
ふるさとは深いしじまに 輝きだす
輝きだす


田舎で育ったひとなら誰でも思い出す自然が実に絶妙に言葉にされています。

秋風の心細さ、、
それとは対照的な、でも少し淡い色のコスモス

夕暮れが迫って刻一刻暗くなっていくグラウンドにこだます子どもの声。
その声は犬を呼んでいる。

特に注目すべきは色の表現です。
今どき群青色、、なんてわかるひといるでしょうか?
紅(くれない)ってどんな色?

確かに、地平線まで見える場所で夕暮れを見たことがあるひとなら、空の色が水色に、そしてそれがもっと濃くなって黒に近い青になっていく情景って記憶にあるはずです。どんな恋だったのかはわからないけど、その恋がすでに終わってしまっている。秋の深まりとともに、それを五感で感じている様子が手に取るようにわかります。

もうひとつ、荒井由実の自然の観察眼が鋭い事例があります。

「雨のステイション」という名曲のこのくだり

霧深い街の通りを
かすめ飛ぶ ツバメが好きよ


この唄は都会の梅雨どき、6月が舞台です。
雨の駅で別れた彼の姿を追ってしまう気持ちを、文字通りしっとりと唄っています。

さて、ポイントは
通りをかすめ飛ぶツバメです。

そう言われてみれば
ツバメってひとの頭の上ぐらいの高さを飛ぶときがあります。
それには理由があるのだそうです。

ツバメは普段空中に浮遊する小さな昆虫を食べているんです。つまり、高速で飛びながら餌を捕食しているのです。実はその飛行の高さが空気中の湿気と関係があります。湿気が高いと空気は当然水気を含んで重たくなります。すると空中に浮遊している昆虫たちは重たい空気に押されて低いところに移動するのです。すると、その昆虫たちを狙うツバメたちも低く飛ぶ、というのです。

まさか荒井由実はそんな生物学的な知識をもとにこの歌詞を書いたとは思えません。
今日はツバメがやたら低く飛ぶなあ、と思っていたんでしょうね。

荒井由実は後に自身をプロデュースしてくれる松任谷正隆氏と結婚し、松任谷由実になります。大学キャンパスのレジャー化と伴ってバブル期に至る時流に乗って、その曲調と歌詞と共に恋愛カリスマのような存在になって行きます。しかし、元々は東京の郊外&田舎という、いい意味で中途半端な自然環境と洗練された都会との絶妙な距離感を持っていました。私がiPodで選曲するときに、松任谷由実ではなく荒井由実の方を選んでしまうのは、子どもの頃によく遊んだ堤防で吸った空気や眺めた夕日が懐かしいからでしょうか。

荒井由実時代のサウンドはアルバム毎に趣向が変わり、荒削りで落ち着きのないところがたくさんあります。しかし、歌詞をじっくり聴き込んでみると、作曲者としてよりも詩人としての素晴らしい才能の持ち主であったことがよくわかります。

もうひとつ、その上で素晴らしいのが、ことばをメロディーに乗せるセンスです。
日本語というのはもともとポップスやロックとは非常に相性の悪い言葉です。英語のように子音でできた言葉と違い、全てが母音に落ち着く日本語は作曲家にとってはメロディーを殺してしまう天敵だと言っても過言ではありません。その点、この荒井由美という天才は70年代のシンガーソングライターの誰もが悩み苦しんだ日本語とポップスという問題を実にサラリと解決してみせています。

代表的な例として「卒業写真」の2番目の歌詞を見てみましょう。

話しかけるように
揺れる柳の下を

通った道さえ今はもう
電車から見るだけ


私はこの曲のこの部分の歌詞が大好きなんですが、理由はまさに大きくゆっくりと、まるで学生たちを見守るように揺れる柳の姿を言葉にして、本当に揺れるようなメロディーに上手に乗せているからです。
唄われているような書き方に換えてみますね。

はなーしいー 
かけーるうー
よおーにいー

ゆれーるうー
やなーぎのしたーをー


普通ならば、どんなに工夫をしても日本語はメロディーを邪魔するものです。
でもこの曲では全くそういうところがない。それどころか、大きく揺れる柳のたくさんの枝がたれさがって、歌詞のとおり、まるで下を通う学生たちに話しかけている情景がイントネーションでしっかり表現されていませんか?

ただ日本語が旨くメロディーに乗っけられているだけではなく、その意味や語感さえもしっかりメロディーとシンクロしている、、。ほとんど職人技です。
70年代のニューミュージック系のミュージシャンたちは、この究極の問題については歌詞をとるか、曲をとるか、という選択肢しかありませんでした。古過ぎてピンと来ないかもしれませんが、同じ福岡出身の井上陽水とチューリップ。もちろん曲想から何からまったく相容れない存在でしたが、明らかに前者は歌詞重視であり後者は曲重視でした。

荒井由実の歌詞そのものには、そこまで重たいメッセージ性が必要とされていなかった、というアドバンテージはありますが、日本語はいくらひらがな言葉だけで歌詞にしても、サウンドとイントネーション的には根本的な解決にはならないのです。

荒井由実は実家が呉服屋さんだったためか、日本的な御稽古毎をやっていたようで、三味線で都都逸のようなものを習わされていたそうです。彼女が日本語をメロディーや音楽のリズムに乗せるのが上手な理由は、ひょっとするとそんな素質にあるのかもしれません。