【耳ふさいでて】
(47)【沢田知可子と吉田山田の眩しい闇】
(47)【沢田知可子と吉田山田の眩しい闇】
ちょっと、困っている。
吉田山田に困っている。
異例のロングセールス楽曲『日々』。
『日々』は、年老いた夫婦が歩んできた「長い道のり」を、優しい音楽で表現する楽曲。ホント、優しい。
まず、イントロ。アコースティックギターの独奏。音数少ない。スキマだらけな情報量の少なさが心に優しい。そして、「♪おじいさんが~」と歌いだす歌詞は簡単な言葉で淡々と状況を描写する。中途半端な主観なんか入れない。すぐにサビに到達する構成も簡潔だ。もったいぶったスケベ心が無い感じ。優しい。(『みんなのうた』で放映するために尺の制限があったのかもしれない。あ、この楽曲、NHKの『みんなのうた』で紹介されたんです。)
2コーラス目からドラムスとウッドベースとストリングスが入ってくるのだけれども、基本的な音響感に変化は無い。全部がアコースティック。オーガニックな感じ、っつうの?
でもね、
事実として言うけど、歌詞と楽曲(メロディ構成やアレンジ)ならば、いかようにも作ることが可能だ。優しい歌詞も優しいメロディも優しいアレンジも意図的に作ることができる。そんなもん《作為》だけでできる。
事実として言うけど、歌詞と楽曲(メロディ構成やアレンジ)ならば、いかようにも作ることが可能だ。優しい歌詞も優しいメロディも優しいアレンジも意図的に作ることができる。そんなもん《作為》だけでできる。
きっと、吉田山田に続いて"似たようなの"が出てくるはずだから、そいつらの"二番煎じ楽曲"を聴けば僕の言う《作為》の意味がわかってもらえると思う。
もう一度言うけれども、「現象としての優しさ」は人工的に成形することができる。そーいうのを「マーケティング」って言うんだ。
もう一度言うけれども、「現象としての優しさ」は人工的に成形することができる。そーいうのを「マーケティング」って言うんだ。
でもね、吉田山田にマーケティング感は無い。人工感も。作為感も。
それは、当人達を見ればわかる。
まず、ギターを弾いていない方の人。楽曲にそぐわない金髪。この人が1コーラス目を歌う。
声は細いけれども歌詞を伝えるためにハッキリと口を開けハッキリと発声する歌唱がたまらなくフェミニンな感じ。上手・下手を超えている。声が高くて中性的。自分の声を前歯にぶつけて声がもつ"衝撃成分"をやわらげてからリスナーの耳にサラサラと運んであげる、といった感じの「過剰な配慮」が効いた歌唱。オルゴールがどんな楽曲をもやわらげて音量を絞る感じとも似ている。
そんでギターを弾いている方の人は2コーラス目を担当。ちょいアフロな黒髪と顎髭。これはこれで楽曲にそぐわない。スキマスイッチみたいで。
で、こっちの人はもう少し男性的。前の人と比べると「あれ?キーが変わった?」と思えるくらいに甲高い感じが後退(同時にフェミニンな要素も後退)。きっと大きな声(シャウトとか)も出るのだろうけど抑えている感じ。
で、こっちの人はもう少し男性的。前の人と比べると「あれ?キーが変わった?」と思えるくらいに甲高い感じが後退(同時にフェミニンな要素も後退)。きっと大きな声(シャウトとか)も出るのだろうけど抑えている感じ。
PVを観ると、二人とも歌う時の表情がすごい。
楽曲の過剰な《神聖》に仕えている感じ。神主が神に仕えるように。そして、客観口調で語る歌詞において「語り部」の役割を負うことに心から満足している感じ。そして、彼等自身が歌詞の中の老夫婦に深く見入っている感じ。そーいうスタンスで、彼等の自我が消えている感じ。リスナーの心に浮かぶ情景(歌詞が喚起する世界観)を邪魔しないために、自分を風のようにふんわりさせているような。そんな彼等の顔に「薄く浮かぶ笑み」は彼等の精神の過剰な安定を示すし、リスナーの一人ひとりと見つめ合えていることを確信しているようにカメラを見つめる眼差しには宗教性を感じる。
、
吉田山田の『日々』には犯すことのできない《聖性》がある。
それに比べて…
『日々』の後で聴く『トイレの神様』の《聖性》は脆弱だ。続けて聴いてみ。
いやぁ、《作為》があるなぁ『トイレの神様』…。歌い手(植村花菜)の人格が見え過ぎる点で《聖性》も低い。そもそも、関西弁のところが僕はちょっと。世間によくある「関西弁を直さないことの純粋性」みたいなものをつきつけられる感じがちょっと(aikoとか倖田來未とか大塚愛とかに感じるアレね…)。そこに歌い手の自我があるね。その分、《聖性》が薄いね。
いや、でも、『トイレの神様/植村花菜』の方が『日々/吉田山田』よりも"人間味"があるわ。ちゃんと、《この世》に踏みとどまっている。《来世》に往っちゃってない。
えと、だから、ごめんなさい。
僕、吉田山田の『日々』の良さがよくわからない。『トイレの神様』もよくわからなかったけど。それ以上にわからない。何度聴いても。なんか実態感が無くて。まだ泣けてないんです。だから困ってる。ごめんなさい。
そして、沢田知可子…。
高い《聖性》を誇った楽曲『会いたい』を巡り作詞家(沢ちひろ)が訴えを起こした。
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ねぇ、ちょっと耳ふさいでて。
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訴えの要点は3つ。
(1)作詞家が死別した母を想って書いた歌詞を歌い手である沢田が"さも自分の体験談"のように語ったこと。
(2)バラエティー番組で沢田が替え歌を歌ったこと。その内容が「ヒット曲を1曲出しても生活が安定しない」という内容だったこと。
(3)リメイクバージョンのタイトルと歌詞が一部変更されていること。
『会いたい』⇒『会いたい with INSPi』 ※INSPiはアカペラグループの名称。
『会いたい』⇒『会いたい with INSPi』 ※INSPiはアカペラグループの名称。
うーん、どれも「個人的な受け止め方」の問題だなぁ。
歌詞の内容は最終的には「お母さんの死別」とは関係ないフィクションに仕上がったのだから、それを歌い手が「自分の体験」と重ね合わせることには何の問題もない。音楽表現の性質上、リスナーは否応なしに「沢田の実体験ソング」と錯覚させられるのは自然の成り行きだから(それを狙ってもいるはずだし)、歌い手が独自の思い入れを持つことはメリットでしかない。例えば、美空ひばりの『悲しい酒』や中森明菜の『難破船』を当時のひばりや明菜の事情(離婚や破局)と直結した「実体験」としてリスナーに咀嚼させていた事例と同様。そう、確信犯です。それもマーケティングね。
しかも、聞くところによれば『会いたい』は「『一杯のかけそば』みたいな感動の歌詞で!」と作詞をオファーされたんだって?(←めちゃくちゃマーケティング!) なんでぇ、最初から完全に作為的なんじゃねーか。
…ってことは、替え歌も同様。いかにも沢田知可子の実生活であるように作られた「オチャラケの歌詞」を本人が歌ってリスナーに「実体験」であるように錯覚させた、と。しかも、揶揄されたのはオリジナルの歌詞でなく、沢田本人だから、作詞家には被害が無い。
タイトルの変更は新録バージョンを『会いたい2014』と表記するのと変わらない次元だし、イントロの英語のコーラスはイントロの一部だろ。本編の歌詞を侵害しようがない。
ほら、どれも問題ないです。訴えなくていいです。
そこじゃないんでしょ、作詞家の思うところは。
えと、あの、だからね、この事件から漂う「ちょっと気持ちが悪い感じ」は作詞家が『会いたい』を過剰に神聖視している様子への違和感なんだな。作詞家が自作品の《聖性》に陶酔しているため、それを汚すシミはどれだけ小さくても許せなくなってる。潔癖性が過剰になっちゃうんだ。そーいう潔癖性を呼び込む内容だからさ、『会いたい』は。わかりやすい《聖性》があるからさ(多分に作為的な《聖性》なんだけどな…)。もはや、『一杯のかけそば』を狙って作った歌詞だってことを忘れてる。犯されてはならない《聖なる楽曲》なんです。
それが《聖性》の闇だ。大量の光に包まれた時に視界を失う感じ。眩い闇。
テレビの取材に応える沢田知可子を見て思った。
汚れたなぁ。そら、茶化したくなるわ。替え歌でも歌っとけや。現在の沢田知可子に《聖性》の欠片もなくなっていることに作詞家は我慢できなかったんだろう。「アイツに歌って欲しくない」とはそーいう意味だ。たぶん。
この分で行くと、吉田山田も25年後に『日々』で揉めそうな気がする。「25年間分の汚れ」が許せなくなるに決まってんだ。
《聖性》もほどほどにな。
※例の替え歌、『初音ミクのバージョン』が多数アップされるのだろうと思う。さて、そこに《聖性》はあるのやら…。