【耳ふさいでて】

(25)【May J. タイムマシンにお願い】

May J.が登場したのが30年前だったら、きっと大事件だったのだと思う。

吉田美和とかMISIAとかを僕達がまだ聴いていない時代。そして、いわゆる「R&Bマナーの歌唱力を持つ日本人」と言えば和田アキ子や朱里エイコといった《パンチ系》しか知らなかった時代。そんな音楽シーンにMay J.が出てきたら、すっごく歌が上手く聴こえたはずだし、表現力も過剰に深いなぁと鳥肌が立ったかも知れない。しかも、顔がキレイじゃん、と…。

ところが、2014年のシーンでMay J.は悲しいほどに凡庸だ。

いや、歌は上手いし、その辺の人よりもキレイなわけだけど。でも、今のシーンでは地味。「歌の上手いの(しかもR&Bマナーの女性シンガー)」は掃いて捨てるほどいるし、「キレイなハーフ」にも事欠かないから。全部、他で間に合ってる。
それから、"『レリゴー』の歌い手"さえも他にいる。

そう!
そこなんだよねぇ、問題は…。『Let It Go~ありのままで~』の歌手がMay J.一人であったならば、まるで違うことが起こっていたはずなんだ。(もしくは、何も起こっていなかったかも知れないんだ…)

仮に、松たか子が《雪の女王・エルサ》の吹き替え版担当声優ではあるけれども、歌の箇所だけは「専業歌手」で代役を立て、その「歌担当」がMay J.だった、という実状であったならば、【全てのお手柄】はMay J.のものになったかも知れない。世間は「すごい歌手の発掘」に沸いたかも知れないし、May J.の全ての要素(「苦節8年」とか「カラオケ女王で返り咲き」とか)はいっせいに美談になり、May J.は《2014年の顔》として日本エレキテル連合をぶちぎったのかも。

でも、松たか子が歌っちゃったんだもん。そっちが先に話題になっちゃったし。松たか子だから話題になった、というのもあるし。

聞き比べるとMay J.よりも松たか子の方が声に"存在感"がある。僕は、その"存在感"を「本職的ではないところの揺れ方」みたいな《不安定さの訴求力》だと読み解く(本職的ってのは専業歌手的って意味で、ね。松たか子が本職的でないことを「役者臭」とか言いたくはないのだけれども…)。サビのところで音程がすっごく高いところに行っちゃって「キンキン」な声になるじゃないですか、松たか子。あそこですよね。あの"苦しい感じ"を聴くたびに僕は感動する。迫ってくる。松たか子の全身に立った「青筋」が見えるようで。つまり、あの声への覚悟とか入魂が見えるようで。
対するMay J.のサビは全然苦しくなくて、むしろ、吐息を漏らす独特の歌唱法でテクニカルに「苦しさ」が表現されているわけなのだけども、その安定感はすっごく本職的・専業的で、感心はするけど感動が無い。あ、いや、だから、松たか子のバージョンさえ無ければ感動できたのかも知れないけど。

そこへきて、やれ「カラオケ女王」だとか「カバー曲ばっかり」だとか、メディアに露出し過ぎだとか、「大晦日に予定を空けている」とかというところでバッシングされているってわけなんだけど。

May J.のカバー曲は例によって「(お馴染みの)オリジナル楽曲に"抜群の歌唱力"を与えて再生する」という意図が全てであって、仕上がりはそれ以上でも以下でもない。完全に想定内の出来栄え。で、皆さんはそーいうところが嫌いなんでしょ? なまじ高い歌唱力が、楽曲をツル~ンと洗練させていく様が好きになれないんでしょ? 特に松たか子の「苦し気な高音」をツル~ンと歌いこなしちゃうのが劇的につまんない。(「劇中歌かエンディングか」という問題ではなくて、僕達には「後出し」のMay J.がカバーバージョンに思えているわけだから、アレは松たか子版を洗練させた印象なんです…)
「カバー曲に感じる嫌な感じ」がMay J.の歌唱力で増幅する感じ。押しつけがましさとか、そのくせ音楽として冒険が無く安直な印象とか。
(僕としてはクリス・ハートもMay J.と大差ないと思っているわけなんですけどね…)←クリック!

しかしながら、冒頭で言ったとおり、May J.が登場したのが30年前だったとしたら、その意味合いは変わっていたのかも知れない。May J.自身が「オリジナル」であった可能性さえもある。

では、May J.はどの時代に登場すべきだったのか?

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ねぇ、ちょっと耳ふさいでて。
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タイムマシンで過去に時間旅行し、May J.を音楽シーンに登場させるのだとしたら、どの時代が適切か?
ひとまず、タイムマシンにお願いしてみることにする。

■1950年代以前はちょっとダメだ。需要がない。May J.は外人にしか見えないから。外タレだ。「外人だから歌が上手くて当然」みたいなところで情報的に処理されちゃう。例えば、『マンボの王様』ペレス・プラード楽団の専属歌手みたいな。美空ひばりのドメスティック歌唱の需要が本流としたら、明らかに枝葉的ですね。

■1960年代も違うね。海外ポップスカバー時代(弘田三枝子や中尾ミエ等)に求められていた歌唱力とMay J.のは違う。そそ、《一直線なパンチ系》がこの時代の主流的歌唱力なんだ。May J.のは細かいニュアンスが込められる分だけ印象として《細い》から。他にはカルメン・マキみたいな「ハーフの悲劇性路線」とかヒデとロザンナの「たどたどしい日本語路線」とかもあるけど、May J.はどこにも当てはまらない。

■1970年代は少し需要あり。ヘドバとダビデみたいな線で「外国人歌手の日本語ヒット」を狙う枠がある。あと、変テコなディスコ曲を歌うってのも。え? アーティスティックじゃない? そんなもんを求めんなよ、70年代に。イロモノが嫌なら他の時代に行ってくんな。

■1980年代は完全に無理。ストレートな歌唱法が好かれていたんだ。歌が上手過ぎる必要はなくて、もっと、客席と目線が一致するような歌声っつうの?等身大でさぁ。(←クリック!) 総じて「歌がうますぎない時代」だから、May J.の歌唱力は度胆を抜くのだろうけど、「伝わるもの」が無い。

■1990年代は一番需要があるかも。そそ、だから、ドリカムやMISIAや宇多田ヒカルとかと同列で。ディーバのブームもあったし。あ~、でも、その三人(および、他のディーバ系)と並べた瞬間にイマイチな印象があるなぁ、May J.は…。クセが無いんだ、May J.宇多田ヒカルなんかは出てきた時(16歳)からディープな表現力(クセ)があったでしょ。アレが無いんだ、May J.。

彼女達との直接対決を避けるとするならば…。

ドリカムデビュー(1989年)からMISIA・宇多田ヒカルデビュー(1998年)までの「空白的な9年間」であるならばMay J.にチャンスはあるのかもしれない。ドリカムが開拓した市場でライバルが登場するまでの期間に荒稼ぎしちゃう、と。やったぜ!
…て、調べてみたら、その時代はビーイング系(TUBE、B'z、大黒摩季、ZARD等)から小室ファミリーの時代だったわ。May J.お呼びでないわ。

■2000年代以降のシーンでMay J.は凡庸。それは、先に書いた通りだ。

なんでぇ、May J.はどの時代に登場したとしても、歌のうまさがユーザーの度肝を抜くことはあっても、ヒットする可能性高くないじゃん。ディスコソングが関の山じゃん。ディスコソングなんか、ありのままじゃないじゃん。

う~ん。May J.の居場所は歴史年表上、ピンポイントで2014年に限定されているのかもしれない。出るべくして2014年に登場したのかも知れない。いや、「他の時代には居場所が無い」という消去法で2014年が浮上したってだけのことなのだけど…。

だとしたら、May J.は今(2014年)に全てを刻み込むしかないだろ。爪痕を残すのに「幅」よりも「深さ」に固執すべきだろ。May J.のメディア露出の過剰さは必然だろ。
ならば、紅白歌合戦出場も当然だ。シッカリ歌え、May J.!(それが僕達とのお別れになろうとも…)

ただし、紅白で松たか子と共演させるなら、歌う順番はMay J.が先ね。

それならば、少しは寒くないわ。