【耳ふさいでて】

(9)【辻仁成 終わらないバブルとラブコメ】

「○○を始めたのは女の子にモテたいからでした。」

これ自体はアリだ。
○○が野球やサッカーでもいいし、音楽やダンスなんてのもいい。

例えば、野球。
【タカシの場合】
オレ、なんとしてもモテたかった。そのために特訓やシゴキにも耐えた。ライトで8番だったが、レギュラーだった。その頃、『私設応援団』として励ましてくれたのがサユリちゃん。モテモテにはならなかったけど、サユリちゃんだけはオレに声援を送ってくれた。オレだけに祈ってくれた。
★☆ あれから25年 ☆★
今は妻のサユリと二人の子供に囲まれて生きています、息子は野球に熱中しています。

いい話だ。尻は痒いが、茶化したくはない。

そこにはタカシの純情と、基本形(開始点っつか)としての「モテない」があったればこそ、物語の純度と清潔感のようなものが担保されている。
端的に言えば「爽やか」ってことな。

では、次のケースをアナタならどう思う?

【ヒトシの場合】
ヒトシは満たされていなかった。
去年のバレンタインデーにもらったチョコレートはたったの4個だった。ラブレターは3通(チョコと3人が重複)。それが許せない。オレが「チョコ4個の男」だとぉ!?繊細で知的で多才で美しいオレがチョコ4個だとぉ!? 
オレの価値に正しく気づかない女達に苛立つ。ならば、わかりやすい形を見せてやろうか。バカでもわかる形をよ。

「女の子にモテたい」というありがちな発端が復讐心みたいなものにすり替わっているのがわかる。

「せめてチョコを2桁に」との思いでヒトシが始めたのはバンドだった。小説を書くのもアリかなと迷ったが、バンドの方が華があるから。そそ、女の子にわかりやすいから。ボーカルとギターを担当。リーダーで作詞・作曲も。学園祭後には、ラブレターが30通を超えた。この分だとチョコも期待できるぞ。
★☆ あれから25年 ☆★
資産家の娘と結婚。妻の実家の会社で重役やってます。妻とは冷え切ってるけど会社のことがあるから離婚はしません。愛人っつかセフレは2人。高校時代のチョコレート? あぁ、3年生の時には40個もらった。で、そのうちの4人とつきあったけど(二股あり)、今はどうしているのか全然知らない。

嫌な話だ。尻の痒みは収まったが、僕、怒ってます。
うぬぬ。ヒトシ、許せん。

チョコ4個では満足できず、数をかき集めることで自尊心を満たす魂胆が許せん。純愛と最も遠くにいる男。そして、音楽や才能を悪用する男。許せん。

そして、「ヒトシ的なイメージ」は辻仁成と重なる。
辻仁成、許せん。

いや、「辻仁成の現場」を知るわけではないが、きっと「許せんヤツ」と僕は思う。

なんかこう、「ゲージュツ」や「ブンガク」が女を落とす手段でしかない感じ。しかも、「繊細さ」だとか「男の弱さ」みたいなものが過剰に強調されてモノを言っていそうな感じ。で、結果的には音楽でも小説でも必ず副次的に女がついてくる感じ。それも都度「新顔」がついてくる感じ。それをいちいち見せつける感じ。

例えばこんな情景が浮かぶ。
先日出会ったばかりの女を仕事場に呼びつけ、完成した小説(または音楽)の感想を求めるが、女の反応が鈍(にぶ)かったり僅かでもダメが出たらスネちゃうの。
「キミと理解し合えないとは思わなかった」なんつって嘆いた挙句、「僕が表現者に向いていないと言いたいんだろ?」と涙ながらに女を加害者扱い。やむを得ず女が(全面的に)称賛すれば、一方的に《僕とキミは理解し合えた者同士》というコンセンサスを成立させ、「涙の訴え(甘え)」に対する「母性的な救済」を既成事実として、いつの間にか新しい恋愛を軽々と成立させている感じ。

ここで辻仁成が武器にしたモノは
■過剰なロマンティストぶり
■母性に訴えるダメっぷり・甘えっぷり
■「純粋さ」や「繊細さ」と「弱さ」がワンセットになったパッケージ感(っつか手練れ感)

今どき、そんな手口に女が乗るかよ。太宰治の時代じゃないんだから。
…と思うでしょ。でも、その手口に乗ったのは南果歩・中山美穂クラスですからね…。許せん。

見たわけでも噂を聴いたわけでもないのに、辻仁成とはそーいうものだと僕達が勘ぐってしまうのは、音楽や小説の印象や評価以上に《南果歩・中山美穂》といった「副次的な成果物」の存在が大き過ぎたからだろう。その副産物を通して辻仁成像を描くことが僕達に習慣化した。「南果歩・中山美穂」は公的には「辻仁成のイメージ」(才能があるとか、素敵~とか)を底上げしてきたし、僕達のネタミやヒガミを助長してもきた。どちらに転んでも辻仁成の自尊心をくすぐるだけだった。中山美穂を人質にとられるとはそういうことだった。

でも、それってバブル期に大物俳優を広告塔に起用しまくった企業CMと「印象の底上げ感」がソックリだと思うぞ。

あぁ、それシックリくるわ。バブルね。
そうですね、辻仁成は《80年代的》ですね。

80年代的な文法や価値基準を継続している人だと思う。特に恋愛観では。
80年代とは、辻仁成のような「スネた言い分」を聞いてあげられる余裕があった時代。「弱い男」が魅力や価値だと男も女も勘違いしてくれた時代。そーいうものを辻仁成が残留させている感じ。

恋愛をラブコメやトレンディドラマの文法でとらえる限り、恋愛的な幸福感も困難もすべてライトな劇場的気分の中で処理されちゃう。例えば、二股が発覚しても、「泣き笑い」っぽいライトな芝居感覚で謝罪しておけばどうにか収まってしまうような空洞化した構造、っつか。(女は「ウチ、許さないっちゃ」と一旦はムクレてみせても、すぐに元の鞘に納めてくれる)
辻仁成は今もそーいう世界に棲んでいる。

90年代以降の恋愛には「犯罪」や「孤独」といった社会問題と隣接している深刻な感覚があるわけだけれども、80年代にはその切迫した意識はない。恋愛はブンガクやゲージュツと同様に社会と切り離された安全地帯だ。アトラクション型の遊戯施設っつか。
だから、80年代には《恋愛上の関心事》は、「つきあう異性のクオリティと人数」に集約されることで実感された。そーいう時代。まさにバブル。

そういった80年代の手法のまま、辻仁成は芥川賞にまで登りつめ、中山美穂を征服するに至ったという印象がある。
バブル的勝ち組。今の今までバブルを継続させる男。それが辻仁成。

でも、どこまで行っても、傍から文句つけてる僕の方に「ヒガミ」を読み取られてしまう弱みがあるのも辻仁成が《バブル番長》という大家なればこそだろう。
負け組はツラいね…。

辻仁成に、とっておきのキャッチフレーズを進呈したい。

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ねぇ、ちょっと耳ふさいでて。
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『ラブコメ世界の太宰治』

それが、辻仁成の正体だ。

辻仁成の「最新モード」が《女装》ってのも、場当たり感がバブルっぽい。太宰的世界とも遠い《最果て(さいはて)》でつながってる感じ(何故か、そーいう感じ)。バブル後を生きる我々には女装の価値も太宰の価値も実感しにくいですけどね。

それでも、どこかで「新しい女」が辻仁成の女装にゾッコンになるのだろう。そして、カノジョは副産物となり新しい広告塔になる。辻仁成が新しいことを思いついちゃうたびに繰り返される無益なラブコメ的恋愛。
その女もきっとスネられたのだろう。女装でスネたら効果は倍増かも。

女装の辻仁成が言うんだ。

「生まれて、すみません。」

それ、ラブコメっつかコメディか…。
失格してやがれ。