昨日は、グループそのままの京都BASIC(定例会)でした。
日ごろ、温泉のような居心地のいい、ゆったりとしたワークを好んでいますが、
今回は、そうでないワークにある底力を翌日になった今じっくりと味わっています。
感情も動かされましたが、それを流した後にあの場から見えてきたものがありました。

語っている人の評価は絶対のものではなく
あくまで私の行動を受けて、その人が感じたもの
しかし、その発言を受けて、自分が動揺したのは
自分にそのつもりがなくても、心のどこかに指摘されたような「思い」があったから。
そして、それゆえに問題が起こることが今までにも何度もあったから。
私が「かわいそう」と思って、人のために何かしようとしているとき、
立場が上に立ってしまっているな、
それを敏感に感じる受け手には傲慢に感じられることもあるだろうと。
かわいそうと思うときほど、尊敬の念をそこに同居させないと
受け取りにくくなるのかもしれないなぁ。
心構えだけで、どう行動につなげるかとなると、難しいかもしれないけど、
また、試してみて、それで反応を見てみたいと思います。

また、そのことの裏返しですが、
相手が自分に対して思いをかけてくれているのだけど、
そもそも私の思いを誤解してそうしてくれていることを
押し付けがましく感じて拒絶してしまうことが自分にもあるな、と。
自分の気持ちに嘘はつけない、と思ってましたが、
自分の差し出している思いを受け取ってもらえないことが
やるせなくつらい気持ちなんだということが、身をもってわかりました。
私がそう思っていたのでなくても
私のために何かしたいと思った相手の気持ちは受け止めること
これからはできるかもしれません。

受容を味わうことも大事だけど、
すれちがいやコミュニケーションがうまくいかないことを
経験して、どういう思いがするのか、どうしたいと思うのか
感じていくこともとっても大切なようです。
時期がきているときに問題点を浮き彫りにする事例がおきて
それを鏡にして
自分のありかた、人との接し方を変えようと
自分で思えるきっかけになるというのは、何ものにもかえがたいです。
多少しんどい思いをそのときや、ワークが終わった後にしたとしても
本当にありがたいものだと思います。

相手の言葉や行動は
自分の行動に対する反応をみる鏡

よく感じたということを返してもらうと嬉しいけれど
悪く感じたということをそう返してもらうことは
そのときは自分の意図を汲んでもらえない腹立ちがあったり、
誤解されている辛さがあったり
相手の攻撃と感じることに対しての怖さがあったり
自分の振る舞いを信じられなくなる怖さがあったりしますが
後になって、これから先のことを考えたときに
すごくすごく役立つように今は感じています。
言い方には気をつけた方がいいとは思うけれど、
悪く感じたことを聞かされることの価値を実感した今では、
その思いも口にできるようになるかもしれません。
いや、していきたい。

昨日のワークで出会えたみなさま、見守ってくださってありがとうございました。