URL #4
https://www.youtube.com/watch?v=X_Do0hIrf9U

URL #5
https://www.youtube.com/watch?v=bKExpyCqOyY

URL #7
https://www.youtube.com/watch?v=zQku59a-skw




アンビリバボー- 11.08.11「日本兵と中国人家族の50年」

第2次世界大戦、終戦後、中国での出来事。

ソン・バンジュンさんは 
ある日、中国人に殴られている日本兵を見つけた。

当時、ソンさんの村の近くは、、日本との激戦区でもあった場所。

ソンさんの長男も この戦争で亡くなっていた。
当然 村人の日本兵に対する恨みも深かった。


ソンさんは、殴られている日本兵を助けに入り、
傷ついている彼を背負って家に連れて帰った。

彼は何もしゃべることが出来ず、まともに歩けないほど傷ついていた。


ソンさんの家は貧しく 祖母も幼い子供もいた。

家に着くと、、ソンさんの奥さんは、
「何で息子を殺した日本兵の面倒を見ないといけないの!」と大激怒。


ソンさんは、奥さんを必死に説得。

「この人も、戦争の犠牲者なのだ、、
この人にだって、、この人を愛してやまない家族がいる。」と。


ソンさん家族は、村人にわからないように彼をかくまい、農作業を教えた。でも何度教えても彼は野良仕事を覚えられず、まるで学習能力がない状態だった。


その日本兵の耳の後ろには、、ひどい傷があった。
どうやらその傷のせいで、、 
記憶や運動能力なども無くしているようだった。

日本兵は夜中に突然暴れたり 外を俳諧したりした。

そして、、、、村人たちにも 日本兵をかくまっていることがばれて、、ソンさん家族は裏切り者と責めたてられた。


日本兵は ある日、激しい足の痛みを訴えた。

しかし、ソンさんの家には病院で診察を受けさせるためのお金がなく
、、ソンさんは 近所を回って頭を下げ、必ず返すから、、とお金を貸してくれるように頼んで回った。

ほとんどの村人は
「日本兵のためなんかに出すお金なんかない!!」 と断られた。


でも、、ソンさんの必死さ、、熱意に心を動かされ、、、 
お金を貸してくれた人もいた。


しかし診察代は何とか用意ができても、病院へ行くための手立てがない。ソンさんはリヤカーに歩けない日本兵を乗せて、、
3日もかけて50キロ離れた病院まで彼を運んだ。


彼の足の痛みはリウマチ、、。
頭部の傷は 大きな病院で精密検査をしないとわからないと言われた。
ソンさんは、今までどおり日本兵の面倒を見て、自宅治療を続けることに決めた。


日本兵は「日(にち)さん」 と名づけられ家族の一員となっていた。

近所の人たちも 少しずつ心を開き、、
「日さん」のために、日用品などを、あれこれと持ってきてくれるようになった。


中国で在留日本人の家族探し制度が始まり、、
ソンさんは 政府に「日さん」の家族探しを申し出たけれど
名前も 所属部隊もわからないのでは探しようがないと言われた。


ソンさんの息子ソン・ボジェさんは成績がよく有名高校に受かった。
ところが家族構成で、、、 
日本兵の面倒を見ていることを理由に入学許可を取り消されてしまった。


ソン・ボジェさんは悔しいやら、悲しいやらで、、
父であるソンさんに、、、 
僕と「日さん」とどちらが大切なのですか!? と怒って聞いた。


すると ソンさんは、言葉静かに、、
どちらも同じように大事だと答えた。



実は、、、ソンさん自身も捨て子で、、

自分は両親に助けられ救われていなかったら どうなっていたか
わからなかったんだ、、。

だから 自分と同じ境遇の「日さん」を ほうっておけなかったんだ。命の重さは、日本人も中国人もない、みんな一緒なんだよ。
と話すと。


その言葉を聞いて、ソン・ボジェさんは
「お父さん。僕が間違ってました。」と泣きながら謝った、。


病がちになったソンさんは、息子であるソン・ボジェさんに遺言をした。
良いお嫁さんをもらうようにということと、、
「日さん」を日本の家族に会わせてあげて欲しい、、ということと、。

ソンさんが亡くなると、ソン・ボジェさんは高校への進学をあきらめて家の農業を継いだ。
良いお嫁さんと巡り合い、、結婚。



そんな、ある日 公安警察が やってきた。

「日本人を、家族ぐるみでかくまっているのは おまえらだな?」 と
在留日本人には スパイの容疑がかけられていた。

引きずられるように公安警察に連れていかれようとする「日さん」

「おじさんは体の具合が悪いのです。連れていくのなら 僕を連れて行ってください。」と ソン・ボジェさん。


ソン・ボジェさんは、公安警察に連行され 20日間も拘束され、その後も10年間もの長い間、公安警察による厳しい取り締まりが続いた。


そんな中 日中国交が回復した。
ソン・ボジェさんは 日本赤十字や日本政府に手紙を書き送り続けた


1980年代は、中国残留孤児の問題がとりあげられていた時代。
日本からの返事が少しずつであったが届いた。

返事を出す切手代のために、米ではなく、塩さえ買うお金がないこともあった。それでもソン・ボジェさんは農作業を終えた後、日本へ返事を書き続けた。


1988年のある日、 中国名リュウ・セイセンさん 日本名 清水竹二郎
という元日本兵がやってきた。


なんとか 「日さん」を日本の家族の元に返してあげたいと思い、
ソン・ボジェさんは日本語教室をやっているカクさんに事情を話した。


カクさんは驚いた、日本人、しかも元兵士が中国で生きて暮らしているという話は 聞いたことがなかったからだ。

いくつかのメディアが「日さん」のことを取り上げ「日さん」の写真が新聞に載り、心が当たりがあると名乗りを上げる人が出てきた。


そこから、「日さん」の身元がわかることとなり、「日さん」は遺伝子鑑定により石田東四郎さんだということがわかった。

ソン・ボジェさんは東四郎を連れて日本へ来た。
東四郎さんは日本に戻って来たことがわかっていない様子だった。
まるでソン・ボジェさんといっしょに旅行にでも来ているかの
ように思っているようだった。

東四郎さんとの別れが近づいてくる。
ソン・ボジェさんは「日さん」足をもみましょうか?と言い、足をもんであげながら 一緒に暮らした46年間の日々を思い浮かべ、、涙が止まらなかった。

ついに訪れた「日さん」とのお別れの日、、、。
ソン・ボジェさんは東四郎さんの前にひざまづき別れを惜しんだ。
ソン・ボジェさんは東四郎さんを想い、手紙を出し続けた、。


ソン・ボジェさんは 父の遺言、、、 
東四郎さんを、、ほんとうの家族に会わせてやってくれという願いを
果たし終え安心したかのように 4年後 50歳の若さで天国へと旅立った、、、。




東四郎さんは、帰国後15年生きて、、97歳で他界されたそうです。

身元のわからない傷ついた元敵である日本兵を助けること、、
なかなか出来がたいことです、。


国同士で、戦っていても、、、
ソンさん家族は、、敵ではなく、人として「日さん」を見ていたのですね、。


何かの拍子に、、敵同士のようになってしまうこともありますけれど、。人同士なんだ、、という思いやる心を捨てなかったら、、、
相手を必要以上に踏みにじることもしないですむのかもしれませんね、。

ソンさん、、そしてソン・ボジェさんにとって、、、
「日さん」は、、間違いなく、家族だった、。

血は繋がっていなくても、、心が繋がった家族だった、。


だから、、きっと、、天国で、家族として出会って喜びあっていることでしょう、。もう二度と離れなくて済みますね、。

血が繋がっているというだけでは、、家族とはいえないのかも知れませんね、。心が繋がりあってこそ本当の家族なのでしょう、。


私は、、そう思います、。

ねぇ、、天の父さま、。そうでしょう???


マグダラのマリア



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