イエス様は、神様を、父である御方と教えました。
それは、当時も今も、
イスラエルは、基本的に父系社会です。
女性の地位も子供の地位も低かった。
家長の所有財産の1つように扱われていた時代。
家長が認め無いと結婚出来ない。
出かけるのも自由には出来ない。
家長、男系優先社会で、、
神様は、父性の父であり母性の母であり、人の子の父母、夫婦のような御方であるとイエス様が仰っていたら、誰も納得しません。
女性、母性が、父性と同等、
父母に産まれる子も同等、の
△トライアングルの、みいつの神様が、神様の本質ですよと教えても、、
そんなのは変だ。って、そっぽ向きます。
人間は、最初に学び得た環境、慣習などと
違うと受け入れ難い性質があります。
頭で理解しても、心が納得いかないみたいな。
幼子のような心であれば、新しい慣習も、思考も
どんどん吸収出来て、色んな思考を巡らせたりできるのですが。
イエス様のときのイスラエルが、、
もし、母性信仰、女神信仰の国であったら、
イエス様は神様を、父なる神ではなく母なる神様だと仰ってたかもです。
神様は、いわば父性も母性も、
全て保有されていて、
働きに応じて、父性が強く出たり、母性が必要だったり、ということですね。
人間だって、男女両方の性質があります。
最初は受精して、しばらくは♀です。
男性ホルモンが出てきて、♂として成長します。
女性にも男性ホルモンありますし、
男性にも女性ホルモンあります。
男女両方の性質を含んでいます。
神様の似姿に創造された人間が、
男女両方の性質を宿しているのですから、
神様も、父性母性、
両方の働きを内包しているのです。
でも当時は理解されないから、
神様は、父である御方としか言えなかった。
一番大事なことは、神様という御方を、
すんなり受け入れ易い形で
人にこうですと教えないと行けないので、
男系社会のイスラエルの民が理解しやすい
父である神様とイエス様は仰った。
当時はイエス様もイエス様以外も、
アドナイ、主という意味の言葉で
神様に呼びかけてたと思いますが、。
実は、、
ユダヤ教のヤハウェ(聖四文字YHWH)と、キリスト教の父なる神(God)と、イスラム教のアッラー(神という意味のアラブ語)は、同じ神様であり、
同じ神様を、違う名前?呼び方で
ようは、神様ーーーと呼びかけてます。
天地創造のクリエイターである神様は、
お一人なので呼び方は何であれ、
天地創造をされた神様に意識を向けているのであれば、神様側は、ぶっちゃけ呼びかける言い方、名称なんてどうでもいいことです。
小さい子は自分の呼び名を、
違う!あたしは◯◯ちゃんー!!と訂正させたりしますけど。苦笑
神様は、全ての存在の御親ですから、、
呼び名よりも大事なこと、、
天地創造の神様への信仰心があれば、、
文句なしなんです。
小さい器の神様ではないから、、。
全人類、全存在、、
ご自身を神様と認めてない無神論の人のことも、赦し愛されているのですもの。
日本神道で、分け魂(だま)というものがあります。
1柱の神様、命(みこと)本社の御神霊を分けて、分社に送り、祀るのですが。
みいつの神様も、これと似たことです。
同じお一人の神様だけど
働きに応じて、それぞれが独自に顕現する。
父性の御父、母性の聖霊、御言葉である御子イエス様の3者で1体。
分け魂は、、聖書でいうと、
神様はモーセからモーセの中にいた霊を長老らに分け与えています。
(民数記 11:25 主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。)
霊は、重なり合わさって、1つのモーセの身体に複数、最低でも長老70人分以上、これで一部ということですから、100〜200体分くらいの働く御霊がモーセ1人の中に居たことになります。
神様も、霊的ご存在ですから、
合わさることでお一人にもなり、
父、子、聖霊の3者にもなれ、、必要に応じて顕現なさるのです。
さて、目に見えない神様を信心しにくい人のために、仏教があります。
仏像、人の手によるものですが、、
その向こう側の見えざる存在に、
御仏とか菩薩、如来とか名を与えて、
信仰心を持ち、日々感謝し祈る、
この見えざる存在に向けて祈る心を信仰心といいます。
仏像そのものを祈る対象物にしてる人は、あまりいません。
仏像そのものを拝む人は、木じゃなくて
金ピカの純金で造った像を拝んでると私はおもうわ。
古代の人々が、金で造った像を囲んで飲めや歌えの大騒ぎしてましたからね。
金銀は値打ちがあるから、それで造った美しい神像も尊ばれ拝もうとする人がいたのかもです。
本物の神様は、そんな人の手による入れ物に入ってませんよー。
イスラエルの契約の箱には
3つの神器が入ってました。
アロンの木の杖、マナの黄金の壺、十戒の書かれたラピスの石板。
アロンの杖は大祭司の象徴。
マナは天からのパン、 黄金は王に捧げるもの。
十戒は神様の戒め、御言葉です。
最初、戒めは1つ、知恵の木から取って食べては行けない。でも人は従わず原罪を犯したので、贖いは、10倍になるので人が守るべき戒めは、10 個になりました。
天からのパンと、
イエス様が御自身を指し仰いました、。
王の象徴の黄金は、ダビデの子孫、王の王、メシアを指します、。
契約の箱は、神様の現れる場所、至聖所に安置するものですが、この契約の箱は、イエス様の象徴です。
イエス様(神様としての御霊のイエス様)が本体です。本体が実体として、この世に顕現したわけです。
イエス様が生きた契約の箱ということです。
イエス様が、この世にお産まれになったことで
どこかに隠されたであろう契約の箱は、、
もはや役目を終えました。
象徴より実体のほうが、強いのですから。
イエス様の肉の代理父は、アロンの血を引く祭司ザカリアでしたし、大祭司の血筋です。
イエス様は、ダビデの嗣業を受け継いだひとり娘のマリアから産まれ、御母マリアによる正統なダビデの子孫でもあります。
(民数記 36:8 イスラエルの人々の諸部族の中で、嗣業の土地を相続している娘はだれでも、父方の部族の一族の男と結婚しなければならない。それにより、イスラエルの人々はそれぞれ、父祖伝来の嗣業の土地を相続することができる。 )
アロンと、ダビデの血統は、もともと交差してました。
アロンの妻がダビデの血統のアミナダブの娘エリシェバです。大祭司アロンの血統にはユダ(ダビデ)の血統が最初から流れてあったのです。
御母マリアの親類にザカリアの妻エリザベトがいたのは、当然なのです。
何世代も、アロンとダビデ家のユダ族は相互に婚姻し合っていたのでしょうから。
それにアロンが、
レビ(祭司)の血統がまるで無い人を
自分の妻に迎えるわけがないです。
レビ族の女性以外は同族同士の婚姻が多かった。
それは先祖伝来の嗣業の移動が無いようにです。
ダビデの祖、
ユダの長男の嫁タマルは、祭司レビの娘です。
ユダは姦淫の疑いで引き出された彼女を焼き殺せと言いました。
(創世記38:24 三か月ほどたって、「あなたの嫁タマルは姦淫をし、しかも、姦淫によって身ごもりました」とユダに告げる者があったので、ユダは言った。「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。」
焼き殺す規定は祭司の娘が身を汚した場合。
レビ記 21:9 祭司の娘が遊女となって、身を汚すならば、彼女は父を汚す者であるから、彼女を焼き殺さねばならない。
タマルによるユダの子孫、、ペレツとゼラ、彼ら以降、タマルによるレビの血統もユダの子孫にはあるのです。
当然、このことからでも
イエス様にダビデ(ユダ)とレビの血が両方あるのです。
長い間に幾度も血統の交差があったわけで、
血統の交差によるレビの血筋にだけでも良いのだけれど、大祭司の血筋もザカリアを肉の代理父とすることで、イエス様に備えられました。
神様は、御自身の定めた規定の通りになるようになさったのですね。
イエス様は、、人となった神様です。
人を救うには自ら人となり、、人が神様とイエス様に不信して失敗した場合、人の身代わりになる必要がありました。
2000年前、もし人が失敗せずに
イエス様を受け入れイエス様が十字架にかからなかったら、イエス様の無原罪の肉体により、、マグダラのマリアと婚姻して無原罪の御子を産み育て、、
無原罪の御子と婚姻して、さらに無原罪の子らが増え続け、人の肉体と霊から原罪の徴が消えて行けました。
人の肉体から原罪の徴を消すには、無原罪の肉体を持つメシアが必要だったのでイエス様は、わざわざ肉体を持ち人間となられました。
無原罪といっても罪を赦す権能がない天使が肉体をまとって人間になれて産まれれたとしても、メシアにはなれません。
罪を赦す権能がある神様であるイエス様だから、イエス様はメシアなのです。天使とイエス様は、同列ではないのですね。天使は無原罪でも、罪を赦す権能はないのですから。
天使は、神様であるイエス様に仕える側です。
また人間も、、神様の御霊の無限分の1を与えられています。
霊的にみると神様の子としての位置です。
だから人に原罪がなければ、天使は人に仕え助ける存在です。
天使長だったサタンは、、自分たち天使より、あとから生まれたくせに、神様の子らとされてた、人間が妬ましくて堕天し、エバをそそのかし、アダムも神様から離反させました。
アダムがエバを愛していたし、
エバは、アダムよりあとから存在したのでアダムより未熟で騙し易かったので、サタンは最初に、エバに声をかけた。
神様は、サタンは見た目は美しい智天使のままだけど、心では堕天し悪魔になって霊的に穢れていたから、、サタン(智天使、知恵の木のこと)に触れても行けない、食べる(サタンの言葉を聞く、サタンのパンを食べる)ことも行けない。
(霊的にも肉体的にも)死んだら行けないから。と
アダムとエバに、ただ1つの戒めを与えました。
サタンは、霊的存在なので
死ぬこと(存在死)はないのです。
霊的死、肉体の死も肉体をもたない
サタンは認知しておらず、
死なない。とエバに言って、、
人とサタンの堕落後、
サタンもアダムとエバも霊的には即死で、死にました。
霊的に死んだから彼らの霊の目が閉じ、、ました。
神様の関与で、霊的に死んだことをアダムとエバに理解させるために、神様が、彼らの霊の目を再度開いたのです。
アダムとエバは、自分たちが霊的に死んで神様とのつながりが、薄くなったことを感じ、、
自分たちの罪、、サタンを受け入れサタンと、、したことも、全部、神様に筒抜けなのがわかって、恥ずかしくなり、罪の場所、腰をいちじくの葉で覆って隠したのです。
神様と、、
アダムが神様の父性、エバが神様の母性の顕現者となり、、神様の似姿、神様と人との霊的三位一体、。
無原罪のアダムとエバに子が生まれたら、
アダムとエバと子と、肉の三位一体が、完成するはずが、、サタンの邪魔で、神様の計画がおじゃん。
最初の人アダムから、
全人類に原罪が広まったのと逆をするには、??
無原罪の肉体を持つメシアの、この世の出現と、、
無原罪とみなされメシアと結婚し子を産む、新しい第二のエバの出現が必要。
イエス様は、メシア、。第二のアダム。
マグダラのマリアは、第二のエバになれなかった女性。
でも2000年前、おふたりは婚約は済んでます。
あとは未来のどこかで、新しく産まれる赤ちゃんに合わさることで新生輪廻し、成長して結婚式をし肉体を介し一体となったら、、おふたりは永遠に1つ。
神様と、2000年前のイエス様とイエス様の婚約者のマグダラのマリアとで、霊的三位一体の完成。
神様の与える運命の人同士で、出会い結婚して
1つとなることで、神様とそのお二人とで、肉的三位一体の完成。
生きてる人は肉的三位一体を完成出来る、。
肉体を失って霊となった人でも、
新生輪廻することで霊的三位一体を完成できる。
新しく産まれる赤ちゃんの霊に合わさり、
この世に生まれてくる。
自分の肉体ではないけれど、赤ちゃんと共に生きて、
自分が生きてたときに出来なかったことを追体験して、満足感を得たり、完了出来なかったことを完了できる。
新生輪廻は、神様にゆるされて、
赤ちゃんに合わさり生まれてくる。
赤ちゃんの肉体とか意識を乗っ取るようなことはしない。
生きてる人を乗っ取るようなことをするのは、死んで死んだことがわからず、
もしくはそれを理解しても、
神様のもとに戻らないまま、こっちで
ふらふらしてるうちに、悪魔の手先になったりして、悪霊化した人霊です。
人間は、肉体を失って帰天したあとでも
新生理解して、望む経験を満足するまで追体験できます。
だいたい、自分の子孫、親族、に新生輪廻、、するのですが
目的により、とても親しかった友、、
相思相愛の人の側にいる人、などの場合もあり、。
生きてたときに全然関係ない人の赤ちゃんに合わさるより、自分の血に連なる子孫、親族に合わさる方が、、自然でしょう?
神様と相談して、自分の願う条件と合う赤ちゃんを探して、、なので人間の時間軸では時間がかかります。
でも霊となった人には永遠の時間があるので納得行く条件が合う赤ちゃんと出会えるまで待ちます。
複数の霊が合わさり生まれることも多いです。
霊能者は、新生輪廻で合わさっている、先祖などの霊を指し、守護霊、背後霊といいますけれど
追体験するために新生輪廻してきている霊です。
守護霊ではないけれど
守護天使、、のようになって、人を助ける天使たちがいます。
がんばって努力している人間を、応援してくれます。
人間は、肉体を失ったあとでも、自分の血に連なる子孫を通じ、新生輪廻しながら、望む経験を追体験をしたり、霊的三位一体の完了を目指したりします。
生きてたときに断念した経験、物理的に出来なかったことを追体験し、満足感をえます。
新生輪廻してくる、理由の1つに原罪からの解放があります。
生きてたときにクリスチャンになれなかった霊が、原罪からの解放を求め新生してきて、
合わさった赤ちゃんがクリスチャンとなり洗礼を受けることを願い待ち続けます。
合わさる赤ちゃんの人生は、赤ちゃん自身に決定権があります。合わさってる霊には決定権はないです。
だからチャンスがなくなった場合は、その赤ちゃんから離れて、別の赤ちゃんに新生輪廻をし直します。
話を戻して
首尾よく、赤ちゃんが成長後、
クリスチャンになり、赤ちゃんが洗礼を受け、聖餐を受けたときに、、、
生きている人間だけでなく、
合わさる霊も全て、無原罪とみなされ原罪からの解放を得、霊は、歓喜に満ちて帰天します。
これをセカンドチャンス、サードチャンス、、
永遠に、無限に原罪からの解放を得るチャンスがあります。
イエス様が、完全なる神様としての御命まで捨てて人のように霊的に死んで蘇られたからこそ、。
生きてる人が受ける洗礼と聖餐、この聖霊の関与による新生の儀式は、生きている人間だけでなく
すでになくなった霊の救いも、、含みます。
合わさる人間が得る聖霊の働きを、
霊も一緒に体験、霊的恵みを享受できるのです。
生きている人間がクリスチャンになること、
これは生きている人間ができる最大の霊的救済です。
日本はクリスチャン人口が少ないので狭き門ですが、。
生きてたときにクリスチャンになることが
最短コースで原罪からの解放が得れますけれど
セカンドチャンスが無限に、、
この世の終わりまであります。
現時点では。です。
キリスト教会が、、神様に背き続けたら、、
キリスト教会自体が一旦消える可能性もあります。
イスラエルが、イエス様を不信して排除したことで国が一旦滅びたでしょう?
同じことがキリスト教会にも起こり得ます。
ユダヤ教から祝福を受けついだのに、
初期のクリスチャンのような誠実さ、熱心さが、
新旧のキリスト教会の上層部から失われていますから。
金儲け主義になっている。
神様と富と、同時には仕えれないです。
富を選んだら、神様から離れ続けるのです。
クリスチャンの一般信徒は、
熱心な信仰心を持つ人が多いです。
クリスチャンになることは、
自分自身の原罪からの解放だけでなく
自分に合わさる、原罪からの解放を求める霊たちの救いにまでつながります。
イエス様の救いが完全無欠の、神様としての御命と、御自身の清い肉体と御血と、、による救いですから。
無原罪の神様の御命を持つイエス様にとり、
霊的死は本来無縁の世界。
でも、人がイエス様に不信して失敗し、
イエス様御自身が、人の身代わりになるしかなく、
人が霊的に死んでたから、イエス様も霊肉共に一旦死んだのです。
死んで終わりではなく蘇られたことで
霊的救いまでも完全無欠です。
洗礼と聖餐は、生きている人間の肉体の原罪の徴をないことにみなされます。
聖霊が、新生時に働くことで、霊的な原罪の徴もないことにみなされます。
原罪は、霊的存在のサタンと肉体を持つ人とで作り出したもので、アダムとエバは霊的には即死で、霊的な罪でした。
でも罪を犯した者同士、アダムとエバとで肉体を用いて子を得た時に、彼らの子孫は肉体と霊と、両方に原罪の徴を負って、全人類に原罪の徴が増えました。
原罪は、肉体的と霊的と、両方の原罪があるのです。
霊的原罪から、原罪があるままで
子を産んだことで肉体的原罪に移行したからです。
罪を犯した時に
肉体の生命分、贖いの儀式で動物の生命を捧げて無いとみなされても、霊的原罪はあるままなので、、定期的に動物を捧げ続け無いと行けなかった。
イエス様の御命は、神様としての御命で、
完全無欠、これ以上無い清い無原罪の生命で、動物より、原罪のある人の生命より上です。
だから動物の捧げ物の時のように
定期的に何度も捧げる必要がなくなったのです。
十字架上の1度の贖いで済んだこと、が
イエス様が神様である証拠です。
イエス様が神様でなく人間オンリーだったら、人間には罪を赦す権能がないのですから、、
今の時代でも、キリスト教会は
贖いの儀式をし続け無いと、行けなかったです。
そしたら、、、?
血なまぐさい教えだと、毛嫌いされてたでしょうし、こんなに世界中に広まることも
多くの人に受け入れられることもなかったでしょう。
(マタイ 16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」)
天の国の鍵は、イエス様の持たれていた権能、。
ペトロは人間であるので、イエス様の全部の権能が譲渡されては居ないですが。
イエス様が、罪を赦す権能をお持ちで、
御自身が直に弟子たちにあたえたから、
イエス様の弟子は自分弟子に按手礼によって権能を受け渡し、孫弟子は、またその弟子に権能を受け渡し続けて今も続いています。
ただし、弟子らが受けた権能の基は
イエス様にあるので
イエス様の御名によってなされます。
イエス様が神様で無原罪の御方でなかったら、そもそも原罪のある人に人の罪は赦せないし、その権能を誰かにあたえることも出来ないです。
罪ある人間が罪ある者を救えないです。
罪の無い無原罪のメシアが、人として産まれて来ない限り永遠に不可能なこと。
罪の負債がある人間が、他の全ての人の負債を身代わりに負うのは不可能です。自分の分の原罪ですらどうにも出来ないのですからね。
神様ではない人間というだけの
無原罪でないイエス様が十字架で人の身代わりに死んでも、全人類の罪を贖い、ないとみなすだけの聖さはないです。
贖いは、等価もしくは、失敗時は10倍です。
イエス様の十字架は、イスラエルの民が不信し背いたし、3弟子もゲッセマネで、起きて祈れず失敗したので、人間1人分の贖いでは、到底足りません、。
少なくても弟子3人分のかける10倍だと
イエス様が、残りあと29人分、必要です。
イエス様が神様であったから、
イエス様お一人分で、
全人類分の贖いになれたのです。
色々、心の思うままに書いてしまったけれど
わかりにくいところがあれば、ご質問くださいね。
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