巴里と私 Ⅳ  最終回 | 思い草へ              

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1970年代。
あの頃、世界はテロリズムの時代でもあった。
パレスチナ解放戦線と連携した日本赤軍がテルアビブ空港を一般人に向けた乱射事件で血に染め、
日本のフラッグキャリアであった日本航空をターゲットにした国内外でのハイジャック、
大使館や外国公館への武装攻撃などを繰り返していた時代…。

年明けて1975年、シャルル・ド・ゴール空港。
私はパリを発ち、ロンドンへと向かおうとしていた。
駐車場で送迎バスを降り、トランクを押して空港施設の入口へと歩く。
人影のまったく無い静けさに「?」と思った途端、何か叫ぶ男性の声。
 隣りにいた旅行社現地スタッフが「伏せろ!」と叫ぶ。
訳も分からずその場に伏すと、周囲にたくさんの人々が息を殺して伏せている事に気づいた。  
物音ひとつしない緊迫した空気。
まるで、時間が止まっているよう…。

そのまま暫く待つと、入口から制服を来た男性が現れ大丈夫だと身ぶりをする。 
安堵の溜め息が場に溢れ、人々がザワザワと立ち上がる音。
止まっていた時間が動きだし、誰もが何が起こったのかを知ろうとして囁きあう。
「何が?」と隣りにいた現地スタッフに尋ねると、日本赤軍の空港爆破予告だったらしいと。

日本国内にいる時、私は自分と赤軍派にひとつとして共通点があると思った事がなかった。
でも その時、私は一瞬にして理解する。
私と赤軍派を引き裂きようもなく一括りにする確かな言葉…【日本人】
パスポートは、私も赤軍の人も同じ日本人であると証明する。
でも今ここで、自分が日本赤軍メンバーではないと、どうやって証明できるのだろう・・・。
そんな思いがよぎった。

そんな不安を笑い飛ばすように、パリは温かい笑顔で私を見送ってくれた。 
私の初めての巴里物語は、これで幕を閉じる。
それから子供を生むまで、仕事やプライベートで幾度もパリを訪れた。
そのたびに新しい顔を見せるパリではあったが、
私はフランスに【 自由・平等・友愛】の精神が生き残っていることを信じようとしてきた。

そして、今回のパリでの同時多発テロ・・・。
大きく揺れる世界とその反応を見て、私には違和感があった。
パリ市民と連帯し、テロと戦う・・・それ自体に全く異存はない。
けれど、【悲劇の地にある全ての哀しみと連帯する】それがフランスの精神のはず。

10月にはトルコで、11月初めにはエジプトでレバノンで、
パリと同じ規模の死傷者を出すテロが起きている。
また、シリアの人々・・・自国民に化学兵器を使うような政府軍に苦しめられ、
政府軍と反政府勢力との内戦に巻き込まれ、ISの暴虐に苦しめられ、
そのうえに有志軍(アメリカ・フランスなど)の激しい空爆に巻き込まれているシリア。
そこではパリの惨劇が日常的に起こっている。 

テロとの戦いとは、テロを生む構造との戦いだ。
それなくしてテロとの戦いを声高に叫んでも、憎しみの連鎖が続いてゆくだけだ。

パリの悲劇数日後からこのシリーズを書き始め、2週間余りが過ぎた。
混乱を鎮めつつ、パリ市民はフランスの精神に立ち返り始めている。
11月22日、バスティーユ公園。
シリア難民を受け入れようと呼びかける1000人を超える市民たちのデモが行われた。
【憎しみに対して憎しみで返すのは正義ではない】という誇り高き精神。

ああ、私の愛する巴里!!!
                                                                                  Fin

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