そのとき、私は19歳だった。
抽象絵画の授業の初日。
その人は、少し前かがみで顔を僅かに突き出すような特徴ある姿勢で教室に入って来た。
物静かで優しい小さな声、消え入りそうな音量で話す高齢で上品な美術教師。
ちゃんと講義を聞いて差し上げなければお気の毒だと思い、騒がしいクラスメイトに目で合図した。
私は、「難波田 龍起」をまったく知らない生徒だった。
デザイン専攻科必修科目の義務を負っていただけの凡庸な生徒だ。
最初の授業で、先生は抽象美術とは何かを話された。
抽象美術は人間の空想力や想像力を取り戻すもの。
目に見える現実にのみ執着する人間の心を、もっと広い世界へと解放するもの。
魂の風景・・・そんな言葉が今も心に残っている。
抽象美術は詩に似ていると思った。
その頃の私は、デザインよりも詩作にばかり夢中だったから。
今の時代では有り得ないことだが、
その頃のファッションデザイン科の教室には廊下の突き当たりに喫煙所があり、
大きな灰皿を囲んで椅子まで用意されていたものだ。
そこは芸術家肌の学生たちにとっては自己顕示の場であり、
一種のサロン的な雰囲気も漂っていた。
何回目かの授業の休み時間、難波田先生はフラリと喫煙所にやって来て、
「タバコを分けてくれませんか?」と私に云った。
タバコを持っていなかった私は、友人の手にあったタバコと100円ライターを取って先生に手渡した。
皆は席を詰めて空間をつくると、話の続きに戻ってゆく。
先生は「ありがとう。」と嬉しそうに私の隣に滑り込むと、頬笑みながら煙をくゆらせた。
週に一日、難波田先生は私たちデザイン専攻課程一年生2クラスのためだけに授業に来る。
いつからか、先生は休み時間の度に喫煙所に来て学生と過ごすようになった。
静かな方で、あまりご自分から話すことはなかったように思うが、いつもどこか懐かしそうな目をして、
ただその場に居ることを楽しんでいるような様子で微笑んでいらした。
そんな或る日、私が教室を出ると難波田先生が喫煙所にひとり座っていた。
どういうタイミングだったのか、そこには私と先生の二人きりだった。
何となく居心地の悪さを感じながらも、私は目礼して向かいの椅子に座った。
少しの沈黙のあと、先生は唐突に云った。
「あなたは・・・青い絵ばかり描くんですね・・・」
私は驚いた。
100名を越える生徒のうち、私の絵画的才能は良くてB+の凡庸さだ。
それでも先生は私の青い絵を記憶していた。
「はい。」と微笑んでみた。
「コバルトとウルトラマリンばかりが減るでしょう?」
「はい。」と、微笑んでみた。
「私もおなじなんです。」と先生が言う。
「ああ・・・」と微笑んだ私は、難波田龍起の何たるかを知らない生徒だ。
「あなたは・・・」と先生が云いかけた時、年長のクラスメイト男子がやって来て椅子に座った。
私たちの初めての会話はそこで途切れた。
放課後、その男子に先生との会話の内容を問われた。
「スノウ・・・。難波田先生がとても有名な画家だってこと知ってるかい?
僕たちは今、ものすごく贅沢な時間を与えられているんだよ・・・。」
私は肩をすくめるポーズで答えた。
有名であることも社会的地位も資産も、そんなものは昔から私にとって何の価値もない。
翌日のこと。
例の男子が難波田龍起作品集を家から運んできて私に見せてくれた。
重い画本を開いた私の目は釘付けになった。
そこには、目も眩むような深く多様な哀しい青が溢れていた。
この世に在る あらゆる思いが、重層的で複雑な青い詩になって流れていた。
理由も分からないままに、心に押しよせて来た何かを押えられず、私は泣いた・・・。
懐かしい日々の欠片、或る青の記憶だ。
〈 あとがき 〉
こうして難波田先生の事を書こうと思ったのは、
ある方のブログのアメンバー記事名に「記録 難波田龍起」という文字を見たからだ。
残念なことに私はアメンバーではないので記事は読めなかったが、
先生がいた時代へのノスタルジーが残った。
そして書くために、初めて先生の名を検索した。
私は何も知らなかった・・・。
あの頃、先生は相次いでご子息を亡くされて2年しか経ていなかった。
二男の画家 史男氏は32歳で旅下のフェリーから転落し、一カ月後にご遺体で発見されたそうだ。
そして翌年、34歳のご長男が心不全で急逝されたとある。
先生の本格的な青の時代は、この哀しみのあとに訪れたものだった。
後年、先生はご自分の青について、こんな風に語られたそうだ。
「依然として青が私のタブロオに欠かせない色である。
だからコバルトとウルトラマリンの消費量が多い。
海に消えた彼も青は好きで。夢みた海の祭りは華麗だった・・・」
荒れる海 難波田 龍起
【 難波田 龍起 (1905.8.13~1997.11.8) 】
日本抽象絵画を確立した洋画家。
高校生の頃に隣家に住んでいた高村光太郎の薫陶を受け、芸術の道を志した。
当初は詩を書いていたが絵画に転じ、形象の詩人と呼ばれるに相応しい作品を残した。