◆現在公開中「アラビアの女王」のヴェルナー・ヘルツォーク監督の出世作◆
ヴェルナー・ヘルツォーク監督の「アラビアの女王 愛と宿命の日々」(ニコール・キッドマン主演)の公開に合わせて、過去作「アギーレ 神の怒り」(1972年)・「ノスフェラトゥ」(1979年)・「フィッツカラルド」(1982年)・「キンスキー 我が最愛の敵」(1999年 ドキュメンタリー映画)を観賞してみました。
個人的に4作の中で一番喰いついたのが「アギーレ 神の怒り」。
大航海時代のスペイン人によるペルー探検というユニークな題材を扱った作品です。
1560年、南米のアンデス山脈の奥地に黄金卿・エルドラドがあるという噂を聞きつけたスペイン人コンキスタドール(征服・略奪を目的として探検を行う人)ピサロは、軍を率い、エルドラドを目指して山岳地帯を行軍します。
しかし、道なき密林の中で行軍困難になり、部下の軍人ウルスラを隊長、アギーレを副隊長とする分遣隊を先行させることに。
ウルスラ・アギーレたちは筏を作って激流の川を下り始めますが、ウルスラの指揮に不満を募らせたアギーレは、突如反旗を翻し―――
実話をベースに、征服欲に憑りつかれたスペイン人たちの傲慢さと、それ故に招いた悲劇が、アンデスの大自然の中で描かれていきます。
◆聖書と大砲をふりかざす傲慢なコンキスタドールたち◆
山岳地帯の密林を、甲冑で武装したスペイン軍が美々しく行軍するオープニング。
原住民奴隷たちを従え、ドレスを纏った淑女の輿まで連ねて、泥沼の湿地や断崖の隘路もものともせず。
文明を頑なに拒むかのように立ちはだかる大自然の中で、女たちの色鮮やかなドレスが、行軍の無謀さ・場違いぶりを一層際立たせています。
黄金が出ると聞けば世界の果てまで乗り出していく、当時のスペイン人の凄まじい征服欲が、このシーン1つからも伝わってきます。
スペイン人たちが「発見」したものは全て彼らの所有物になる、という征服者たちの身勝手な論理。
そして、全く異文化な現住民に彼らの文化・宗教を押し付ける傲慢さ。
彼らは友好関係を求める原住民に強引にスペイン語の聖書を見せ、理解しない(スペイン語を知らない彼らに理解できるはずがないんですが)と「(神に対する)冒涜だ!」と叫んで彼らを殺します。
この辺りの描写は極端で、決して実話ではないのでしょうが、コンキスタドールたちの傲慢な思考回路を端的に表現した印象的なシーンです。
侵略者としてのコンキスタドールだけでなく、彼らと深く結びついたキリスト教会に対しても、この作品はかなり批判的な見方で捉えています。
◆ヘルツォークが愛したクラウス・キンスキーの狂気◆
(中世的なフォルムの甲冑がキンスキーのアクの強い顔立ちに一層の禍々しさを添える・・・)
’70年代初期のCGもない時代に、高地の密林での探検を描き出したというだけでも凄い。
この映画がどんな過酷な状況で撮影されたかについては、「キンスキー 我が最愛の敵」でも監督本人が語っています。
予算さえあればCGでいくらでもダイナミックなシーンが作れる今どきの映画に比べたら躍動感の面ではやはり見劣りするものの、それは本物であるがゆえの限界というものでしょう。
ただ、そこを補って余りあるのが、アギーレ役のクラウス・キンスキーの異様なまでの存在感!!
一度見たら忘れられない悪魔的な顔立ちから滲み出る狂気・・・これは演技? それとも素・・・?
なんせ撮影現場での語り尽くせないほどのトラブルや、実の娘への性的虐待、ペドフィリアであることを自ら語るなど、スキャンダラスな話題には事欠かなかった人のようですから、素顔のキンスキーも相当社会からはみ出した人物であることは間違いないでしょう。
しかし、そんなキンスキーをヘルツォーク監督は5度にわたって主演に起用。
キンスキーの死後にも、ドキュメンタリー映画「キンスキー、わが最愛の敵」を製作し、彼との愛憎に満ちた思い出を語っています。
ヘルツォークはキンスキーの強烈な個性に強く惹かれていたんですね。
本作の征服欲と誇大妄想に取りつかれた狂人・アギーレを見れば、ヘルツォークがキンスキーの放つ強烈なオーラにいかに魅せられていたかがよく分かります。
クラウス・キンスキーの持つ狂気と紙一重のオーラは、大航海時代のスペイン人の傲慢さと誇大妄想的な征服欲に見事に重なり合う。
というよりも、日常世界では猛毒でしかないキンスキーの魔物的な魅力をスクリーンの上で存分に開花させるためのこの映画だったのかもしれない・・・そんな気さえしてくるほど、アギーレはキンスキー、キンスキーはアギーレそのものに見えます。
これはまさに、キンスキーのための映画と言えるんじゃないでしょうか。
(ヘルツォーク監督とアギーレを演じるクラウス・キンスキー)
◆娘への愛はアギーレの狂気とナルシシズムの象徴◆
おそらく有無を言わさずにこの無謀な行軍に加えられたアギーレの15歳の娘は、密林に不似合いな赤いドレス姿。アギーレと同じく金髪の、可憐な少女です。
しかしどうにも気になるのが、アギーレと彼女の間に漂う妙な雰囲気・・・それがただの勘ぐりではないことは終盤明かされます。
この父娘の禍々しい関係(具体的な映像はありませんが)も、現実のキンスキーと重なり合う・・・そこに確信犯的な意図があったかどうかはともかく、アギーレの娘への狂気の愛は、とりもなおさず彼の誇大妄想的なナルシシズムを象徴しているようにも見えます。
ポスター写真にもなっている、アギーレが死んだ我が娘を腕に抱くショットは、悲しみと狂気が綯交ぜになったアギーレの表情がとりわけ絵画的。
夢の崩壊とナルシシズムの死・・・しかし、眼を見開いたまま死んだ娘は、その虚ろな眼でまだアギーレの夢の行方を見定めようとしているようにも。
征服欲という狂気に憑りつかれた男の終焉を、彼の可憐な愛娘の死に象徴させるという演出、あざとさを感じつつも深く心を抉られます。
アギーレ父娘から溢れ出す禁忌の匂いを、2人を取りまく大自然が浄化していくような・・・或る種の神々しさに打たれるシーンでもありますね。
このワン・シーンのために全ての物語があったと言われても納得してしまうような、まさにキラー・シーンだと思います。
◆欲望の筏は大自然に呑まれていく◆
今回ヘルツォーク作品を3本観て印象に残ったことの一つが、動物の独創的な使い方。
吸血鬼ものの「ノスフェラトゥ」では鼠、近代のペルー探検を描いた「フィッツカラルド」では
ヤマネコの子や豚がとても印象的な形で登場するし、この作品でも当初は豚の群れをスペイン人探検隊に見立てて使う予定だったとか・・・残念ながらその構想は実現できなかったようですが。
しかし、豚はボツになったものの、この作品でも動物が非常に重要なシーンで効果的に使われています。
中でも最も印象に残ったのは、リスザルの群れ。
内部崩壊によって一人、また一人と死者が出、熱病や原住民たちの矢で命を落とす者も・・・そして、とうとう分遣隊の筏に残ったのはアギーレただ一人に。
気が付けば、船はどこからともなく現れたリスザルの群れに占拠されています。
アギーレを残して皆動かぬ骸になった筏の上を、死者たちを嘲笑うかのように走り回る猿たち。
もはや筏の主は人間ではなく猿たちです。
その光景は、まさに征服者たちの野望が大自然に呑まれていく絵そのもの。
この辺の演出も非常に観念的かつビジュアルなんですよね。
映画的表現のセンスにただならぬものを感じます。
それにしても不思議な味わいの作品です。
大航海時代のコンキスタドール・アギーレを冷静な眼差しで眺め、彼らへの批判と嫌悪感を露わにしている反面、神をも畏れぬアギーレ(或いは彼を演じるクラウス・キンスキー)の狂気に強く魅せられたかのような視点も・・・・・・本作のアンビバレンツな味わいは、「キンスキー 我が最愛の敵」でキンスキーを語る監督の、彼に対するアンビバレンツかつ大きな熱量を持った感情にも通じるものがあります。
(画像はIMDbに掲載されているものです。)