それをお金で買いますか――市場主義の限界
マイケル・サンデル Michael J. Sandel
早川書房
売り上げランキング: 4,042


この読書は大変よい体験となりました。

良い本というものが、自分に見えていなかったものを見せてくれる、考えさせてくれるものだとしたら、この本はまさしく良い本でした。

ハーバード大学で政治哲学を教える著者マイケル・サンデル教授がこの本で危惧するのは、市場主義が生活の至る所に入り込んできたおかげで、気づかぬうちに大切の倫理観や社会規範というものが喪われていくということでした。

たとえば、腎臓が平気でお金で取引されていたり、薬物中毒の女性が子供を生まないように(うまれつき薬物中毒の子供が生まれてしまうので)お金を与えて避妊手術をすすめるプログラムが有ったり、国と国の戦争が民間の戦争代行企業によって行われていたり、はやいもの順であった議会を傍聴する権利がホームレスを使った「並び屋」の横行で売買されるようになったり、成績の良い子供に学校がお小遣いをわたしたり。もちろん、太古からある「売春」もそのひとつです。

経済学上は実はこうした取引は世界をより幸せにしているということになります。すなわち、自由意志において取引されているのだから、売る方も買う方もその取引以前より幸せになっていると考えるのです。

たとえば、自分の腎臓を売りたい人は売ってでもお金がほしいし、子供を生む能力を取り上げられてでもお金がほしい薬物中毒の女性がいるし、学校側はお金を払うことで子供の学力をあげることができるし。

けれど、こうした経済学的な善はどこか、うさんくさいですよね。そのうさんくささというものの原因を著者は大きく2つにわけます。

一つは、公正性が阻害されているということ。たとえば、お金がなくて腎臓を売る人は本当に自由意志なのか? ということ。そうしなければあすをも生きていけない状況に生きる人にとってそもそも自由な選択などないということ。そして同時にお金がある人だけ腎臓を買って病気を治せるという不公正性。

しかし、著者がもっと声を大にしてうったえているのはもうひとつの理由。

それは、私たちの社会規範が喪われていくということ。たとえば、体の一部というものに値段をつける、子供を生む自由に値段をつける、国民だれにでも門戸を広げるべき公的議会への傍聴権に値段がついてしまいお金持ちしか聞けなくなるというのは、私達が意識はして来なかったが大切にしてきたはずの道徳や社会規範を傷つけているのではないか? ということです。

腎臓を売り買いする市場があることで、売る側も買う側も、それがないときよりも益を受けられるけれど、それは体の一部は売っても良い物であるという考えを助長します。子供は勉強を本当の関心や学習意欲の高まりではなくお金をもらうための方法として取り組むようになります。だれでも聞く権利のあるはずの公的議会の傍聴権がお金を持った企業だけの特権になってしまいます。そのとき、私たちの大事にしてきた精神の一部が気づかぬうちに失われているということです。

わかり易いはなしとして、イスラエルの保育所の例が繰り返し取り上げられていました。仕事でどうしても子供を迎えに来るのが遅くなる親が増えてきたため、保育所は罰金を設けました。親は向かえが遅れたら罰金を払う事になりました。とうぜん、保育所はそれから「遅刻」が減るものだと思いました。(経済学的視点でもそうならなければならないはずでした)

ところが、実際には、罰金を料金ととらえた親が増えたため、今までよりも「遅刻」する親が増えたのです。その時に、子供をしっかりと時間通りに迎えに来るのが当たり前であるという、社会規範は市場の原理を導入したことによって喪われてしまったのです。

市場主義はあまりにも強力で生活のいたるところに入ってきて、そして私たちの知らない所で私たちの道徳であったり美徳を傷つけていきます。

こんな例もありました。プロ野球のチケットは特等席から末席までの価格差は昔は微々たるものでした。ところが最近ではスカイボックスのようなVIP席をつくって、お金をとれる層からはふんだんに取ることで、収益性の向上に成功しました。ここで何がおこっているのかというと、経済学的にはもちろん顧客の(隠されていた)ニーズを発掘し、スカイボックスという特別席を作ることでそのニーズを満たし、そして収益もあがる。win-winのようにみえます。

ところが、そうすることで、プロ野球観戦という企業の社長も日雇い人夫も隣同士に座って同じビールを飲みながら一緒に観戦するといった文化が失われてしまい、ますます、持つものと持たざるものを隔離していく時代に入ったわけです。

最近では日本でもよく行われている命名権の売買などもそうです。自治体が所有する施設や不動産に、昔から馴染んできた名前があるとします。財政難の自治体はその名前を一定期間変更する権利を企業に売ることで収益を向上させようとします。そんなとき、本当にそれは簡単に飛びつくことのできる良案なのかどうなのかすら議論されていません。

たとえば、仮に東京がひどい財政難にくるしんでいたとして財政健全化のために議会が命名権を売ったとします。そして「東京タワー」が「モル◯ン・ス◯ンレータワー」に、「国技館」を「◯ティバンク・アリーナ」とかに名前を変えてしまったらどんな感じがするでしょうか? 

著者は、もちろんあたまごなしに、市場原理を否定しているわけではありません。市場原理によってこれまでさまざまなニーズが満たされ、供給側も需要側も双方が以前よりも豊かになっているのは間違いないわけですから。

でもおなじような考えが従来価格取引されていなかった分野にまでひろがったときに私達が失ってしまうものもあるんだよ、と言っているわけです。少なくとも市場の原理をいままでそれがなじまなかった生活の細々とした場面に導入する前に、そうすることで壊しかねない美徳や社会規範といったものを明らかにするために議論しようぜ、というのが要旨です。


ところで、わたしがこれを読んでいながらずーっと頭のなかに疑問がありました。それはどうして著者は(そしてわたしも含めきっと大半の人は)お金が目的となってしまうこと自体をそれほどまでに忌避しようとするのでしょうか? お金は本当にそんなにも悪役なのでしょうか?

遠き太古の昔は、すべてが物々交換だったはずです。
そのときに売手と買手(ほとんどのばあい、イコールで「作り手」と「最終消費者」)は必ず、会ってそして物を交換したはずです。

けれどそんな経済では、あまりにも不便であり歴史のある時点でお金が発明されます。お金の発明によって、ものの流通は「作り手」と「最終消費者」以外に何層もの手を渡るようになり、そのおかげで地理的制約も超えて商品が届くようになりました。

今では、私たちの持つ商品の大半は顔も見たこともなければ、同じ言葉すら話さない人によって海外から輸入されています。その商品のなかに「作った人」をみることはほぼありません。

お金はものの流通の上で計り知れない利便性を世の中にもたらしましたが、一方で人と人とのふれあいをどんどん減らしていっています。お金がさらにクレジットカードや電子マネーなどになってネットで買い物するようになった現代ではさらにその傾向は強まりました。

私たちはお金によって、どんどんお互いから離れていっているのではないのかと思うのです。

お金そのものは実際には何の意味もありません。それが商品やサービスと交換されて初めて意味をなすものです。その交換する権利だけを増やそうとする欲望には、ものやサービスを提供している人たちの顔が入る余地がないわけです。(お金ではなくて「あれがほしい、これがほしい」といった物欲は健康的です)

私たちは、見かけ上は売買によって、モノやサービスを交換しているように見えます。そして交換した商品の効能が便利な生活を実現してくれたり、より幸せを感じさせてくれたりすると考えています。これは大部分正しいと思います。けれどそれだけではないような気もします。本当は私たちはそうした商品やサービスの交換を通して、私たちの一部を交換したいという欲望があるような気がします。

だから手作りのプレゼントはたとえ出来が悪くてもうれしいものだし、美辞麗句をならべたプロのスピーチライターによるスピーチよりは不器用でもその人の心が見える温かいスピーチにもっと感動してしまいます。地球環境にやさしい品と地球環境を汚している品があったら、前者を応援したいと思います。生産者の顔写真が入った野菜、しかもその顔写真が笑っていたりすると、私たちは大根を買っているのではなくて、その大根を作っているオバサンへの感謝を抱きながらレジを通ることができるような気がします。つまり、その商品取引のときに、モノとお金の交換だけではなく、私たちはなんらかの主張をしているわけです。

いながらにして世界中の物を買えるようになって、より便利な生活ができているのは、確かにお金の発明によります。それでも、私たちは、目的もなく「お金」だけを求める考えを毛嫌いしてしまいがちです。お金自体に夢を抱く子供に興冷めしてしまうのは、世界にあふれたモノやサービスにはかならずその背後に人間がいるということを彼らが知らないで育っていってしまうのではないかという危惧のような気がします。

ところで、この本には、「こんなビジネスがあるのか」という驚きの商売が多数掲載されています。

私が一番驚いたのは、病気などで余命の短いとされている人から生命保険をそのまま買い取って転売するビジネスです。患者は死後にもらえる生命保険を割り引いてでも生前にもらうことで残りの人生を充実させていくことができます。一方で買い取った銀行などはそれを転売して利ざやを稼ぐわけです。そして最終的に保険を購入する人はそこから保険をかけられた人が死亡するまで保険金を毎月支払い続け、死亡時に満額の保険金を受け取ります。一見、だれも不幸にならないシステム(むしろ誰もが得するシステム)のように見えます。でも、私たちの心は、なんだかこんなビジネスを積極的に応援できない部分があります。

なぜなら誰か赤の他人の生命保険を最終的に買い取った人は、この赤の他人である患者が死なない限り、毎月保険料を払い続けなければ行けません。つまり、彼にとっては、患者がはやく死んでくれないと困るのです。

特定の人が死ぬことに賭けるようなこの商売が道徳的にグレーであるのは間違いがありません。

こうしたビジネスは、すでに「お金の利便性が人と人を遠ざける」ようなレベルではなく、臆することもなく命というものを積極的に侮辱しているからこそ、多くの人は強い憤りを感じるのではないかと思ったのでした。

お金が無色透明で利便性をもたらすツールに過ぎなかった時代は終わり、市場主義はお金を主役に据えたため、人間の匂いのない経済が生活のあちこちに侵食して来ました。それは、私達がいままで持ってきた美徳や社会規範と上手に交じりあうことなく破壊を続けていきます。だからこそ、もう一度自分たちは一体何を大切にして生きているのかを問う必要があるのです。


マイケル・サンデル教授の前作も大ベストセラーでしたね。
↓↓
これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
マイケル サンデル
早川書房
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