アイ・イン・ザ・スカイ その1 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

正月早々、いい映画を観た。

 

パンを焼く母親、父親はフラフープに飾りの色テープを巻き、娘はそれをくるくると軽やかに回す。
ナイロビに住むある家族の朝の風景をカメラはただ写し取り、そしてまさにドローン撮影によって、彼らが住む家の俯瞰から街の全景がゆっくりと捉えられ、メインタイトルが入る。

 

登場人物たちが住む街の全景を冒頭に配する映画は数多い。このような全景ショットがつまらないのは、それが映画の冒頭を形づくるための官僚的なショットでしかないからだが、この映画のドローン撮影による街の全景、そしてこれら一連のオープニングシーンが優れているのは、それらが本編全体を予告し、まとめ、象徴しているショットの連なりであるからだ。

 

この街のこの一角はやがて映画の主要な舞台となるだろう。しかし、その舞台はドローン撮影が示すとおり、外部からの接触を許されてはいない。
このシーンに続いて、イギリス、アメリカ、中国の様々な場所を舞台に映画は展開されるわけだが、それらの場所から眺めるだけ、覗き見されるだけの場所が、このナイロビの小さな街の一角であること。
この場所に唯一、接触できるのは無慈悲なミサイル攻撃だけであり、その中に生きる少女も母親も父親も外からの影響によって生活を変えるものではない。
その厳然たる事実をこの全景ショットは予告している。

 

そして、あの素晴らしいパン。

 

少女は母親が焼いたパンを売りに出かける。道ばたに粗末なテーブルを出し、布を広げ、何枚かのパンを並べる。丸くまとめられ焼かれたパン生地の堅さ、その触感。
もしそれらを落っことしてしまったら、少女はその汚れを軽くはらって再びテーブルの上に並べ直すだろう。汚れがひどく売り物にならないパンは籠の中に捨ておかれるだろう。
それは「生活」としか言えない何かである。少女の「生活」を数枚のパンが示すこと。

 

この映画が素晴らしいのは、そのような生活の糧としてある「パン」がサスペンスの重要な小道具となることだ。


「こんなにパンの数を数えたことはなかった」というツイートを見かけたが、ヒッチコックの諸作、例えば「汚名」のワインや鍵、「見知らぬ乗客」のライター、「知りすぎた男」の楽譜、それらと同様に、単に気の利いたサスペンスの小道具ではなく、無機質な食物が登場人物の生死を左右する無慈悲な物質に昇華することが素晴らしい。昇華せしめることの恐ろしさ。