アーロと少年 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「アーロと少年」

恐竜が絶滅しなかった世界。
その設定が恐竜を主役とするための物語上の設定、枠組みにとどまらず、人間の進化や人類の歴史の中での家族の在り方にまで物語を広げていく。その巨視的な世界感が素晴らしい。

恐竜が進化した世界の中で、アーロら草食恐竜一家は既に農耕生活を営んでいる。長い首で畝をつくり、水をやり、収穫する、その長い描写、新しい家族が生まれるまでの長い描写は、「生きるための営為」が身体の動きとして逐次的に表されており、アニメーションならではの楽しさをこえて感動的であった。

一方、人間は未だ二足歩行には至らず、「家族」という概念も曖昧なままのようだ。
人間たちは、アーロが旅の途中で出会ったトリケラトプスや翼竜のように、「生きるために役立つ」者たちが集まり疑似家族を形成している状態らしい。

「家族」の在りようをアーロと少年は木の枝で示す。そこには「生きるため」に家族を作ること、食べるために家族を作ること、作らなければ生きていけないことが同時に表現されている。
少年が人間家族と去っていくシーンが感動的なのは、ヒューマンな視点や友人と別れといった紋切り型を超えて、それが、これからの人間の進化や家族の在りようにまで思い至るからだ。
人間たちは何万年もかけて、進化した恐竜たちとの交流を経ながら、「生きるため」から、それ以上の幸せを「家族」の中に求めはじめるだろう、そして彼らは火を発見し、恐らくはアーロたち恐竜を食料として駆逐していくのだ。

進化や歴史を見据えた視点、主と従の逆転。「アーロと少年」は恐竜と人間が出会い別れるまでの友情物語、という一見シンプルな物語を持ちながら、また西部劇との類似点を多く持ちながら、実は進化途上の人類と恐竜とのファーストコンタクトを描く、純然たるSFとしてあるのだ。