その壁を砕け | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「その壁を砕け」中平康

小高雄二がある強盗事件の容疑者となるまでは、ごくオーソドックス。夜の山道を走る車をヘッドライトだけで捉えた姫田真佐久のカメラが面白いくらい。
むしろ、冤罪ものすか、西村晃が無理くり供述を引き出すんすか、頭の悪い小高雄二は「最高裁がある」とか絶叫したりするんすか、とかなりげんなりしながら観ていたのだが、小高雄二が起訴されてから、視点は彼を捕まえた長門裕之刑事に移り、冤罪もののパターンを覆す。

この視点の転換が素晴らしい。
映画は長門の周辺を丁寧に描きながら、事件そのものではなく、事件の関係者であり長門が好意を抱いていた渡辺美佐子の顛末を追っていく。
その帰途ようやく長門は「小高が犯人じゃなかったとしたら…」と呟く。

この台詞の唐突さ。そしてここで、冤罪ネタとは離れた長門の恋愛譚が、本筋の物語と結びついたことで映画は一気に盛り上がる。鳴り響く伊福部昭。
この関係ない物語を本筋に結びつける面白さは新藤兼人脚本によるものだろうが、それに至る長門の芝居、軽妙な食事シーンから深刻な佐渡島でのシーンに至る演出のバランスが絶妙だし、長門にこの台詞を言わせるための海岸でのロングショットが素晴らしい。
つまり、新藤兼人シナリオの大胆さと、それを許容せしめる中平の演出力。

このような登場人物の翻意、気づき、決意を新藤そして中平は周到に、あるいは唐突に用意する。
長門の翻意を示す、車と女性たちのオーバーラップ、芦田伸介弁護士に仕事を引き受けることを決意させる芦川いづみ、そして渡辺美佐子が証言を翻す一瞬。

中でも素晴らしいのは芦川いづみの一途な表情だ。
彼女は長岡の芦田伸介弁護士を訪れる。川縁を歩き、橋を渡り、ようやく弁護士宅を訪問する、その迂遠さが素晴らしい。
芦田伸介は釣り道具をいじりながら彼女の話を聞き、仕事を引き受けることとする。
芦川は「彼は(殺人を)そんなことする人ではありません」とただ繰り返すばかりで、芦田を説得する言葉を設けることはない。台詞による助けで芦田が翻意するわけではない。

二人を正面から同時におさめたロングショットから、芦川いずみのアップへ。それだけでこのシーンが成立する。中平は芦川の芝居を信じている。それで観客を納得させられると信じている。その新しさ。新しい演出。ヌーベルバーグである。


いかにモダニストと称揚されようと、中平康を凄いと思ったことは一度もなく、フロック気味に「狂った果実」と「密会」だけが面白く、他は世評高い作品も含めことごとくつまらないと(すべて観ているわけではないのだが)断言してきたのだが、この作にはまいった。

新藤兼人のシナリオの(終盤、とんでもないご都合主義な偶然があるのだが、そんな瑕疵を反古にできるくらいの)素晴らしさと共に、そこに何を加えるか、つまり中平康の演出力の高さとその新しさに圧倒された。
中平康は「モダニズム」などといった表層的な技巧のみで語られてはいけない、そう思わせる傑作であった。