「赤坂の姉妹」より 夜の肌 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「職人」とよばれる映画監督がいる。
自分の経験値でさくさく映画を撮りあげるイメージの人。自分の欲しい絵が撮れる場合もあるし、撮れない場合もあり、後者ならば「ま、なんとかなる」と考え、そもそも「欲しい絵」など念頭にない場合だってあるだろう。

一方、「作家」として遇される映画監督もいる。遇されてなくても、デビュー作を撮ろうと気合い漲る新人監督もこれにあたるのかもしれない。
とりあえず、やりたいこと、欲しい絵が確実にある。なければ現場でそれを求めようと必死になる。そして欲しい絵を撮るために全身全霊を傾け、撮れない場合は次善の策を講じ、それでも撮れないと(時にパニックになり)さてどうするのだろう?

しかし、そもそも映画にあっては「作家」と「職人」の区別などないような気がする。
映画は「一言で言えば戦争」なのであり、「急行電車に乗っているようなもの」なのだし、「映画監督に著作権はない」のだ。何を言いたいかとか、何をしたいかではなく、映画には映画監督の経験値とそれが培った技、あるいは持って生まれた才だけしかないのではないか。
結果として賞をとったり、とらなかったり、誉められたり、誉められなかったり。それが作家と職人を分つだけの話ではないか。

黒澤明は「デルス・ウザーラ」の撮影中、「俺は(この作品の撮影中)自分の欲しい絵を撮ったことがないんだ!」と泣いたと言う。しかしそれでも絵はつながり、映画は完成する。
黒澤は作家として遇されるが、やってることは間に合わせの職人さんだ。素晴らしい。

川島雄三はどうか。

今回、文芸座の特集では二本しか観ることができなかった。
一本は、これぞ職人さんの映画「明日は月給日」。

はっきりいやどうでもいい話をさくさくっと撮りあげ、しかし、やっぱり面白いよと。
私は川島雄三の松竹時代の作品を数本しか観ていないのだが、川島が自分を卑下して言うような「ただやっているという感じ」「商売人なりました」どころではなく、高い水準(言い過ぎか)の娯楽映画であって、これはやはり川島雄三の才としかいいようがない。

でもう一本は「「赤坂の姉妹」より 夜の肌」。
「幕末太陽伝」」から3年後、作家として遇されながら、作家的なものと職人的なものをぐちゃぐちゃに撮ってた頃の作。ま、すべてのキャリアでそうだったわけだが。

例えば、新珠三千代と淡島千景の喧嘩シーン。
両者をフルで捉えた切り返しから、両者が互いの位置を変え、そこらにあったモノの投げ合い、殴り合い、部屋を越えての追っかけっこに発展する。それを捉えるカメラと役者の動きの素晴らしさには観客の75%が悶絶したという。

和室に座る、歩く、立ち上がる、その度にカメラから外れ、再び画角に収まる役者の動き。
川島はアクションの途中でカットを割るいわゆるアクションつなぎではなく、カット頭で常にアクションを入れる、そのメリハリ、テンポの良さが素晴らしく、それだけで観ててほれぼれ、浮き浮きする。ああ職人。

一方、作家として。
正直、淡島千景が「まごころ」を標榜しながら、男を糧にのし上がっていく様はどうも淡白だし、新珠三千代のフランキー堺への想いも今ひとつよくわからない、三女の川口知子グループの若さや真面目さとそれらが対比されるというのも生硬な気がする。
だからラスト、雪が降る美しい光景の中で三姉妹はそれぞれの結末を迎えるのだが、それは物語にふさわしい結末の域を超えていない。いや、職人さんはそれでいいのだ、充分だ、しかしな、と。作家・川島雄三の傑作群とつい比べてしまう。

というわけで、何が言いたいかと言うと、やっぱ「作家」はいるっつう話か。川島雄三はやっぱ職人さんでしかないよね、って話か。
いや、そうではなく、経験値と才能だけで「金儲け」で仕事をする者は素晴らしいということだ。

「夜の肌」はその中の一本でしかない。結果として、ま、そこそこかもしれないが、松竹時代よりは自分の好きなことができたし、私は「州崎パラダイス」や「女は二度生まれる」を撮ることもできる。やるべきことをやって、さくっとこなす。そんな技にこそ魂がこもる。時には皆さんに褒められる作品も生まれればいいなとは思うが、それは私には関係がない、と川島雄三師は語る。

そして時を前後して、私はまるで魂のない映画を観た。川島雄三の映画みたいだった。
ウッディ・アレンの新作「ブルージャスミン」のことだ。とてもとてもとても面白かった。しかし某塾長はこれを批判する。フェリーニでベルイマンだそうなのだが、あいかわらず80年代の追体験を続けているのか、やれやれであるが、この話はまた後日。