旧支配者のキャロル | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

履歴書の情報によって彼女は「監督」として選ばれる、履歴書に記入した時点で彼女の運命は決している、いかにもフリッツ・ラング的、あるいは「ブラックサンデー」的な光景に「うひょ~」という高橋洋的ギャグが炸裂するオープニングから、あまりの快調ぶり、ここまでこの人は巧かったのかと驚いた。

この冒頭のストップモーションは増村の何だろう、「でんきくらげ」にあったっけ、「大悪党」にあったっけと思わせ、「心にいつもスタンガン」のインサートに爆笑し、つまり、高橋洋はいつの間にタランティーノみたく、ジャンル映画をするりと自分の映画に違和感なく滑り込ませる、あるいは違和感そのものを楽しませる。

この出来の良さ、完成度の高さは果たして「ソドム精神」なのか、と思う。

映画を完成させるために体を売る、客となるのであろう男が彼女の顔をなで回す、そのぬるりとした素晴らしきエロテッィクな瞬間を設けながら、続くシーンの「再開っ!」はない。
彼女が自分の体を犠牲にしそれを振り切って撮影に向かう、その決意表明としての台詞には聞こえなかった、つまり感情表現の台詞ではないとして不満を述べているのではない。
この台詞と彼女を背後から捉えたスタイリッシュな絵が、それまでの諸々をまとめ、すんなりと映画におさまってしまったことが不満なのだ。そしてその背景にある既存の演出スタイル、映画的制度への安易な依存が不満なのだ。

私が観たかったのは、彼女が死を迎え、そして覚醒する、そこから始まる物語だったのだと思う。そんな収まりのつかないエスカレートぶり、ずれをこそ期待していたのだ。
そんなあなたこれでええやん、こんだけ見せてくれたらいいんじゃないすか、いや、でもな「恐怖」や「ソドムの市」の人がこれでいいのか、と思うわけだ、それじゃいかんか。