ナイト&デイ | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

痛快かつ荒唐無稽、ご都合主義が楽しい。悪漢に捕まり、拷問から逃亡に至るプロセスをばっさり省略するあたりの見事さ(ボブ・ホープ曰く「俺たちが逃げられた理由を誰も信じないだろうな」)。
しかし全くノレないのは、官僚的なアップとその切り返しが、折角お膳立てされたシチュエーション、演出が舌なめずりをして腕を振るえるだろう舞台装置を反古にする、壊滅的なものとするからだ。

冒頭、空港でトム・クルーズと思しき男が後ろ姿(というより後ろ頭)で登場し、さて彼はいかにしてその顔を見せるのかと思いきや、あまりに単純、何のケレンもないので、あれあれあれとがっくりし、ま、いっか、それはそれで勢いがある、肩すかしも嬉しい、と思いなおし観ていると、彼が群衆の中から金髪女性を盗み見はじめ、おお、彼の視点からキャメロン・ディアズが登場するのだ、見る見られる関係のスリリングななんとかとか、なんとも映画的なシチュエーションに心躍らせるのだが、それもまた肩すかし、彼女はあっさりと登場し、しかもどアップ、続いて、シーンは機内に移行し、またまたえんえんどアップでの切り返しが続くあたりで、この映画への不信感がつのってくる。

そして最初のアクションシーン。キャメロン・ディアズがトイレで化粧とブラを直している間に、トム・クルーズは悪漢たちと相当なアクションを続けるという、これまた魅惑のシチュエーションなのだが、その帰結、彼女がトイレからでてくるアップ、その切り返しでトム・クルーズがウォッカを二杯掲げるバストショットにつなげるので、やっぱり、これは私が求める映画とは違うことがはっきりとする。

もちろん、私が求めている映画、なんてのをジェームズ・マンゴールドはまったく無視をしていいわけだが、アクションシーンのことごとくをバストサイズで撮ることはないだろうと思う。常に黒い鞄をタスキ掛けにせずにはいられないヒロインの勇姿、シーン毎にファッションを変える旗本退屈男なヒーローの余裕、それをアップでしかおさえないってのはどうなのか。

黄色いドレスにタスキ掛けの鞄、その姿を私たちが観ることができるのは、彼女がクルーズから逃げ出すその後ろ姿のロングでしかなく、しかも悲しいことにそれはいかにも説明的なショットでしかない。あるいは、その滑稽かつキュートな姿を捉えた俯瞰ショットはテレビのニュース映像として消費される。贅沢ではある。確かにヘリコプターから捉えられたそのニュース映像には笑った。しかし、伏線としてヘリコプターのアップショットを捉える暇があるんなら、ちゃんとそのコケティッシュかつ「ファールプレイ」なロングショットをちゃんと見せてほしいと思う。
その不満はわがままか、私の好みとは外れているという独善的で傲慢ないいがかりか。

ヒロインに密かに思いを寄せている消防団員との会話。「密かに思いを寄せている」ってのを1シーンでわからせる見事さ。トムクルーズが乱入し「こいつ、こいつ」と小声で話すヒロインとそれを意に介さないヒーロー、わけわからない消防団員らの珍妙な会話。

アクションの合間にふと訪れる静かな一瞬。久々の再会に胸躍らせ、クルーズを呼び止めるディアズ。いいシーンだ、そのロケーションもいい。

走るクルーズ。その姿を私たちは「ミッションインポシブル3」で「コラテラル」で観た。フルショットの横移動こそが彼の勇姿を捉える唯一の手段だとさえ思う見事な走り。

しかしマンゴールドはこれらをすべてどアップで捉える。どアップの切り返しがえんえん続く。
少なくとも彼が選択しうる最良の演出とはまったく思えない。それとも例えばホークスが選んだような、なんてぇことのないカメラこそが役者の芝居を最大限に活かす、その現代バージョンなのか。
私には単に官僚の手つきにしか思えない。マスターショットでロングは撮っているはずで、しかしそれらは役者の芝居を見せるため編集で排除された、とも思えない。
映画的な様々なシチュエーションがアップショットの連続で台無しにされている。舞台はこうだから、役者をこう動かし、こう捉える、そしてこのシーンをもっともっと楽しくする、その努力がみられない。

狭い列車の中、コンパートメントでの死闘。しかし、もちょっとカメラを引かないか。悪漢が掴むソーセージのギャグがよくわからんじゃないか。
ラストの会話もくどくはないか。この一歩手前で映画を終わらせる、そして10歩手前にカメラを据える。それが粋ってもんじゃないか。