江戸遊民傳 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

宇野重吉が何の役かと思ってたら、いきなり中村翫右衛門の役だったので萎え萎え。どう考えてもミスキャストなんじゃん?と思うのは後年の重吉を知っているせいかもしれぬ。ちなみに山茶花究はナイスキャスティング。青山京子(=原節子、びびったろうね)も悪くないが、妙に今どきっぽくなるのは望遠で撮ったショットが多いせいか。

それはともかく、あまり意味のないカメラワークや、やけに正面に入った切り返しのアップ、大仰な演技(特に広太郎=松本錦四郎の目張りの入った流し目芝居)には辟易とする。

とはいえ、山中版とはセットをことごとく変え、だから当然、山中演出を踏襲するはずもなく、むしろ、あえて真逆のことをしている印象もあり、一つ年上の高名な師匠への萩原遼の想いはどんなものだったのだろう、その意気込みはしっかり目に見える、だからこれはこれで堂々とした一作だと思う。

大きく異なるのは、山中版では脇役にしか過ぎない広太郎を、河内山に対する存在として大きく扱っていることで、しかし、シナリオ自体はほとんど変わっていない。

そういえば、山中版に描かれていた男たちは、何を考えているのかさっぱりわからなかった。わけわからないけれど、とにかく物語は動くのだし、そして男たちは外部で起こる物語に巻込まれているのみだから、それでいいのだと。

じゃ、物語を動かす主要人物たる広太郎はどうなのか。山中版の広太郎は「子供だから、突拍子もないことや思慮のない行動をとる」というテーゼで全篇が貫かれている。彼が心中を図る件が検閲でカットされているのだとしても、この人物像は過激だ。そんな思慮のない人物によって、物語はあっちいったりこっちいったりするわけで、そんなものを観客は是として観るのか。これが観るのだ。

萩原遼は意を尽くし、なんとか広太郎の行動原理を捉えようとするのだが、結局そんなことはわからんでもいい、と観客は思う。
ラスト、河内山らが犠牲となって広太郎は逃げおおす。山中版で大切なのは、逃げさせることであって、逃げたかどうか、逃げてどうしたかはあまり関係がない。だから死んでいく河内山のアップ(といってもウエストくらい)はちゃんと撮っても、広太郎はロングショットで右往左往しているだけだ。
萩原はそこになんとか理屈をつける、広太郎の「(犠牲になってもろて)すまなんだぁぁ」と叫ばせるわけなのだが、そんなもんは観客には関係がない、と思う。いや、関係なくはないのだが、そういう構造に映画がなってない。

と、山中版と比べるのは酷ではあり、プリントもきれいだし、美術もカメラも美しい、雪のシーンは山中版と比べても遜色なく叙情的だし、これはこれで楽しめる一作なのだが、と書いてて今気づいた。
そうなのだ、あの雪は叙情を高めるための舞台装置ではなく、山中にあっては、ただ降ってきた雪をただ撮ったに過ぎない、だからこそ美しいのだ。

江戸遊民傳
1959年(S34)/松竹京都/白黒/104分
■監督:萩原遼/脚本:三村伸太郎、山中貞雄/撮影:服部幹夫/美術:水谷浩/音楽:米山正夫
■出演:近衛十四郎、宇野重吉、松本錦四郎、瑳峨三智子、青山京子、沢村国太郎、山茶花究