インセプションとソルト | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

この夏のアクション映画二本立て。

「インセプション」

エメリッヒの「デイ・アフター・トゥモロー」は冷気がまるで殺人鬼のように可視化されて襲ってくる。これには驚いたが、つまりアメリカ映画はどんな場合にもなにかしらのルールを設けるわけで、それはもぉ作者の恣意でしかなく、もちろん映画は作者の恣意によるものだが、人類の全てがそれぞれに体験しているであろう夢なんてものに勝手にルールつけられてもな。そのルールに沿ってアクションしたりされてもな。寝小便でしかない水の奔流にめんどくさい小理屈捻られてもな。
大体、夢がどうだのこうだのって中学生が自主映画で撮るネタじゃねーか。

興味まるでなし。
ラストの駒がどーだのこーだの、どっちだっていーよ。

しかも、これ「過去に傷を持つ男があるミッションを指揮する。ミッションの過程でその傷は癒える」つう実にオーソドックスなアクション映画、「超高層プロフェッショナル」なわけで、夢だのなんだの関係ないじゃん、夢にすることで心の傷とその再生ドラマがよくわかんなくなっちゃてるわけで。

というわけで、たいしたことしてないのに大袈裟ぶるのがノーランの悪いとこ。そういうかっこつけた映画が私は大嫌いだ。B級テイスト、軽い作戦アクションならそれなりに楽しめたと思うのだが、ああこのネタをスティーブン・ソマーズがジョナサン・モストウがフレッド・デッカーが撮ってれば。

「ソルト」

「インセプション」は何をやってるのか、見える見えないレベルで言えば、よく見えた、よくわかった。分かる分からないレベルで言えば、まるで興味がなかったのだが、こちらはまるで見えない。アンジェリーナ・ジョリーが何をどうしてどうなったかがまるで見えない。なぜ見えないかと言えば、撮ってないからで、それはもう昨今のアクション映画の退廃でしかない。それでも「インセプション」より全然面白かった。

それはなぜか。アンジェリーナ・ジョリーがやたら強いからじゃん。
普通、主人公がやたら強い映画は面白くなく、なぜなら主人公が負けるか負けないかのサスペンスが(たとえ絶対負けないにしても)醸成できないからで、ではなぜ「ソルト」のアンジェリーナは面白いのか。

金髪、顔ぼこぼこではじまり、目の色を変え(字義どおり)、髪を黒くし、やたら服を着替え、しまいには男装になるというコスプレ、ってより服装倒錯としか思えぬアンジェリーナ姐さんが最高に変だからです。こいつ人間じゃねー、だんだん人間離れしてく、と。
ただ、この変さを「映画的、或いは探偵映画的な運動の一環」なんつっちゃうと、わからんでもないが、それは何も言ってないに等しいのでいかんと思うよ。
ちなみにストッキングを脱ぐ女の最高峰は「コーマ」のジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドでよろしく。