私の優しくない先輩 その1 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ツイッターでモルモット吉田氏が褒めておられ、寺脇研が貶していたので観た。おすぎが貶し、芝山幹郎が褒めているような感じ。それは期待できる。
(と思ったら、ガース柳下が貶してることに気づいたんだが、これはどうでもいいや)

とはいえ、始まって最初の20分は相当にきつかった。例えば掘禎一の「妄想少女オタク系」はつらいとはいえ、最初のショットからそこはかとなくいい映画の匂いがあったのだが、これにはまるでなく、第一、なにかしらのショット感覚が感じられぬ。興味のまるで感じられぬ田舎娘のモノローグに、この先えんえんつきあうのかと思うと絶望的になる。

相米は、物語の域を超えた過剰な演技をアイドル女優たちに強いることで、彼女たちの肉体の現前を期待するという方法論であったのだが、この監督が川島海荷に求めるのは、ステロタイプな芝居をあえてさせ物語に過剰に奉仕させること、「データベース化された」あるキャラクターを演じさせること。さらに、彼女はこうあってほしい現実やこうなりたい自分を夢想し、また心臓病で長くは生きられないという設定が彼女に確固とした免罪符を与えている。
別にいいんだもん、と二次元的な世界観の中で充足しきっている主人公と、それに追随し満足してしまう映画。
恐ろしくつまらぬ。アニメでやれよ、と思う。

ところが、彼女を取り巻く現実と夢想はしだいに乖離しはじめる。
現実はそんなに甘くないわけだから当然と言えば当然の話なのだが、この映画が面白いのは、少女が現実を受けとめていく、その心の動きをメタレベルで表現し、さらに二次元キャラクター川島海荷は時にそれにすっぽりと収まり、あるいは時にそれを裏切るからだ。