顔のない殺人鬼 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

DVDには黒沢清と篠崎誠と遠山純生の対談が特典リーフレットとして添付されていて、私ごときが語ることはまるでないのだが語る。

映画は面白いのか面白くないのかよくわかんない変な映画で、ジャッロの先駆的な作品なのだろうが、ミスディレクションや登場人物の動機付けがしっかりしているのでジャッロの破天荒さ加減がないし、怪奇映画の香り高いゴシックな作りなのに現代ものでナチが絡むとか、その割にナチ絡みで盛り上がんないとか、正直、面白さだけで言えば、清らの対談の方が全然面白い。

とはいえ、やはりそのゴシックな作りは素晴らしく、対談でも喧伝されているのだが、歩くロッサナ・ポデスタに当たる人工的な光や、屋敷の壮麗な佇まい(しかし、全景は最後まで出ず)はまさに怪奇映画の醍醐味で、DVDで観たことを激しく後悔する。

ちょっと気になったのが「舞台となる屋敷はものすごく広いですよね。階段を降りてくる人物が豆粒みたいに写っている」という黒沢清の話で、ああだから清はこの手の絵を求めて廃墟を舞台にするのかと思う。
清に限った話ではないのだが、問題は、今どきの映画の多くがこの手の絵を撮ろうとすると、つい審美的な絵づくりに走っちゃうことだ。この手の絵は物語の中で消費されない突出した絵にどうしてもなってしまう。

例えば、ロッサナ・ポデスタが夫を追いかけて2階の自室から出てくる。そのバストショットの後に、彼女が見下ろす1階を夫が豆粒のように歩いているショットがつながる。さらにそこにポデスタがフレームインし、同じショット内で主観ショットは客観ショットに変容する。

主観から客観への移行が問題なのではなく、夫を豆粒のように捉えたロングショットは明らかに何らかの美的な観点から撮られたものではないということ。
ポデスタの主観として示し、次いで彼女と夫の位置関係を示すために機能するだけのショットであり、お話を合理的に語るためのショットであり、言い換えれば、そこに作家の意志はない。

さらに、ポデスタのバストショットに続いて、その見た目として室内のロングショット、しかも共にフィックスをつなぐのって、かなり勇気がいるように思えるのだがどうか。
一つは、今どきの作家は広い室内空間に慣れていないこと。フィックスじゃもたなくね、だって向こうを人が歩いてるだけだよ、クレーンでしょここは、と。
そして、外景ならともかく、人が豆粒のように室内に立っているという絵を現実で見たことがあまりない、ということ。だから、この絵は、わざわざ撮る絵、となる。撮り手の意志が顕われるショットとなってしまう。
しかし、このロングショットの美しさは、それが単に物語の説明ショットでしかないからだ。

今日の教訓。
いいシーンはロングショットが作る、というホークスの言葉はそう単純に当てはまってくれない。