グラントリノ その3 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

イーストウッドの軽さ、緩さ。
昔からイーストウッドは軽く緩かった。それこそがイーストウッド映画であった。
まず、イーストウッドはショットを狙わない。

実は「グラントリノ」を観た後、「センチメンタル・アドベンチャー」と「荒野のストレンジャー」と「恐怖のメロディ」を再見した。ついでに「黄色いリボン」も。

とりあえず「センチメンタル・アドベンチャー」の緩さに驚いた。こんなだったっけ、と。もちろん、ブルース・サーティスはもぉ完璧な絵を撮ろうとするし、窓外からの照明だけ、顔どんと落ちまくりの室内シーンなんて凄いわけだが、実は、そういう映画ではなく、これはようする、面白い顔や面白い芝居を普通に撮っている映画であった。

「ブロンコ・ビリー」のハンク・ウォーデン出演シーンとまったく同じギャグを、より面白い芝居をする男が演じていたので笑ったのだが、ジョン・マッキンタイヤ、ヴァーナ・ブルーム、マット・クラークら、泣ける輩を揃え、彼ら彼女らの顔で見せる映画であったし、何よりも、イーストウッドがキャリア最高のしかめっ面、まぁぁぁじぃすかぁ顔をみせ、それがブルースの撮る一生懸命な絵を軽く凌駕している。

で「荒野のストレンジャー」と「恐怖のメロディ」は、これはショットの映画だった。びっくりした。特に「荒野のストレンジャー」の冒頭、移動ショットを積み重ね、凝りに凝った演出をみせるので、こんなだったっけ、と。もっとニューシネマ風な緩い映画かと思ってたよ。

で、私は何が言いたいかと言うと、イーストウッドが作品を重ねるたびに軽く、緩くなってる、と言いたいわけでは全然なく、はっきりいって、よくわからん、と言いたいわけだが、とりあえず、イーストウッドがショットを狙わない、演者の資質や芝居を撮るべく撮ってる人であるのは、何となく間違いないように思う。

例えばイーストウッド史上最高のショットの一つは、「ファイヤーフォックス」で、死ぬ前の科学者が見る、イーストウッドの黒いヘルメット姿がゆっくりゆっくり「ファイヤーフォックス」に歩いていく主観ショットだと確信しているのだが、これにしても決してショットを狙って、これ以上ない光とレンズと何やらで、というショットでは全然ない。
科学者が倒れる、その死の瞬間に見る光景、という物語に沿って、自身の歩き姿(いわゆるイーストウッド・ウォークと長年、ファンが言い続けたあれだ、ウチらの周りだけか)を一番かっこよく捉えられるロングショットを撮ったに過ぎないように思える。

で、再び話は「グラントリノ」に戻るのだが、
しかし、このようなショットをどうだこうだ、といったイーストウッドの軽さ、緩さではない、根源的な軽さがこの映画にはあるように思える。それがテーマの重さや自己否定の有り様を簡単に無視しているように思える。そんなに感動してどうかしてるぜ、と言いたげな。

その軽さとは何か。
それを言葉にできれば困りはしないのだが、思いつきだけでいうと、これは、映画にどっぷりと浸り、映画の言葉だけで世界を生きている者だけに許される軽さなのではないか、と。
つまりマキノであり、フランスとポルトガルの老人だ。
殺し合いを「喧嘩だ祭りだ」と言いきるのは、「カット」と声をかければ、殺されたはずの男たちは何事もなかったかのように身を起こすからだろうし、ちんちんだけで映画を撮れるのだし、阿呆みたいな船長のアップで映画を締めて良しとできるのだ。

「恐怖のメロディ」のジェシカ・ウォルタ-と同じポースで死ぬイーストウッドの重さと、嬉々として棺桶に横たわる自身の姿。ほんとに嬉々としてとしか思えないよ。
もちろん、イーストウッドは次の瞬間「カット」って言って立ち上がってくる。当たり前じゃん、それが映画なんじゃん。

だったら、お前、素直に泣いてろよ、って話ではあるのだし、イーストウッドはまさにそれを狙ってる。いい映画を撮ろうとして撮ってるだけだ、俺は、と。でもね、と。