四川のうた その3 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

この映画に登場する人の多く、ある年代以上の多くの人は、国家の施策により強制的に故郷を離れ「成都」にやってきた人たちで、母と子が生き別れになる痛切なエピソードが示すように、国家や「歴史」の犠牲者であるのかもしれないのだが、しかし彼らは「成都」で暮らしてき、確固とした居場所を見いだし、あるいはそうせざるをえなかった。その「成都」、「420工場」の有り様。

その風景が彼らの心象を示すとか、それでもたくましく生きる庶民、とかそういうことではなく、彼らすべてが持つ物語、その集積である「歴史」が「風景」に広がっている。そこに人がいようがいまいが、あるいは既に廃墟と化していようが、その風景には人と、人のいた痕跡が確かに残っているものとして、ジャ・ジャンクーは様々な風景を捉える。

最も感動的だったのは、破壊される廃墟が起こす粉塵と、その中からゆっくりと立ち上がってきたかのようなチャオ・タオの顔だ。

彼女は故郷喪失者である世代以降、「初めて自我を頼」る世代にあたる。彼女は工場で働く母の姿を見て涙を流したというエピソードを語る。
母が働く工場の風景に圧倒されたのだ。男も女も顔の判然もつかない人がうごめく工場の中に、母は確かにいた。それは人がいる風景であり、風景に人がいるということだ

彼女は「労働者の娘」であることを誇らしげに宣し(それはチャオ・タオ自身の物語でもあるそうだ)、420工場跡地に建設される「二十四城」に母の部屋を買うことを願う。
彼女もまた「成都」に確固とした居場所を、しかも自分の意志で築こうとするのだ。
そう語る彼女は、ゆっくりとゆっくりと薄暮の風景の中に沈みこんでいく。彼女の視線の先には現在の「成都」が広がっている。

風景が広がる、人が広がる。映画の外に向かって広がりを持つ風景と人を捉えること。
ジャ・ジャンクーは新しい映画を撮ったのではなく、映画の可能性の一つを新たに示したのだ。