古都憂愁 姉いもうと | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

古都憂愁 姉いもうと
1967年(S42)/大映京都/カラー/90分
■監督:三隅研次/脚本:依田義賢/撮影:武田千吉郎 /美術:内藤昭/音楽:小杉太一郎
■出演:藤村志保、若柳菊、長谷川明男、八千草薫、伊藤栄子、船越英二、藤岡琢也

船越英二が昔なじみの旅館に久々にやってくる。渡り廊下の窓越しに何やら見つめる船越。そのウエストショットからカメラが庭をすーっと移動して、八千草薫が日本舞踊を舞っているのを窓越しに捉える。続いてカメラは室内に入って、八千草が踊るのを長く捉える。ふと八千草が何事かに気づいて、切り返し、戸口に船越が立っている。船越が八千草の部屋にやってきたのを省略し、さらに先の踊りを捉えたカメラは船越の目線だったわけだ。
巧いのかなんなのかよくわからないが、妙にのる、いいよなぁ、こういう感じ。

と、なんてぇことないけど巧く流れるように、ただ、やや形式的に映画は続いていき、私は愛欲ドロドロのメロドラマかと思っていたら、人情ものだったので驚き、伊藤栄子と藤岡琢也の絡みがとても楽しく、泣ける。

それだけなら、良くできた人情モノに止まる(三隅&藤村志保の次作「なみだ川」がまさにそれで、正直今ひとつだった)のだが、途中から、やたらアップアップでつないでいき、これがもの凄くいい。

藤村志保は一芸(料理な)に秀でてはいるけれど駄目な人、というか、あまり思慮分別のない人で、なんとなく酔っぱらって妹の婚約者とできちゃったり、駆け落ちしちゃったりってことを、深く考えないでやっちゃう人です。
で、その何事かを決意したり、悩んだり、でも多分、あんまり何も考えてないんじゃないのって時に、どんと藤村志保のアップになる。そしてお話がくるりと展開する。

このアップがあまりに素晴らしいせいなのか、お話がずこずこ進行するからなのかはよくわからないが、いや、やはりこれは、藤村の素晴らしさが物語に展開を促すのだ。なんら感情を持たない(ようにしか思えぬ)女のわけのわからぬ表情の凄さ。
駆け落ちを決断する時の藤村のアップ、その何とも知れない目つきは二度と忘れられない。

そして、いろんな人のアップがどこどこつながれ、何やら相談し、奸計を巡らせる。久々に実家に戻ってきた藤村を巡る、八千草、若柳菊、伊藤栄子、三人のアップのわけもなく痛快な感じ。

そして駄目な人、藤村志保はまたもや酔っぱらいながら実家に入ってくる、その酔っぱらいぶりの素晴らしさと、きりりとカメラを見つめる表情。それに負けて、まさに映画の力に負けて、彼女を非難していたはずの若柳菊と伊藤栄子は、あっさりと彼女に与してしまうのだ。