色情姉妹 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「色情姉妹」(1972/日活/72分)
監督/曽根中生、脚本/はたの三郎、撮影/峰重義、音楽:奥沢散策
出演/二條朱実、続圭子、薊千路、高山千草、島村謙次、益富信孝、三川裕之

「㊙色情めす市場」の「川向こう(@寺脇研)」版みたいなのだが、「めす市場」で描かれる釜ヶ崎は(実際の場所がそうであるのかもしれないが)もっと抽象的な空間だった。

確かに芹明香は「うちはここにおるんや」と釜ヶ崎で生きていく決意をする。
しかし「スラム」「川向こう」から連想される越境とか自立とか成長とか脱出とか、そんな叙情的な言葉で形容できるものはそこにはなく、芹明香はあっけらかんと「ここにおる」宣言をし、だから山田宏一氏は彼女を「不思議の国に迷いこんだアリス」と評するのだ。

私には「色情姉妹」を「川向こう」と評してしまうものが、逆につまらなく思えた。娘と義父の関係、それを見つめる母親、頭の弱い男、寺脇が「川向こうの沈滞した雰囲気」と評する題材こそ通俗的に思える。

一方、「川向こう」という言葉に収まることのない部分が素晴らしい。
実際、この映画で「川」や「橋」を特権的に捉えるショットは一つもなく、逆に川のこっちも向こうも東西線で簡単に結ばれ、浦安駅を介して、人はあっちこっち行き来する。

最も素晴らしいのは、「どこへでも連れて行って」と「川向こう」から脱出を計る長女が乗るダンプカーだ。この唐突な登場ぶり、カーブを曲がって画面いっぱいに停車するダンプカーが素晴らしい。そしてその中で、長女も次女も輪姦され、まさに、どこでもないどこかへ放り出されてしまうのだ。放心したような表情を浮かべる二人のストップモーションに感動した。