クローバーフィールド その1 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「クローバーフィールド/HAKAISHA」Cloverfield(2008/米/85分)
監督/マット・リーヴス、脚本/ドリュー・ゴダード、撮影/マイケル・ボンヴィレイン

スピルバーグは「宇宙戦争」において、トム・クルーズの主観的な視座から、異星人の侵略を描き、決して、第三者的視座からその出来事を見ようとはしない。
一般的に映画は、ある人物の主観ショット、そしてそれを見つめる者の顔のアップショット、さらに第三者的視点からの(主に)ロングショットによって、一つの大きな物語を形作ってきた。
第三者的な視座を放棄するというスピルバーグの試みは、だから、一見、古典的なハリウッド映画から遠く離れているようにみえるのだが、その実、主観としてのロングショットを称揚することで、逆に古典的なフォルムを獲得していたように思う。

「クローバーフィールド」はこのスピルバーグの試みをさらに徹底させ、ある人物の主観映像のみで物語を語ろうとする。

それは、主観ショットを観客の視座と同一化することで、映像への親和性、共感性を醸成する、インタラクティブな効果を狙ったものだと、まず、思える。
「登場人物たちと共に化け物から逃げるような臨場感を味わえる」
(「みんなのシネマレビュー」
http://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=15542&SELECT=24424#HIT 
から引用)というわけだ。

つい最近も「潜水夫は蝶の夢をみる」という映画があったばかりなのだが、この主観映像=観客の主観、という映画のインタラクティブ性を楽天的に解したこの技法を、「クローバーフィールド」は極めて巧妙に用いる。

まずこの映像は「ブレアウィッチプロジェクト」から想を得たのであろうフェイク・ドキュメンタリーの形式を持つのだが、それは、ま、別の話として、

まず、この映画の全篇を撮影するハンディカメラの主、つまりこの主観映像の主がこの物語の主人公であるだろうことが観客に示される。彼が恋人である女性と戯れている風景から、この映画は始まり、ご丁寧に、女性の方がカメラを持ち、その姿を映したりもする。

ところが、この主観映像の主は続くパーティーシーンにおいて、唐突にチェンジしてしまう。
彼は、友人である、生彩を欠く、つまり主人公としての資質を持たない風貌の人物にカメラを託し、パーティーの模様を撮影してくれと頼むのだ。

ここから、主人公ではないであろう人物がカメラを回しはじめ、それが最後まで続くこととなる。さらに、この「主人公としての資質を持たない風貌の人物」はまさに、物語にとって何ら意味のない人物であり、物語を牽引するのは、彼がカメラで捉える主演俳優であって、彼(=カメラマン)ではない。

もしこの主観映像がインタラクティブな効果を狙ったものだとしたら、これはかなり奇妙な事態だ。
「潜水夫は蝶の夢をみる」の主観映像は、主演俳優マチュー・アマリリックのものであり、だから観客は彼の心に同調するように誘導される。

しかし、この映画における主観映像は決して、カメラを持つ彼の心に観客を同一視させようとはしない。終幕に至っては、誰がカメラを回しているのかすらわからない状態に陥ってしまう。

つまり、「クローバーフィールド」における主観カメラは、主観カメラを装いながら、決して主観的な映像を示すものではなく、常に第三者的な視座を有している。
いわば疑似主観ショットと第三者的なショット、それは時に主演俳優の主観ショットでもあり、また主演俳優のアップショットとしても成立する。

つまり、極めて現代的なアトラクションムービーを偽装しながら、この映画は古典的なハリウッド映画のフォルムを有しているのだ。