コラテラル | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

公開以来、久々に、マイケル・マンの「コラテラル」を観た。というか、久々にテレビで放映されている映画を観たのだが、これはちょっと凄いのではないか。

ハイビジョン撮りのラフな画面が続き、それが凄し、と公開時には思っていたのだが、今回、冷静に、とはいえ酔っぱらいながら観たところ、実に、狙いまくったショットの連続に息をのんだ。

このショットを撮るにはこの場所、この時間、この天候しかあり得ない。照明はそれを手助けする一手段でしかない。あくまでも、この場所、この時間、この天候。その唯一無比の時間と場所で最高の芝居を演じさせること。
それを得るために、機動力のあるビデオ撮りを選択する。

駐車場から捉えられた望遠の室内、地下鉄の光、ホームの灯り、そしてコトが終わる。
夜明け前の最高の光の中に、生き残った二人がふらふらと現れる。素晴らしい。

断言し、さらにフォントを大きくするのだが、
マイケル・マンの「コラテラル」と
トニー・スコットの「スパイゲーム」は
ここ10年で最も過小評価された、最高の映画だ。