怪談 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

無表情のまま目を合わさずすれ違う新吉と黒木瞳。ロングショットの切り返しから、それぞれのアップを何カットか重ね、続いて、新吉が声をかける。
ここで、中田秀夫は、声をかけられたことによる黒木の感情の揺れや驚きを、黒木のアップショット、雨から雪へと変わる背景によって演出している。

つまり、ここで描いているのは黒木側の感情の高まり、声をかけられた驚きと嬉しさとか何とかであって、なぜ新吉が声をかけたかではない。新吉が口を開く1ショットを挿入する代償として、唐突に声をかけられた黒木の感情の振幅を描き出すことを中田は選択したのだ。

このシーンにしろ、井上真央に紫陽花を差し出すシーンにしろ、中田秀夫は新吉がなぜこのような行動をとるのか、あるいは行動する瞬間を描くことを避ける。
つまり、女性との出会いという重要なシーンで、どちらも新吉の存在は忘れられている。
行動を起こしたのは新吉であるにもかかわらず、その動機は問題にされず、新吉に出会った女性のリアクションだけが描かれるのだ。

新吉の存在を直接的に捉えるのではなく、彼に魅了された女性の姿を鏡として、「新吉」を描くという方法論に基づいた演出にも思えるのだが、しかし、後半、舞台が江戸から羽生に移ると、いよいよ新吉は幽霊に驚き、因縁に怯え、あるいは遊び惚け、さらには「どんだけ祟るんだ~」と絶叫する。

わけがわからぬ。この男は何を考えているのか、そして中田秀夫は何をしたいのか。

「キャリー」ばりの手の登場、井上真央の天井ぶら下がり、とショック演出は観客サービスなのか。それは映画の品格を損ねているし、例えばラストに登場する三本の手は、ショックを与える手ではなく、情念を伝える手ではないのか。

中田が選択するのは、女優たちの「美しい」表情であり、いかにもなホラー演出である。
それは人と人との関係、男と女の感情といった本来の人間に依拠したものではなく、「怪談」話の中のキャラクターに準拠したメタ・キャラクターによるものでしかない。
「久々の本格時代劇」としてのカメラや照明や美術もまた同様で、審美的、形式主義の罠に陥っていない点は評価するとしても、どこか紋切り型な印象を与える。

そして、その外部にある「物語」は「単なるホラー」ではなく、より複雑で大きく、小さな器では汲みきれない。中田秀夫はJホラーなる仕事で何を学んだのだろうと思う。もはやこの手の映画は無理なのか。