主人の蝋燭を節約するためにすべてを暗闇のなかで行うこと | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

召使い養成学校を捉えたシーンと、彼らの将来的な雇用者であるブルジョアたちの退廃的な姿を対比させた映画、なのだそうだ。

「なのだそうだ」というのは、それが映画からは全くわからないからなのだが、ただし、なんらかの政治的文脈、権力闘争的なコンセプトで、全体が構成されていることはよくわかる。

「よくわかる」というのは、つまり、実にコンセプチュアルだからであり、すべてのショットが何らかの表象であるように思えるからだ。

つまり、わけのわからん映画なのだが、実によくわかる。
わかろうと思えばわかる、という範疇にある、わけのわからん映画というのは、実によくわかる映画のことで、それは、つまらん映画とほとんど同義だと思うのだが、ところが、この映画は妙に面白い。
なんつうか、ダニエル・シュミットの趣味が、そういったコンセプチュアルな言説に収まりきれていないのが素晴らしい。あんたも好きよのぉ、みたいな。

トップカットの岩山の圧倒的な光景にシュミットは、ああここで吸血鬼の死を撮りたい、と思ったに違いない。
ハマーのスクリームクイーンみたいな女子の登場に、ああ叫ばせてみたい、殺してみたい、と切に願ったに違いない。それが無理なら、せめて顔を手で覆わせようか、と。そしてこれは実に魅力的なショットとなった。
あるいは死者の群れが倒れ伏せる光景に、巨大迷路に、何よりも、養成学校のアナクロでスタイリッシュな意匠に、目を奪われたに違いない。

だから、この映画を見て思い出すのは、クローネンバーグ初期のわけのわからん実験映画だったり、ジャック・ヒルが撮った吸血鬼映画にロジャー・コーマンが別の映画をくっつけて仕上げた珍品「Track of the Vampire」であったり、あるいは名著「ゾンビ手帖」に登場する名もないゾンビ映画なのであった。

つまり、豊かな視覚的細部への誘惑に、シュミットは心地よく敗北している。
80年代的レトリックを避けて記すならば、ぱっと見かっちょいい絵がやっぱ撮りたい、みたいなね。