合唱ができるまで | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

宣伝コピーや予告編、タイトルから想起されるような、テレビ的なヒューマン・ドキュメンタリーではないので驚いた。これは嬉しい驚きだった。

コーラスに参加する人々は拍手や称賛を受けるわけではない。ハリウッド的な高揚感や達成感もまるでない。
彼らは、美しい音を声にしようとするだけだ。そのために必要なのは、何らかの感情的な動機や努力などではない。ただひたすらに、彼らは技術を伝授されるのだ。

その技術、まるで魔術のようなそれは、「音」を手を差し伸べて探すこと、円陣を組み隣にいる者にその音を手渡すこと、ゆっくりと手を伸ばしていくこと。無償の身振り、その一つ一つが美しい。

そしてその魔術を伝授する指揮者は、生み出された美しい音を慰撫するかのように、緩やかにその両手を動かし、「音楽が立ち上がった」と叫び、感謝の言葉を口にするのだ。このショットは感動的であった。

時にカメラは意味のない動き、官僚的な動き、作品をまとめようと動き出してしまう。それは実につまらない。しかし「美しい音」と、それを創り出す身振り、また、それらに魅了され映画として的確に捉えた作者たちが素晴らしい。柔な映画だと思う。しかし、決して悪くない。