五番町夕霧楼 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

本格的な日本映画を久々に見る喜びに、震えまくり、期待しまくりで観た。
なんつうと、瀬川昌治には悪いし、なら溝口に行けよって話ではあるんだけど、
瀬川特集でさんざん、その美しさに魅了された佐久間良子の代表作、巨匠田坂具隆、水上勉原作、色町もの、これは期待するでしょう。

となると、水準を絶対的にかる~くクリアしてるのは、観る前からわかる。だから冒頭から3カット目、夜の民家の佇まい、その照明、ロケーションに心震えるのは当然だ。

なぜなら、それは、巨匠という人が、予算と製作日数をとれるということに他ならない。
信頼できるスタッフを揃え、彼らが十分に時間をかけて撮影できる条件を準備する、理想的なロケーションを整える、理想的ではない場合には、理想に近づける美術を用意できるということなのだ。

そのような「完全形」を観るのは、ほんとにほんとに楽しい。わくわくする。
何がヌーベルバーグだ、何がガレルダ、フォードだ、何がストローブ=ユイレだ、だいたいその=ってのは何だ、映画に国境はありまくりだ、と悪態もつきたくなる、これが日本映画の素晴らしさなのだ。

しかし、その水準の高さに驚嘆しつつも、正直、この作品はかなり凡庸な出来だと思う。
例えば、佐久間良子が故郷である島から船で離れる時、船の出発をいかにも絵はがき的なロングショットに収めずにはいられないし、さらにそのショットを時間の経過として機能させてしまう、あらかじめその官僚制を準備していたかのような、あるいは、日本映画の高き水準に収まることを予想し得たかのような傲慢さ。

しかもそれは、あくまでも巨匠田坂の野心作として製作されているからこそ存している。時に宮川一夫の撮影作品にも感じる「完全」を目指すが故のつまらなさ、思惑を超えた凡庸さ。

だから、野心作でも、巨匠の作でも、キネ旬ベスト狙いでも、芸術祭何とかでもない、瀬川昌治の「喜劇 “夫” 売ります !!」の優位は明らかで、当然、こちらのプログラムピクチャーの佐久間良子の方が断然美しいのだ。と、声高にいう必要もないんだけどね。

映画はやっぱ難しいっす。

五番町夕霧楼
1963年(S38)/東映東京/カラー/137分
■監督・脚本:田坂具隆/脚本:鈴木尚之/原作:水上勉/撮影:飯村雅彦/美術:森幹男/音楽:佐藤勝 ■出演:佐久間良子、木暮実千代、河原崎長一郎、千秋実、丹阿弥谷津子、岩崎加根子


東映
五番町夕霧楼