原発の町の少女が 問いかけるもの | 私にとって人間的なもので無縁なものはない

原発の町の少女が 問いかけるもの




小原宗鑑禅師 岩手県山田町にて 2011年4月4日

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NHKスペシャル 2017年3月5日
「あの日 引き波が…行方不明者2556人」

http://dai.ly/x5dyv6x
東日本大震災から6年がたつが、いまなお行方不明のまま見つからない人は、2556人にのぼる。これほど多くの行方不明者が出たのは日本の災害史上異例のことで、いまだに何の手がかりも得られないまま、家族はその帰りを待ち続けている。
NHKでは、家族や親戚など、身近な人が行方不明だという人を対象に聞き取りによる取材を実施。その中で浮かび上がってきたのは激しい「引き波」の脅威だった。女川町の男性は、あの日、会社の同僚5人と共に引き波に流され、男性一人だけが沖に出るまでに救助され、助かった。しかし、一緒に流された同僚は犠牲になり、2人は今なお行方不明のままだ。
これほど多くの人々を行方不明にした引き波とはどんなものなのか。引き波は、人々から何を奪っていったのか。知られざる引き波の実態や脅威を明らかにし、東日本大震災の新たな教訓をあぶりだす。


ままへ。いきているといいね おげんきですか
ままへ。いきているといいね おげんきですか


宮下奈々さん(18)
天国への卒業報告
小学生だった私が保育士になるよ!
シリーズ人間

(女性自身)2017年3月21日版

 厚生労働省の調査によれば、'15年9月の時点で、東日本大震災により両親ともに失った子供は、244人になるという。
 小学6年生だった宮下奈々さんから小学1年生だった熊谷海音さんまで、5人の子供たちは、この6年をどう過ごしてきたのか。
 現地で記者が見たのは、悲しみを抱えながらも、それぞれの夢に向かって歩き始めている彼らの懸命な姿だった―。



 日差しがさんさんと降りそそぐ宮下家のリビングルームに一歩入ると、何枚もの女性の写真が出迎えてくれた。
 写真のところどころに傷がある。変色している箇所もある。どれもが東日本大震災の津波に流されたものだった。
 記者の脳裏に、6年前の光景がよみがえった。



「あっ、お母さんの写真があったあ。これもお母さんだ!」「これ、私のアルバム!ほら、お母さんがいる!」
 それは大震災から4週間後のこと。
 宮城県名取市立閖上(ゆりあげ)小学校の体育館には、がれき撤去の際に掘り起こされた流出品が集められていた。
 被災者たちが黙々と、思い出の品を探すなか、当時12歳だった宮下奈々さんと9歳の奈月さん姉妹が小さな声を上げていたのだ。
 写真についた泥を小さな手で拭い、写っていた母の顔をそっとなでる。
 ぬれてヨレヨレになったアルバムも破れないよう丁寧にめくっていた。
 姉妹の母・久美(くみ)さん(享年38)は、いつも笑顔だった。
 あのとき見つけた家族写真が、いまもリビングのあちらこちらに飾られている。仏壇の遺影のなかから、家族が集まるこたつを囲むローボートの上から、久実さんは変わらず優しくほほ笑んでいた。
 長女の奈々さんは18歳になった。ふっくらした頬はツヤツヤで、笑うときは大きな囗を開けて白い歯を見せる。相手を和ませる笑顔が素敵な少女だ。
「いまは宮城県農業高校の3年生です。4月から仙台医健専門学校に新設される『こども保育科』の一期生です」
 ハキハキと話す奈々さんの成長ぶりがまぶしい。
 12歳のころは、一緒に暮らす祖母・ヨシ子さん(73)の顔色をうかがうように、取材に答えていたというのに。
 「ずっと保育士になる夢は持っていました。
 私、一度決めたら”揺らがない人”なんで」
 そんな孫娘をヨシ子さんも頼もしそうに見つめていた。
 '11年3月11日。この日を境に、東北の人々の生活は大きく変わった。
 厚生労働省の調査によれば、'15年9月の時点で、ひとり親になった18歳未満の子供(震災遺児)は1千538人。そして両親ともに失った子供(震災孤児)は244人
 奈々さんは3人きょうだいで、兄の直人さん(20)は東京の専門学校2年生。一人暮らしをしながら、ゲームクリエーターになるために勉強している。
 中学3年生の妹の奈月さんは4月から、仙台の高校で「クリエイティブ声優コース」に通って、声優を目指す。
 シングルマザーだった母を亡くした宮下家の子供たちも、それぞれの春を迎えようとしていた。

娘たちのいる小学校へ向かった毋。
発見された車に、その姿はなく…


 いまは仙台市で生活している宮下一家だが、かつて自宅は宮城県名取市閖上地区にあった。
 久実さんは震災の5年前に離婚。警備会社に事務員として勤めながら、3人の子供たちを育てていた。
 巨大地震が襲った午後2時46分。激しい揺れを受け、自宅にいたヨシ子さんと長男の直人さんは閑上中学校へ。
 閑上小の3年生だった奈月さんと6年生の奈々さんは、小学校の3階に避難した。
 午後3時14分。ヨシ子さんの携帯にメールが着信する。
 (子どもたちは大丈夫? 早く避難して)
 久実さんからだった。
 ヨシ子さんは、すぐさまメールを返信した。
《会社にいて。家に戻っては絶対にダメ》
 内陸寄りにある警備会社にいれば、津波に襲われる怖れはない。
 「だから会社にいる久実は大丈夫だと思っていました」
 それぞれ避難した校舎で一晩明かし、津波の水が引いた翌日、ヨシ子さんと子供たちは、海から遠く離れた館腰地区の小学校で合流する。
 しかし久実さんとは、あの1本のメール以来、音信不通のまま。勤務先に電話を入れると、「津波には遭ったけれど、(久実さんは)助けられて、事務所の2階で寝ていますよ」
 ひと安心して迎えに行くと、救出された女性は別人だった。
 久実さんは地震の直後に、「娘たちがいる小学校に行く!」と、車で飛び出して行ったのだという。
 久実さんの車は1ヵ月後、小学校近くの道路際で見つかった。田んぼの中で横転し、大破していた……。
 直人さんと奈々さんは、それから3日間泣きっぱなしだった。泣くだけ泣くと、3日後にはピタリと泣きやんだ。
 ただ一人、末っ子の奈月さんだけは涙を見せない。「ママのことは言わないで」と、大破した母の車に残されていた車のキーとリップクリームをきれいに洗い、洋食器の箱にしまって、ときおり取り出しては眺めている。
 箱には「たからもの」と、幼い字で書いてあった。
 ヨシ子さんは当時、こう話していた。
 「奈々はママがいるときはワガママで、言うことをきかないことがあったけど、変わりましたね。布団を敷いてくれたり、用事を頼むとすぐに『はい!』と、返事をする。いままでだったら「いやだ」と、言っていたのに。
 ただ、妹がいることで、我慢していることも多いと思うんです」
 当時の取材メモには、奈月さんのエピソードが多い。
「ママの夢が見たい」と、久実さんの写真を枕の下に入れて寝たり、震災後の自宅跡で芽を出した、久実さんが植えた水仙の写真を欲しがったり。
 そんな妹を、奈々さんはいつも静かに見守っている印象だった。ところが―。

「震災のことは家族とも話さない。
話したら絶対に泣いちやうんです」


 奈々さんの話が止まらない。
 高校の話、保育士の夢、得意な料理、大好きな古着と、彼女の話題はころころ展開する。
 いまはHey! Say! JUMPの薮宏太に夢中だ。
「ネットで薮くんのジュニアのときのダンスを見て、その一生懸命さに感動したというか、ハマったんです」
 高校生活最後の日々。奈々さんは青春真っただ中だ。
「(進学したら)バイトもしたいな。車の免許を取りたいし、スーツも買わないと。
 実習で幼稚園や保育園に行くとき着るんです。ピアスの穴も絶対に開けます。彼氏は……、別にいいかな(笑)」
 農業高校での体験も保育士になる夢を後押しした。
「生活科ですので、調理や福祉や介護など、いろんなことを学べました。印象に残っているのは、小学校で児童といっしょにお料理をしたこと。子供って、無条件に受け入れてくれる。頼ってくれるのもうれしいです。憎たらしい児童もいたけど、私は全く疲れなかったな」
 ヨシ子さんが言う。「そういえば震災の当日も、子供たちの世話をしたでしょう。『奈々ちゃんが面倒をみてくれて助かったわ。ありがとう』つて、何人ものお母さんにお礼を言われたのよ。あんただって、本当は怖かったでしょうに……」



 強い余震が続き、津波のために校庭には車や壊れた家の木材が流れ着いて散乱していた。校舎に避難した児童たちは教室にざこ寝して一晩を明かすしかなかった。
「あのときは、お世話する高学年が私だけだったからだよ。電気が止まって、真っ暗で怖かったけど、『頑張ろうね』って言っていたんだよね」と、奈々さん。
「すごいね」と、記者が言うと、はにかんで笑い、すぐさま話題は再び高校生活へ。
「高校2年からは、演劇部で裏方をやってました。保育士になったとき、小道具を作ったことが役に立ちそうだから。
 けっこう部員には頼りにされたんですよ。音響やナレーション、ヘアメークも覚えたし、演技指導をしたことも楽しかったな」
 高校3年になったころには、兄のように上京し、一人暮らしをしてみたいという思いもあった。お茶の水女子大学の震災孤児・遺児支援グループと6年前から交流があり、東京在住の知り合いも多い。
「キャンプなどで、大学生のお姉さんがお世話してくれるんですが、いまでは私を子供たちの世話をする立場です。それが楽しくて」
 ボランティアの大学生のなかには、親を亡くした子供にどう接すればいいのか悩む人もいる。そんなとき、奈々さんは、こう声をかける。
「あまリ意識しないほうがいいですよ。普通にしていればいいんじゃない?」
 奈々さんはとこへ行っても頼られる。彼女の笑顔は人を安心させるのだ。
 特に妹の奈月さんは、そんな奈々さんに甘えっぱなしのようだった。
「よく妹には”ウザガラミ”されます。ウザツたく絡んでくるんですよ(笑)。
 奈月には小さいころから声優という夢があり、春から通う高校も自分で見つけて、自己PR文を書いていました。声優コースがある学校に行くと聞いたときは、ちょっと驚きました。けっこうしっかり考えているのかなって」
 インフルエンザで寝込んでしまった奈月さんとヨシ子さんを家に残し、奈々さんと一緒に閖上地区に向かった。
 その車中で、奈々さんは唐突に切り出した。
家族の間では震災の話はしないんです。おばあちゃんとは何でも話せるけど、震災のことは話したくありません。妹とも話しません
 記者が震災体験について聞きあぐねていたのを、彼女はとうに気づいていたのだ。
家族だけではなく、人前で話したこともありません。震災のことを話したら、絶対に泣いちゃうんです。でも人前で泣きたくないんです
 率直な言葉が胸を突いた。

「私たちがいなくなったら、あの子
たちはどうなるんでしょうか」


 あしなが育英会東北事務所の富樫康生さんはこう語る。
「”親族里親”というのですが、震災で両親を失った児童のほとんどが祖父母や親のきょうだいに引き取られました。環境の変化に戸惑う子供たちもいます。
 祖父母が引き取った場合、年々高齢になる保護者が、思春期を迎える子供をどう育てていくかということも課題になっています」
 仙台市で生まれ育ち、岩手県陸前高田市の祖父母宅に引き取られた熊谷海音(かのん)さん(13)も、大きな環境の変化にさらされた。
 小学1年生で被災し、両親と姉の家族全員を失ったのだ。しかし海音さんは歌が上手で、小学生時代は復興支援イベントで独唱するなど大活躍。その姿はテレビ番組でも取り上げられ、「涙を見せない」「弱音を吐かない」「元気で明るい」と、評判だった。
 それでも祖母の熊谷隆子さん(76)には心配がある。
「海音はいまでも1人では2階の自分の部屋へ行けないんです。1人でいると津波を思い出して怖くなるって……。だからいつも居間で、私と2人で寝るんです」
 昨年、祖父の廉さんが75歳で他界。海音さんは、隆子さんと2人暮らしになった。
「おじいちゃんが亡くなったときはショックだったみたいです。ただ同じころに、作文コンクールで入選して、ハワイに行くことになって……」
 震災で大切な人を失った18歳以下の子供たちが対象のコンテストで、海音さんは《(仙台の)友達とずっと仲良しでいられるように》と、書いた。いつもは涙を見せない海音さんだが、長期休みのたびに会いに行く仙台の友達と別れて、帰るときだけは必ず泣いてしまう。
 《「またすぐ会えるから」とメールがくるたびドキッとする。もう会えなくなってしまわないかと、不安になるから》
 まだ13歳なのに大切な人との別れを何度も経験した海音さん。明るい笑顔の根っこに消えない悲しみの種がある
 昨年3月、2泊3日のハワイ旅行で海音さんは、新しい目標をつかんで帰ってきた。
《高校で留学する》
 自分でそう書いた目標の紙を、居間の壁に貼っている。「オーストリアに行って、歌の勉強をしたいの」
 海音さんは、記者の目をしっかりと見て、そんな夢を語ってくれた―。
 海音さんと同じ陸前高田市立第一中学激に通う及川佳紀くん(15)、晴翔くん(13)は、震災直後から本誌が見守ってきた兄弟だ。
 白砂青松の名勝「高田松原」で知られた陸前高田市を大津波で大きな被害を受けた。黒い壁となって襲いかかった津波は、自宅にいた兄弟の両親をのみ込んだ。
 高台にある希望ヶ丘病院のホールに避難した当時9歳の佳紀くんは、サイズの合わないダボダポのジャージを着て、物資を運んだり、毛布を片づけたりと、率先してお手伝い。
 6歳だった晴翔くんはゲームをしたり、スタッフとサッカーボールで遊んだりと、やんちゃな姿を見せていた。
ここで頑張っていれば、(パパとママが)迎えに来てくれるから
 兄弟は母方の祖父母といっしょに避難し、そこで両親からの連絡を待っていたのだ。
 祖母・村上五百子(いおこ)さん(びの携帯電話が鳴るたびに、兄弟で駆け寄り、電話を手にしてのぞき込む。相手が両親でないとわかると、黙って祖母に電話を返した。
 その後の4月20日、父・徳久(のりひさ)さん(享年39)の遺体が見つかり、さらにその1ヵ月後、母・昇子(しょうこ)さん(享年39)も遺体となって発見された。
 祖父母に引き取られた及川兄弟は仮設住宅で暮らしていたが、今回、現地を訪ねてみると、昨年7月から入居が始まった県営災害公営住宅に引っ越したことがわかった。
 鉄筋コンクリート8階建てが2棟並ぶ県営住宅は、合わせて300戸。高台にあり、買い物も不便なためか、まだ半分ほどしか入居者がいない。
 大きな団地のため、すぐには部屋がわからず、記者が途方に暮れていると、階段から赤いジャージを着た大柄な少年が下りてきた。手には灯油のポリタンク。
 最初は少年の陰に隠れて見えなかったが、すぐ後ろから下りてきたのは、五百子さんではないか!
 見違えた。赤いジャージの少年は佳紀くんだ。震災発生当時、祖母の半分ほどに見えた彼が大きく立派に成長していた。
 佳紀くんは高校受験真っただ中。県立高校の入学試験を間近に控え、重い灯油の入ったポリタンクを運び終えると、すぐに自室にこもって再び勉強を始めた。
 その背中を見送って、五百子さんは言う。
「私はとにかく2人を食べさせるだけ。2人とも優しい子に育ってくれたのが自慢です」
 持病が悪化し、避難直後から入院していた祖父は、2年前に亡くなっていた。いまでは祖母と兄弟の3人暮らし。
 仏壇にはほほ笑む両親の遺影が飾られていた。大切な行事がある日の朝は、佳紀くんも晴翔くんも、両親に手を合わせてから出かけるそうだ。
「私の前では、兄弟げんかもしないんですよね。おなかがすいたら、兄弟で食事を作って食べていることも。特に佳紀はなんでも作れる。シチューや唐揚げはおいしいですよ。私か教えたわけではないんですけど」
 給食のない日も、「ばあちゃん。休んでていいぞ。俺が作るよ」と、自分でお弁当を作って、中学校のサッカー部の練習や試合に行く。
「ただ、作ったままで、後片付けはしないんですけど(笑)」
 小学校時代からサッカーを続けていた佳紀くん。亡き父も中学ではゴールキーパーをしていたという。
 弟の晴翔くんも、父と兄の背を追うようにサッカーをしていたが、中学生になったいまではテニスに夢中だ。
 まだ幼さが残る頬を寒さで真っ赤にして学校から帰ってきた。
 被災直後の五百子さんは、家を流され、育ち盛りの孫たちと病身の夫を抱えて、放心状態だった。



「これから先、私たちがいなくなったら、あの子たちはどうなるんでしょうか」
 つぶやく顔には表情がなかったが、月日が流れ、いつしか優しい2人の孫たちが彼女の生きる力になっている。
 勉強の合間に飲み物を取りにきた佳紀くんに1つだけ質問した。
「将来の夢ですか? 自動車関係の仕事につくことです。車の免許を早ぐ取りたいです」
 車があれば祖母の買い物も楽になる。そんなことを考えていそうな横顔だった。

《いろいろこなせる素敵な人に…》
宝物は毋が残してくれた手紙


 宮下奈々さんの家があった閖上地区では、高さ5㍍ほどの土地のかさ上げ工事が進められていた。
 震災直後に避難した閖上小学校も中学校も、すでに取り壊され、大型ダンプが行き交い土埃(つちぼこり)が舞っていた。
「ここは小学校の跡地です。(避難した)体育館に写真がいっぱいあったよね。1枚くらいしか出てこなかった人が多いけど、うちらは何枚も何枚も出てきて……」
 更地にしか見えないが、奈々さんにはかつての閖上の姿が見えているようだ。
 自宅があった周辺は、荒れ地になっていた。雑草が腰あたりまで伸びて、そして枯れている。復興工事もここだけ忘れられたかのようだ。
「この3つのマンホールが家の裏の目印」
 枯れ草に覆い隠されたマンホールを見つけると、奈々さんは勝手口があったあたりから、敷地内へと大っていく。
 鉄瓶や茶碗のかけらが散らばって、そこで人の営みがあったことを教えてくれる。玄関だった場所には、巨大な石がいくっも積まれていた。
「津波が運んできたんです。たぶん裏の家の庭石です」
 奈々さんは感傷的になることもなく、淡々としていた。
「よく週末に、おばあちゃんや奈月と来るんです」
 そういえば、以前、ヨシ子さんが言っていた。
「ここに来れば、なんだか娘に会える気がする……」と。
 奈々さんたちの最愛の母はヨシ子さんの最愛の娘だ。
 6年たっても、いまだ久実さんは見つかっていない―。
 奈月さんは車のキーなど、母の遺品をいくつも持っていたが、奈々さんには欲しいものはなかったのだろうか。そう尋ねると、しばらく考えてから奈々さんは答えた。
「お母さんの手紙があります」
 閖上小学校では毎年、卒業する子供に宛てて、親から手紙を送ることになっていた。
 あの年、卒業を控えた奈々さんのために、久実さんも手紙を書いていたという。
「『家事とか、どんなことでもいろいろこなせる素敵な人になってください』って、お母さんが書いてくれたんです。それが、いちばんの宝物かな」
 料理上手で、子供の世話が大好きな奈々さんは、久実さんが願ったとおりの女性になった。
 話し始めに必ず、「え~」がつく奈々さんの口癖。実は久実さんと同じらしい。帰宅してからヨシ子さんに聞いてみると、
「そうそう、久実も『え~』って言ってから話し始めていましたね。
 口癖とか、声とか、ふとした表情とか、最近、奈々がどんどん久実に似てきているんですよ。ねっ、ママに似てきたよね」
 ヨシ子さんが、奈々さんに問いかけると、ウヘヘと笑いながら、奈々さんの顔がクシャッとなる。
 久実さんの七回忌法要は2月11日に名取市内の霊園で営まれた。墓石の下に久実さんはいない。それでも母の墓前で、奈々さんは誓った。
「頑張るからね」
 奈々さんの専門学校は3年制。3年後、彼女はどんな保育士になるのだろう。
「私の幼稚園のときの先生みたいに明るくて、優しい先生になりたいな。保護者にも信頼されたいな」
 夢は大きく広がっていく。未来へと―。

取材/山内太、田中響子
文/川上典子
撮影/加治屋誠、高野博



震災遺児 1500人 仙台市若林区荒浜

http://dai.ly/xodezf
海音ちゃんが家族と暮らしていたのは宮城県の荒浜地区で、東日本大震災のときに学校から帰る途中に 友達の親に助けられて無事だった。海音ちゃんの母とお姉さんはそれを知らずに車で海音ちゃんを迎えに行っていて津波にのまれてしまった。海音ちゃんは家族との楽しかった思い出ばかり話しており、遺骨を前に泣いた時から人前で涙を見せなくなっていた。

海音ちゃんは少しずつ家族を失くした気持ちを話すようになり、海音ちゃんと担任の先生がやりとりしている日記帳で、亡くなった家族の事が初めて書かれている。学校のマラソン大会の出来事だった。

「もうダメ、走れない」と思いました。そのときこんな声がした。
「がんばれ、かのん」ママの声です。
「そうそう、うちの分までがんばれよ」お姉ちゃんの声です。
「がんばれ、かのん。津波に負けないおまえが負けるわけがない」パパの声がしました。
そのとき私は心の中でおもいました。
「うちがんばってるから、応援おねがいね」
「楽しかったけど、ちょっと今一人になったことが悔しいです」




福島・大熊町
津波で流された娘を捜す2123日

原発の町の
少女が残したもの

(DAYS JAPAN)2017年2月号

あの日、小学一年生だった汐凪(ゆうな)さんは
お気に入りの水色のランドセルを背負い小学校に向かった。
午後、祖父と自宅に戻ったところを津波に襲われた。
翌日早朝、福島第一原発がある大熊町には避難指示が出され、
町は閉ざされ、捜索はそれから1か月以上おこわれなかった。
原発が爆発し、大熊町は高濃度の放射能に汚染されたからだ。
限られた回数だけ許される一時帰宅の機会を使い、娘を探し続ける父。
昨年12月、マフラーとともに汐凪さんの遺骨の一部がようやく見つかった。
汐凪さんが生まれ、遊んだ故郷は中間貯蔵施設になる。
写真・文/尾崎孝志



巨大津波に襲われ、目に見えない放射能に閉ざされた無人の地で、父は6年にもわたって娘の遺骨を捜し続けた。
「娘は本当に生きて救い出せなかったのか……
」捜索は、放射能に何度も阻まれ続けた。


2011年3月11日

 福島県大熊町で津波に流され、行方不明になっていた木村汐凪さん(当時7歳)のことを私が知ったのは、事故から2か月が経った2011年5月、汐凪さんの父・木村紀夫さんが役場に張り出した捜索チラシがきっかけだった。
「捜しています!!大熊町で家族3人が行方不明です」
 捜索チラシには、祖父と母のとなりでにっこり微笑む汐凪さんの姿があった。その写真を見た私は、高濃度の放射能に覆われ、人が自由に立ち入れなくなった大熊町の中で、いまだ救出を待つ人がいるという現実に言葉を失った。
 津波が町を襲った時、紀夫さんは隣町の養豚場で働いていた。町に戻り、土台だけになった自宅や避難所を捜しまわったが、紀夫さんの父・工太郎さん(当時77歳)と妻・深雪さん(同37歳)、次女・汐凪ちゃんの姿が見えず、連絡も取れない。紀夫さんはひとり、夜が明けるまで3人を捜し続けた。
 3月11日の地震直後、木村さん一家が住む自宅から約3・6キロにある福島第一原発の1~3号機が緊急停止。1時間後に電源喪失を起こした。
 翌12日早朝、大熊町全域に避難指示が出された。なんとか津波を逃れた紀夫さんの母と長女は避難所で夜を明かしていた。捜索を諦めるのか、生き残った家族を放置して捜索を続けるのか。究極の選択の中、紀夫さんは2人が待つ避難所へ向かい、追われるように大熊町を後にした。「今は生きている者の命が大事だぞ」という区長の言葉が背中を押した。
 この日、1号機で水素爆発が起き、大量の放射能が放出された。翌13日には3号機から放射性物質を含む蒸気の放出が始まり、14日に3号機が、15日には2号機4号機が水素爆発を起こした。町は高濃度の放射能に汚染され、戻れぬ地になった。
 4月、大熊町の全域を含む原発20キロ圏は警戒区域に指定された。住民ですら許可なく立ち入る者は処罰の対象になった。警戒区域の境界には鉄製のバリケードが置かれ、自宅にも近寄ることすらできない。紀夫さんは警戒区域周辺で捜索を続けていたが、何度も行く手を阻まれた。「バリケードを見たときは現実を突きつけられました。家族を捜してやれないんだな、と」



模索を続けた捜索活動


 あの日、汐凪さんは、祖父・王太郎さんと一緒に自宅に戻ったところを津波に襲われた。母・深雪さんもいったん自宅に帰った後に津波に遭ったとみられている。4月29日、王太郎さんは自宅から南へ約200メートルほどの田んぼで、深雪さんは南に約40キロほど離れた洋上で発見された。
 震災後、紀夫さんがようやく町に入れたのは6月になってから。5月下旬から始まった自衛隊による捜索に立ち会うためだった。その後「一時帰宅」の制度が始まるが、それも年に数度の立ち入りが許されるだけ。捜索できる時問はあまりに少ない。
 一時帰宅、が許された日、紀夫さんは放射能から身を守るための防護服で全身を覆い、一人で海岸のがれきを払いのけたり、テトラポッドの間をのぞき込むような捜索を続けた。
 自衛隊による捜索は開始からわずか2週問で打ち切られた。警察や消防団の捜索も毎月11日などに限定されていった。
 紀夫さんは2013年、ボランティアを募り、本格的な捜索を始めた。彼らの初めての捜索は富岡町の仏浜だった。自宅から南へ6キロのところにあるその浜は砂地が続いている。そこを大人4人が横。列に並び、砂利の中に骨がないか目視しながら進んだ。
 「人の骨には気泡があるらしい」
 「これは魚の骨だな」
 目ぼしいものを拾いながら、遊歩道から波打ち際までゆっくりと進む。津波で地面が混ぜ返されたことを考えると、浜通りの海岸すべてを掘り起こして調べる必要がある。いったい何年かかるのか……。気が遠くなる思いがした。
 3・11から5年。年に30日となった一時帰宅の機会を使って捜索は続いた。酷暑の夏も人害の冬も、許された約5時間、紀夫さんと仲間たちはスコップを手にがれきを掘り続けた。汐凪さんの体操服、深雪さんのカーディガンなど見つかったものは数十点。しかし、汐凪さんの遺骨はどうしても見つからなかった。

事態を動かした
中間貯蔵施設の足音






「電信柱などのがれきを取り除きたいが、町は重機の使用を認めてくれない」。昨年、紀夫さんは、そんな悩みをある手段を講じて解決することにした。
 アドバイスをくれたのは木村家と顔なじみの町議さんだった。木村さん一家がかつて暮らしていた自宅周辺は、福島県内で集められた汚染上などを処理するための中間貯蔵施設の候補地になっている。施設の本格着工を前に、重機を入れて大掛かりな捜索をしてもらってはどうか。そんな提案だった。
 11月9日、環境省と中間貯蔵施設の建設に関わる作業員による捜索が始まった。そして20日には紀夫さんと仲問も加わり、総勢百人ほどの体制になった。これまで人力では動かせなかったがれきなどがようやく撤去されていく。汐凪さんが津波に襲われた時に背負っていたとみられる水色のランドセルが見つかった。

「汐凪が帰ってきました」

 大掛かりな捜索がはじまって2週問がたった12月9日、がれきの下から、あの日汐凪さんが身につけていたとみられるマフラーが発見された。見つけた女性が土を払おうとしたところ、中からパラパラつと骨のようなものが出てきたという。それが大熊町最後の行方不明者、汐凪さん発見の瞬間だった。
 11日、紀夫さんから知らせが届いた。「今日、治療して詰め物のある奥歯がついた左顎の骨が見つかりました。人間の骨であることは明白で、だとしたら汐凪以外のものであることは考えられません。汐凪が帰ってきました」
 そして22日夕方、DNA鑑定を進めていた福島県警から紀夫さんに知らせが入った。骨は汐凪さんのものだった。
 2016年大晦日の正午過ぎ。双葉警察署臨時庁舎の正面玄関から、姉の舞雪さん(15)、が骨箱に入った汐凪さんを抱えて出てきた。「歯に治療した跡があったので、汐凪だとわかりました」と話してくれた。
 紀夫さんは運転席の横に汐凪さんを置き、骨箱にシートベルトをかけた。休日には、家族そろってレジャー施設に行くのを楽しみにしていた紀夫さん。車で向かった先は、深雪さんが発見されたいわき市の海岸だった。そこも家族でドライブに行った定番のコースだった。
 震災から2123日。束の間、家族そろっての日常が戻ったかのようだった(´;ω;`)

救出の可能性を奪った
原発事故


 肉じゃがが好物で、テニスの選手になるのが夢だった汐凪さん。足の不自由なクラスメイトのことを気遣うなど、先生にも頼りにされる存在だった。生きているうちに救い出す可能性はなかったのか。
 震災の翌朝、町役場には100名ほどの消防団員が行方不明者の情報を得て待機していた。捜索をおこなうための団員だった。しかし5時45分、原発事故による放射線量の上昇を受け、政府から令町避難の指示が出た。捜索にあたるはずだった団員は、急遽、1万1千人の住民を避難させる役目を負わされた
 避難完了予定の8時前、木村家のある熊川地区では、8名ほどの消防団員が捜索活動をおこなった。木村家の敷地から南へ、「おーい、おーい」と声を出して進んでいたとき、





第四分団の猪狩広さんは人の声らしきものを耳にしたという。
「『おー』という声が聞こえたような気がしたんです。私を含めて二人の団員が。私は王太郎さんだと思いました」
 避難の時刻が迫り、団員たちは後ろ髪を引かれる思いで現場をあとにした。翌月、その近くから王太郎さんの遺体が見つかった。汐凪さんが見つかったのは、そこからわずか50メートルほどのところだった
 「結局、汐凪は原発事故の犠牲になって、見捨てられたような気がします。正直、骨が発見されて嬉しいという気持ちにはなれません」と紀夫さんは話す。
 捜索にあたっていた作業員の一人は、発見された骨を目にする紀夫さんの表情を正視できなかったという。
 「僕にも汐凪ちゃんと同じくらいの歳の子ども、がいるもので。やっぱり見つかったときはショックが大きいでしょうね」

汐凪さんの発見は
なぜ遅れたのか


 福島第一原発事故によって、高濃度の放射能汚染地帯となった原発周辺。原発から半径4キロ地点にある人熊町熊川地区の捜索は遅れに遅れた。しかも捜索期間はたった2週間。この際、大量のがれきが移動させられた。
 「これだけの広さのところを2週間で捜索するなんて無理でしょう。6月4日に始まった一時帰宅に間にあわせるためにがれきを集積するのが目的だったのではないでしょうか」と紀夫さんは振り返る。
 12月26日現在、発見された汐凪さんの骨は42個。それでも、ほんの一部にすぎないという。「がれきの移動でバラバラにされてしまい、さらにその上に別のがれきが積みヒげらた……」。汐凪さんの発見、がかくも遅れてしまった理由、それが少しずつ明らかになってきた。

原発の町の少女が
問いかけるもの


 汐凪さんが見つかった今、紀夫さんは何を思うのか。
頭から離れないのは、東電の幹部が私に言った言葉です。『電気を使いたい人がいるから原発が必要なんです』。本当にその通りですよ。だから僕は電気に頼る暮らしを見直していきたい。汐凪が6年近くも出てこなかったのは、私たちにとって本当に大切なものは何か伝えたかったからではないでしょうか。私はそう思います
 見つかったマフラーは姉とおそろいのデザインで、汐凪さんのものはピンク色、ディズニーのキャラクターが付いていた。
「マフラーつて、人が身につけるものじゃないですか。それががれきの中から出てくるなんて。震災から2か月後、自衛隊、が捜索に入った時に、じっくりと搜すことができていればね……」
 紀夫さんはそう語った。そして泥に染まったマフラーをそっとたたんだ。


クローズアップ現代+017年3月9日(木)
震災6年 汐凪(ゆうな)を捜して
~津波と原発事故 ある被災者の6年~


http://dai.ly/x5ee2pf
東日本大震災から5年9か月たった去年12月11日、福島第一原発のある大熊町で最後の行方不明者となっていた木村汐凪ちゃん(当時小学1年生)の遺骨が見つかった。

汐凪ちゃんの父、木村紀夫さんは、父と妻も津波で失い、唯一行方不明だった汐凪ちゃんを、原発事故に翻弄されながら探し続けてきた。遺骨を前に、「ほっとした反面、もっと早く見つけられたのでは・・・」と小さな安堵と大きな悔いが残ったという。原発事故によって奪われたものは何だったのか。そして人びとの再生とは。作家の天童荒太さんとともに考える。