小出裕章先生:落とし前をつけるのは私でなければならないと思った… | 私にとって人間的なもので無縁なものはない

小出裕章先生:落とし前をつけるのは私でなければならないと思った…



軍装屋から見た戦後70年
(ラジオフォーラム#128)

https://youtu.be/4_HuGFaylwo?t=13m48s
13分48秒~第128回小出裕章ジャーナル
【公開収録より】原子力との41年「人生最大の間違いというのは、原子力などに夢を持ってしまったということが、私の最大の誤りだったと思います」

http://www.rafjp.org/koidejournal/no128/

今西憲之:
小出さん、1968年東京にいらしゃって、それから東北大学に進まれました。これ、何で原子力をやろうと思われたんでしょうか?

小出さん:
今日、この会場にも私と同世代ぐらいの方もいらっしゃってくださっていますけれども、私の子どもの頃は、鉄腕アトムという漫画が流行っていた時代でした。
鉄腕アトム

今西:
僕の子どもの頃もありました。はい。

小出さん:
原子炉で動くロボットで、アトムの妹はウランちゃんだったし、兄貴はコバルトという名前で、
鉄腕アトム 内部データ
これからは原子力の時代なんだというそういうことが社会にまん延していましたし、日本の国家の方も積極的に、「これからは原子力なんだ」と「化石燃料なくなっちゃうんだから、未来は原子力」というような宣伝をしきりに流していまして、中学・高校の頃に私はそれを聞かされて、てっきり信じてしまった。
原子力にかけた幻の夢

今西:
なるほど。それがね、嘘八百とわかったのは、どんな瞬間でしたか? 大学で勉強されてて。

小出さん:
いくつももちろんありますけれども、私の場合には2つ契機がありました。1つは1968年という時に私は大学に入ったのですが、その時は大学闘争というのが闘われていた時代でした。私自身は大変右翼チックで保守的な学生だったので、学生服を着て大学に通っていましたし、1時間も授業を欠席しないといような愚かな学生でした。

今西:
いや、それは愚かなんですか?

小出さん:
はい。今から思えば、あまりに愚かだったと思います。大学闘争が何をやってるかもわからないまま、ひたすら原子力をやりたいと思っていた学生だったのです。そういう時代の中で、私が原子力をやり始めた時に、私は東北大学という大学に行きました。宮城県の仙台という結構大きな街で私は勉強していたわけですが、東北電力という電力会社が、原子力発電所を造るという計画を立ち上げたのです。

今西:
それが女川原発ですね?
女川原子力発電所

小出さん:
はい。そのこと自身、原子力発電をやること自身は、私にとってはむしろありがたいことだと思ったわけですが、建てる場所が電気を使う仙台ではなくて、女川という本当に小さな田舎の町に建てるという計画だったのです。
女川原子力発電所3号機原子炉建屋基礎配筋
女川原子力発電所3号機原子炉建屋基礎配筋

そして女川の人達が、「なぜ電気を使う仙台ではなくて、自分達の町に建てるのか?」という疑問の声を上げたのです。それを聞いてしまいましたので「なぜだろう?」と。彼らが上げた疑問に答えなければいけない。答える責任があると私は思ったのです。答えなければいけないと私が思ったのが、その大学闘争に巡り合っていたからなのですけれども。

だんだんだんだん大学闘争というのが、何を問題にしていたかということを私自身も逃げることができなくなりまして、考えたところ、大学闘争で問われていたのは、自分がやっている学問が社会的にどういう意味を持っているかということをきちっと答える責任があるということだったのです。

そうなると、私がやってる原子核工学という所にいたのですけれども、その学問が社会的にどういう意味を持つか。原子力発電をやるということがどういう意味を持つかということを、私の責任として答えるしかないと私は思ったのです

で、まあ答えを求めて、なぜかとずーっと悩み続けました。長い時間が経ちましたけれども、今から思えば答えは簡単で、原子力発電というのは都会では引き受けることができない危険を抱えてるから、過疎地に押しつけるんだという結論に、私はたどり着きました
原子炉立地審査指針及びその適用に関する判断の
電力による不公平・不公正
そうなれば、そんな物は到底認めてはいけないと思うようになりまして、とにかく原子力発電を止めさせなければいけないということで、180度自分の人生を、その時点で変えました。

小出裕章ジャーナル

今西:
なるほど。その中で多くの研究者、同級生の方々とかは原子力ムラと闘う道を選ばず、原子力ムラに入る道を選択された方が多かったんじゃなかったですか?

小出さん:
基本的には大学という所は、例えば東北大学もそうですけれども、エリートとして社会に出て行って、出世をするのが人間の価値みたいなような世界なわけですし。q( ゚д゚)p

今西:
大学でもそういうことなんですね?

小出さん:
そうですね。だから、みんなそうやって思ってるわけですし、大学を出た時は少しでも良い企業にやはり就職しようと、みんなが思っていたと思います。それでも大学闘争という時代でしたので、私の周りの学生のかなりは当時、ドロップアウトというようなことを言っていましたけれども、社会的なステータスを求めていく道からは外れて、それなりに自分達の生き方を探すというような仲間はたくさんいました。

猪瀬直樹 信州大学全共闘議長時代
猪瀬直樹 氏 q( ̄3 ̄)p

今西:
なるほど、なるほど。そういうこと振り返っても、小出さんが選択された道というのはもう全く悔いがない。間違ってなかった?

小出さん:
わかりません。私は少なくとも自分の人生最大の間違いというのは、原子力などに夢を持ってしまったということが、私の最大の誤りだったと思いますけれども、でもその愚かな過ちを犯したのは私なわけですから、その落とし前をつけるのは私でなければならないと思ったわけで、自分の愚かな選択の落とし前をどうやってつけるかということを考え続けてきました。
歴史の巨大な流れと個人の責任
それでまあ原子力の場に残って、とにかく原子力を潰すために仕事をしようと思ったわけで。その私の思いがどこまでほんとに効果があったか、役に立ったかということを自分ではわかりません。ただし、初めにちょっとだけごあいさつしましたけど、41年間ひとつの職場で解雇もされることなく、やりたい放題やり続けてこられましたので、恵まれた人生だったと思います。
間違った人生、それでも恵まれた人生だった

今西:
なるほど。そんな中でですね今日、女川原発のことを聞くにあたってですね、どうしても聞いてほしいという質問が私のところに来まして。東日本大震災がありました、4年前にですね。女川原発は、福島第一原発のような大事故は起こさなかった。そういう意味で、今、現地では「安全、安全」と繰り返し言われている、安全神話が続いてる。この現状をいかがお感じでしょうか?
避難所になった宮城・女川原発週刊文春20110414

小出さん:
まあ、全くばかげたことですね。東京電力の福島第一原子力発電所があのようになってしまったというのは、発電所全体がブラックアウトと、全所停電に追い込まれたからなのです。それは外部の送電線も鉄塔がひっくり返ってしまって、外部からの電源も来なくなったということなのですが、女川原発ももう首の皮一枚で止まった
女川原発震災時の状況
なぜかと言うと、一系統だけ鉄塔が潰れないで外部から電気が届いたということで、ようやくにして生き延びたわけで、外部の鉄塔が倒れるかどうかなんていうことは、まさに誰も予測できない。地震の強さによって、たまたま壊れてしまうということも起こり得たわけですから、女川原発の場合、もちろん良かったと思います。一系統だけ生き延びてくれて良かったと思いますけど、言ってみれば偶然です

今西:
そうですね。そういう中でですね、ほんとに小出さん、長いことご苦労様でした。どうも今日はありがとうございました。

小出さん:
はい、ありがとうございました。


東日本大震災時に安全停止できた理由


東電「津波対策は不可避」
 震災2年半前に内部文書

(東京新聞)2015年6月19日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015061902000143.html
 東京電力福島第一原発事故で、東電が二〇〇八年、同原発について「津波対策は不可避」と記した内部文書を作成し、社内会議で配っていたことが分かった。
東電「津波対策は不可避」震災2年半前に内部文書


津波で横倒したビルと女川原発通勤バス
津波で横倒したビルと女川原発通勤バス



なくせ!原発 女川原発反対同盟看板
事故で止まるか みんなで止めるか


市民団体のシンポジウム 小出裕章


<脱原発のココロ>被災し出馬、初当選の女川町議
 阿部美紀子さん(59)

(東京新聞【こちら特報部】)2012年1月29日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2012012902000040.html
昨年十二月十三日、宮城県女川町の町議会。初めて質問に立った町議の阿部美紀子(59)は、少し上ずった声で訴えた。

被災し出馬、初当選の女川町議 阿部美紀子さん

未来へつなぐ反対運動

「健康で文化的な最低限度の生活を保障されるよう町民をいかに守るのでしょうか。原発が一度でも事故を起こせば、復興計画も水の泡になることは誰の目にも明らかではないでしょうか」
 「復興するためには、原発は漁業と共存していくことができると思いますか。町はこれまで原発の交付金に頼りすぎてきたのではないでしょうか」
 十一月に無投票で当選したばかりの町長須田善明(三九)は「原発に替わる新しい基幹エネルギーを開発していく必要があることは分かっている。しかし、すぐに廃止するというのは不可能だ。国で議論し道筋をつけていくことが大事だ」と答弁した。
 町の最大の課題は復興。原発に関心を寄せる町民は少ない。質問が終わり、阿部は「緊張したなあ。もう少し上手にできたらよかったけど」と苦笑いした。
 東日本大震災の津波で女川町は壊滅的な打撃を受けた。昨年三月十一日のあの時、阿部は隣の石巻市内で車を運転していた。ハンドルを取られそうになるほどの揺れを感じた。カーラジオからは津波警報が断続的に流れた。予想波高がどんどん高くなっていく。海岸に近い女川町の自宅には、母親の孝子(八三)と息子(二八)がいるはずだった。自宅へ向かったが、道路はどこも渋滞していて一向に進まない。津波で橋も落ちていた。いつもなら三十分程度の道のりを六時間かけてたどり着くと、町の中心部は津波にのまれ、何もかもなくなっていた。
 阿部は、父宗悦(八五)、母孝子と、小さな食料品店を営みながら、学習塾も開いていた。その自宅は一切が流された。孝子らは近くの高台にある親戚宅に避難していて無事だった。停電で真っ暗な中、寒さに震えながら夜を過ごした。親戚宅などを転々として、女川第一小学校の校庭に建設された仮設住宅に入ったのは五月になってからだ。

女川原発でも浸水トラブル

 町内に立地する東北電力女川原発を襲った津波は、福島とほぼ同じ高さ約十三メートル。主要な施設は標高十四・八メートルに位置していたため、大きな被害はわずかな差で免れた。しかし、1号機では高圧電源盤で火災が発生、二台の非常用ディーゼル発電機のうち一台が使用不能に。2号機は、配管通路から海水が浸入し、建屋地下部分にある熱交換器室が一時、深さ約二・五メートルまで浸水した。発電機も故障した。
 原発の敷地内にある体育館では、周辺集落から最大三百六十人が避難生活を送った。阿部は「わずかでも放射能が漏れているのではないかと気が気でなかった。今後も予想を超える津波や地震が起きる可能性がある。絶対に安全だなんて言えるわけがない」と憤る。

子どもが笑顔で過ごせる町に

原発に頼らない復興計画を

 女川町で原発計画が持ち上がったのは一九六五年ごろ。当時の町長が誘致に動き、六七年に町議会が誘致を決議。翌六八年には東北電力が立地場所に決定した。
 だが、漁業関係者を中心に激しい反対運動が起こる。地元の女川町、旧雄勝町、旧牡鹿町の反対派が集まって六九年、「女川原子力発電所設置反対三町期成同盟会」を結成。回船問屋を営み漁師でもあった宗悦も運動に加わった。
 当時、阿部は東京の大学に通っており、故郷の反原発運動には直接関わっていなかった。公害が大きな社会問題になっていたころ、東京大助手の宇井純の公開自主講座「公害原論」に足しげく通った。水俣病患者の原因企業チッソ本社との補償交渉の支援に熱を入れた。そこで、後に夫となる康則と知り合う。
 東北電力や推進派による切り崩し、懐柔はすさまじかった。
 「委任状に勝手に賛成と書かれて投票されるということもあった。親族間でだまし合いがあったり、裏切りがあったり。地縁、血縁が濃い地域なのにズタズタにされた
 女川漁協が補償交渉に同意したのは七八年。翌七九年に本体工事が着工した。誘致から十二年もの年月が経過していた。
 宗悦らはあきらめなかった。東北電力を相手に原発建設の差し止めを求めて八一年、仙台地裁に提訴する。原告団長に宗悦、事務局長に康則が就いた。九四年の一審仙台地裁、九九年の二審仙台高裁とも原告側の敗訴。高裁判決直前の九九年二月に、康則は病に倒れ亡くなってしまう。四八歳だった。最高裁も二000年十二月、上告棄却。敗訴が確定した。
 それから十一年。かつてのような運動の盛り上がりはなくなっていた。「原発で働いている人もいる。関連会社で働いている人もいる。口に出せる状況ではなくなっていた」。町の予算の五割が交付金などで占めるようになっていた
 そこに起きた東京電力福島第一原発の事故。「女川原発でも被害があったことが、あまりにも知られていない。反原発運動があったこともすべて忘れ去られてしまうかと思うと、気持ちがおさまらなかった
 父宗悦もかつて町議だったことがある。しかし、阿部は人付き合いが苦手で口下手なこともあり、悩みに悩んだ末、町議選告示の三日前に立候補を決意する。「もう二度と原発の事故を起こしてはいけない。そのためには、震災の被害を受けた町で、女川原発を止める運動を途絶えさせてはならない」。それは、小さな町のしがらみに反して、女性が声を出し、踏ん張ることを意味していた。
 定数十二に対し立候補は十三人。仮設住宅などを歩きながら「脱原発」を訴えて回った。女性を中心に「別の人に入れるけど、あんたにはうかってほしい」「表では言えないけど、原発は心配だ」という声も多く聞いた。十一月十三日の選挙結果は九位で当選。原発に反対する共産党町議も二人が上位で当選した。
 「町長は原発について町の判断では決められないというが、それは違う」。阿部が注目しているのが、静岡県の中部電力浜岡原発周辺の市町村議会の動きだ。安全、安心が担保されない限り永久停止すべきだとした牧之原市議会など、次々と「脱原発」を決議している。
 最も心配しているのは、子どもたちのこと。女川では人口の流出が大問題。「このままではいくら復興しても人口は戻らない。原発が存在すれば県外や町外に避難している若い人も戻ってこようという気持ちにならないのではないか」。多くの子どもたちが笑顔で過ごせる町を目指す。ただそれだけだ。
 (敬称略、小国智宏)

 あべ・みきこ 1952年、宮城県女川町生まれ。中央大を卒業後、故郷に帰り、食料品店と学習塾を営む。1男4女の母。昨年11月の町議選で、有効投票4998票のうち288票を獲得し初当選した。

 <デスクメモ>
 女川町議選の投票総数は五千四十一票。阿部さんの得票数は二百八十八票だった。しがらみだらけの立地自治体では「二百八十八票も」というべきだろう。同じ日に投開票のあった宮城県議選では、女川町を含む選挙区で初めて共産が議席を獲得。原発に反対する勢力の躍進、それが民意だった。(木)


げんぱつ あっかんべー!!女川原発反対同盟看板





ライター平井有太が京大を退職し長野に移住した小出裕章先生に聞く
「政治は大嫌い、でも圧倒的に大切」

(平井有太)
http://www.webdice.jp/dice/detail/4744/
小出裕章先生インタビュー
「権力のやり方は、『差別』と『分断」が基本』
より 抜粋

■政治にむいている人が是非、やって欲しい(小出)

平井有太(以下、平井):なぜ、原発の特性としての「分断」が、ここまで効果的に、本来共闘する仲間なはずの被災者同士に、機能してしまうのでしょう。

なぜ、私たち市民は冷静に事故の実際の当事者に矛先を向けられないのか。また、皺寄せが誰にいっているか。それは今回の場合子どもや母、農家や漁業者ですが、私たちはそこを見極め、本当に困ってる存在に手を差し伸べずに、ただ忘却するだけなのでしょうか?

小出裕章(以下、小出):日本人は権力に弱いんです。「勤勉」という評価は確かにそうだと思いますが、私から見ると「従順」です。「権力に対して従順」なのです。だから必死で働いてしまうし、指示されれば何でもやってしまう。

平井:TVを鵜呑みにする比率も、欧米諸国と比べて飛躍的に高いとか。

小出:昔からそうなんです。戦時中から、大本営発表しか流されなかったし、みんなそれを信じて戦争に突き進んでしまった。

原子力は、戦争の構図とそっくりです。昔、権力が「戦争をやる」と決めた時と同じように、権力が「原子力をすすめる」と決めるとマスコミを含めて全部がそれに乗っかっていってしまっています。

これは平井さんも言ってくださってますし、私も本当に思うけれども、福島第一原子力発電所事故は「誰に責任があったのか」ということを、きっちりと明らかにすべきだと思うけれど、そんなこと誰も言わないし、マスコミは触れもしない(笑)。



発言はしますけれども、具体的に何かできるわけではない。私は、はじめからお伝えしているとおり、「政治は大嫌いだから、一切関わらない」と言っています。でも、だからと言って「政治が大切じゃない」なんて思っているわけじゃない。政治は圧倒的に大切です

ですから、「政治にむいている人が是非、やって欲しい」と思ってますし、「私はすいませんがむいていません」と言ってるだけです。

■原発事故に対するものすごい風化、忘却の力が圧倒的(平井)



小出:私は、「福島から逃げてください」と言っているわけです。ですので、今福島で復興のために努力されている人々からは散々怒られています。

逆に、福島に捨てられている人たちを支えなければいけないから、「日本人の大人はすべからく自分の責任を自覚して、汚染を引き受けなさい」という発言をして、それも皆さんから怒られています。



■東京電力がやった犯罪行為、どうして誰も処罰されないのか(小出

平井:また、特に危険視される核種であるストロンチウムに関しては、私はそれこそ先生のご発言からやっと認識できた側面があります。原発から飛び散った量として、「そこまでは放出されなかった」ということでしょうか?

小出:空気中には出なかった。たぶんストロンチウムはセシウムの1/1000くらいしか出なかったし、プロトニウムはさらにその1/1000くらいしか出てませんから、いわゆる「大地を汚している」という意味では、何よりもセシウムに気をつけなければいけない。

ただ、これも皆さんから、「小出はストロンチウムは問題ないと言ってる」とよく怒られるけれども、私は別に「問題ない」なんて一言も言っていない。

平井:これは未だにどう理解していいのかわからないのですが、海の魚を測るのも、基本、皆さんセシウムで測っていると。

小出:海はセシウムじゃないですよ。海こそストロンチウムを調べないといけない。

平井:そう考えて、色々な場で、機会があれば手をあげて、「陸地はセシウムの測定でわかるんですが、海は色んな核種がずっと出ていて、セシウムだけの測定では、少しでも知識ある消費者は納得も安心もできない気がします」と、質問するようにはしています。

溶け落ちた燃料を未だ地球上の誰も確認できない状況があり、ここから先はあくまで想像の範疇を超えませんが、たぶん地中深くで地下水とジャブジャブと接触し、あらゆる核種がそこで溶け込んで、土から海にしみ出しているイメージでいるのですが。

小出:水に溶けやすい放射性物質と溶け難い放射性物質があるので、例えばプルトニウムなんかはほとんど水に溶けないし、これからもあんまり問題にならないと思います。

でもストロンチウム、セシウムは水に溶けやすい。そして、もともと核分裂した時にストロンチウム90とセシウム137ができる量はほぼ一緒です。それが、大気中に関する限りは、セシウムは揮発性だし、ストロンチウムは揮発性が低いので、セシウムが大量に出てきました。

ですが、「水溶性」という意味において、放射能の汚染水に関する限りはセシウムもストロンチウムも一緒です。

その上で、今福島第一原子力発電所の原子炉建屋などに溜まっている放射能汚染水の処理をしているわけですが、基本的にやっていることはセシウムをつかまえているんです。ストロンチウムに関しては、何もできていない。

つまり汚染水の中には、セシウムよりもストロンチウムの方が多いということです。それが今、手の打ちようもなく海へ流れて行ってるわけですから、「海の汚染」という限りは、ストロンチウムこそ問題にしないといけない。

東電は「なんとかなってるだろう」と信じながら、1日400トンの水を、どこにあるかわからない、熔け落ちた炉心に向けて、流し込んできた。その他に、地下水が原子炉建屋に流れ込んできて、それも400トンあった。そうなると、自分で入れているものは循環して使ってるわけですが、新たに流れ込んでくる地下水の分は、どうしようもなくて増えていってしまう。しょうがないから「タンクに貯めます」と言ってきたわけですが、タンクがどんどん増えて、すでに50万、60万トンとなってきている。

そしてそのタンクも応急のものでしかないわけで、案の定後になって漏れてくるということになってきた。揚句の果てには、敷地に限りがあるから、いずれだめになることもわかっている。

平井:いわき市にある市民測定所「たらちね」が、遂に、民間で初めてべータ線を測れる機器を揃えました。それはやはり海が近くて、ストロンチウムを測る必要性にかられてと理解しているのですが。

小出:そうです。

平井:私自身はずっと「尿検査をやるべきだ」と言ってきました。測っても、余程の内部被ばくでないと数値が出ないホールボディカウンター測定では、県内外の、低線量被ばくに慎重な方々の安心材料として足りない。尿検査の上で数値が出なければ、そこでやっと自信を持って「どうやら平気そうだよ」と言えるかなと。

小出:尿検査もやらなきゃいけないと思います。

そして、海はもっと長い時間が経つと、どんどん汚染が拡散していくわけです。完璧に拡散してしまった後のことを言うなら、私は「しょうがない」と諦めるしかないと思っています。

人類はこれまで、様々なかたちで海を放射能で汚してきました。一番酷かったのは、大気圏内核実験です。当時は一切の防壁もなく、原爆を爆発させて放射性物質を大気中に撒き散らしていました。それは今回大気中に撒き散らされたセシウム137の量に比べれば60倍もの量になります。

そういう意味ではすでに汚れていたわけだし、福島のものが太平洋全体に拡散してしまうなら、こういう言い方をするとまた皆さんから怒られるけれども、大して気にするほどのものではない。

平井:ただそういうことを、事故を起こした側が、煙草や車に乗るリスクと比べながら、当然のことのように言ってくることに違和感があります。

100歩譲って、世界的に研究者の間で見解が別れる危険性の程度はさておいても、今までそこになかったものが、自分で選んだわけでもなく、唐突に空から海から撒き散らされ、あらゆる問題を巻き起こし続けている。かつてない大迷惑なのに、誰もその責任をとらないし、状況を直視しない

小出:どこかの町工場が「毒物を流した」となれば、即刻警察が踏み込んで逮捕するわけじゃないですか。ましてやそれで誰か一人でも死ねば、マスコミも含めて大騒ぎになる。そんな時に「タバコで死ぬやつ、交通事故で死ぬやつがいる」なんて議論は起きなくて、「犯罪行為を犯したから処罰する」ということになるわけです。

であるならば、この、東京電力がやった犯罪行為の巨大さはどうしてくれると。どうしてこれで誰も処罰されないのか、大変不思議です

平井:他の定番の話は、人間には体重10キロあたり平均500~700ベクレルのカリウムがあって、そこにほんの少し放射性物質が入ったからって気にすることではないと。

小出:日本の国は、“天然の”被ばくがあることは十分承知の上で、「被ばくというものは危険だから、“人工的な”被ばくは1年間に1ミリシーベルトを超えないようにする」としていたわけです。

それはICRPIAEAなり、国際的機関が出す情報に基づいて決めてきたことで、「被ばくに危険があるなんて当り前のこと」だし、そのために「人工的な被ばくを制限しよう」という法律までつくったわけですよね。その法律がもう、全然守れなくなってしまった。

そうしたら緊急事態宣言を出して、人々を「被ばくしてしまえ」と言って、放っておいているわけです。


平井:実際に「年間20ミリまでは帰還して」ということが始まりました。それも何の権限か、事故当事者が、補償金の打ち切り宣言と共に。

小出:20なんて、私のような放射線業務従事者に初めて許した基準です。それで給料をもらって生活してるから、「我慢しろ」と言って大人に対して決めたものを、何の利益も受けない人、しかも子どもにまで押し付けようとしている。

平井:私が2011年に福島に行き始める判断をした理由の一つに、4月に研究室で見せていただいた、歳を重ねるごとに放射能の影響が小さくなっていくグラフがありました。でも、実際は放射能の影響は年齢に関係なくありますね?

小出:被ばくの影響は必ずあります。年寄りにもありますが、とはいえ、子どもの方が大きいです。要するに、断ち切られて傷を受けた細胞が分裂して増殖してしまうわけです。それは細胞分裂が活発なほど傷を受けた細胞が増えるのは当り前のことなので、40歳も超えれば、血液とか骨髄とかは別として、基本的には成長する世代ではないわけです。

これは“比較の問題”ですが、必ず危険はあります。私だって被ばくをすれば危険を伴いますが、若い子はもっと危険を伴う。40歳を過ぎて安全と言った覚えはないし、危険は必ずあります。

でも、「大人はすべからく責任があったはずだ」と。比較の問題で言えば、責任のない子どもたちの方が被ばくに危険なのだから、私は「子どもたちだけは守らなければいけない」と言っている。

平井:筋道の話ですね。

小出:そのつもりなんですが、なかなかそうは伝わらない(笑)。

■「不特定の方々に1冊の本でお知らせする」というかたちの発信は興味はない(小出)

平井:ここまで、先生のご著書は何冊ほど出ましたか?

小出:50冊は出ていると思います。単著でたぶん30冊くらいと思いますが、それも私が書いてるんじゃないんです。

私が喋っているものであるとか、折りに触れて必要に迫られて書いた文章だとかを、それぞれの編集者の方が集めてきて本にしてくれるというだけで、私が本当に「その本のために書いた」というのは、まえがきとかあとがきとか、せいぜいその程度しか書いてない。だから私は「一冊読んでくださればいいですよ」と言ってるんですが、ただ本は編集者の方の個性が滲み出ているので、かなり違うと思います。

私はもともと、“本を書く”なんてことに何の興味もありませんでした。「出したい」と思って出した本は1冊もありません。

平井:それは今に至っても?

小出:私は他の誰でもない私として今この場にいるわけだし、私しかやらない仕事があればもちろんやります。私にしかできない発信はもちろんやりたいと思っていますけれども、それを不特定多数の方々に、本にして「読んでください」という発信の仕方はしたくない。

本当に切実に思ってる方々に向かって、「私はこう思います」と。「私の仕事でわかったことはこういうことです」という発信はもちろん、私の責任ですので、やろうと思ってきました。

チェルノブイリの事故が起きて、「現地がどう汚染された」、「日本にどういう放射能が飛んできた」というのも私の仕事でした。また、人形峠のウラン鉱山でどんな汚染が起き、「周辺の人たちがこんな風に被ばくをしてる」ということを調べるのも、どこかの発電所で起きた事故がどんな意味を持っているか、現地の人たちと一緒に調べながら報告書を書くのも、「私の仕事だ」と思っていたので、それはやります。

ただし、「不特定の方々に1冊の本でお知らせする」というかたちの発信は、私は全然興味はないし、「そんなことはやりません」と言ってきたんです。

平井:色々とお話を伺っていると、先生がやらんとされていることは、「ご自分に落とし前をつけること」でしょうか?

小出:そうです。良くわかってくださった(笑)。

平井:それを淡々と、粛々と続けてこられた。

小出:私は、一人一人の責任ということは、ものすごく大切なことと思うんです。

誰かに強制されて何かをしているのではない。私が「必要だ」と思うことを自分で選んでやっているわけで、そうであれば自分で選んでやった行為に関しては、必ず「自分が責任をとらなければいけない」と思っているわけです。

ですから、私が愚かにも「原子力に夢を抱いてしまった」という、その「愚かさ」に対しての責任は、私がとるしかない。

平井:若かりし頃、夢を抱いて原子力を選ばれた時点で、先生はすでに「自分で選びとる」生き方をされていた?

小出:そうです。

平井:その、ご自分で選びとる生き方は、どこで培われたのでしょう?

今日のここまでの話は、要約すると、なぜ私たちはここまで「人任せ」で、「思考停止」で、「従順」で、それが自分の首を絞めていることにすら気付かず、上辺の幸せを享受していれば喜ぶ人種なのか、という話だと思うんです。

それは、原発事故が特に明らかにした事実の一つであると思うんですが、とはいえ先生はお若い頃から、選択を誤ったかどうかは別にして、すでに「自分で選びとる」人生を歩まれていた。

小出:今、私と平井さんがここでこうやって話しているけれども、私と平井さんは生まれた時も違うし、生きている場所も違うし、私は原子力のこと以外知らないけれども、平井さんは音楽とアートの世界にずっといらっしゃった。

でも、表に出ればまた別の人がいて、とにかく全員違うわけです。日本人だけで1億何千万、世界全体では70億もの人が、一人一人、生まれも育ちも個性もみんな違う人間でいるわけです。価値観が違うなんて当り前のことです。

そういう人たちが一色の価値観に染まってしまって、みんなが同じ方向に向かうということが、私はすごく気持ち悪いんですね。

大切なのは一人一人が、他の誰でもない個性を持ったその人として、輝いて生きることだと思います。


平井:伺おうと思っていることは、先生のそういったお考え、生きるご姿勢にどう至ったのか。それは、私にとっても、これは世代なのか、育った環境か、当然と思える生き方が、世の中では「かなり普通じゃないんだ」と感じることがよくあります。その中で、世代もずっと上の先生が、どのように育たれたのかということなんですが。

小出:私は別に何でもないです。下町の零細企業の家の生まれですから、特別なんということもないのです。「金なんか残してやれないから、教育だけは受けさせるよ」と言われて、それで私立の開成とかいう中学に入れられました。そこで、親の希望としては、たぶん「教育つけて、出世しろよ」という想いだったんでしょうし、日本という国ではみんなそうじゃないですか。

「出世しろ」、「故郷に錦を飾れ」とか、「末は博士か大臣か」というように、社会的ステータスをつけることが人間としての価値かのようにみんな思ってきたし、今でもたぶんそう思ってるんだと思います。私自身もたぶんそういう価値観で育てられたんだと思いますが、でも、何でなんだかな。

「つまらんな」と思いました。

開成の時もそうでした。

平井:311以降、以前は誰も原発のことなど考えない、むしろあって当り前とされるような時代を経て、現在の先生に対する反響、想いを共有してくれる方々の数は、想像以上でしたか?

小出:それは、多いでしょうか?(笑)

私の発言に共感くださる方が、何がしかいるということはたぶんそうでしょうし、ありがたいと思いますが、でも私を嫌う人はむしろもっと多いんじゃないかと思います。

平井:賞賛と批判、どういった割合で集まってきますか?

小出:私はネットに関しては「一切お相手しない」と言っています。ですから、たぶんネット上に私への批判は山ほどあると思いますが、一切相手にしていません。

そして、直接私に批判をくださる場合には、「必ず相手をします」と言っています。ですので、直接私にメールとか、配達証明付きの郵便だとかで批判をくださる方はいるので、そういう方はお相手しています。でもまあ、直接言ってくる人というのは少ないです。そういう方は、「ありがたい」と思います。



平井:著名な方ではアインシュタインをはじめ、超ハイパーで優秀な理系の研究者の方々が、数値や公式を突き詰めていって、その最前線での「どこを選びとるか」という判断は、数式では割り出せない境地に依っているような気がします。

小出:特に自然科学は、今までわからない事実を「知りたい」という欲求からあるわけですよね。必死に調べていって、「これがわかった」と思うと、その先にまたもっとわからないものが広がっていく。それを「わかりたい」と追っていくとまたどんどん分からないものが広がっていくわけで、結局要するに、わからないんです。

ですから、「科学をやってると真理がわかる」というのは、ごくごく一部のことがわかるんであって、全体のことなんて、わからないことがむしろ多いんです

平井:極められた方ほど「謙虚」になられる気がします。

小出:平井さんが仰った、アインシュタインだってそうですよね。でも、「すべては数字だ」という立場の方も、いっぱいいると思います。

平井:本来は「わからない」ことを確認する作業であり、その中で何を選びとるかは、それぞれ選択していく。

小出:だから、全員ではありませんが、優秀な科学者の多くは宗教を持っていますよね。私は「ぜったいに宗教は持たない」と宣言してますけれども。

平井:それはなぜですか?

小出:宗教も含め何ものにも私は依存したくないからです。

(2015年5月12日長野県松本駅にて 取材・文:平井有太)