”命”が軽んじられている…(。-_-。) いつまでも苦労するのなら死んだ方がいい(;´д`) | 私にとって人間的なもので無縁なものはない

”命”が軽んじられている…(。-_-。) いつまでも苦労するのなら死んだ方がいい(;´д`)



雨ニモマケズ

宮澤賢治


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩


"雨ニモマケズ"東北弁朗読 今野東

http://youtu.be/JaQHufacSOI


立場の弱い者・虐げられている人々よ負けるなお!
( *`ω´)( ゚ー゚)ノ)"ガンバレ





千葉県営住宅追い出し母子心中事件現地調査団
家賃減免で救えた命
(生活と健康を守る新聞)2015年2月1日

 千葉県銚子市の県営住宅で昨年9月、家賃滞納を理由に住宅明け渡しの強制執行日に、母親が中学2年生の娘の命を奪い自分も死のうとした事件(無理心中未遂事件)が起こりました(一部既報)。これを受けて、全国生活と健康を守る会連合会中央社会保障推進協議会自由法曹団住まいの貧困に取り組むネットワークでつくる「千葉県銚子市・県営住宅追い出し母子心中事件現地調査団」(団長・井上英夫生存権裁判を支援する全国連絡会会長・金沢大学名誉教授)が1月19日、千葉県と銚子市の2班に分かれて、県営住宅の家賃減免制度の県民への周知徹底などを55人の参加で要請しました。
(妹尾七重通信員、西野武記者)

家賃減免で救えた命

「待ちの姿勢改め周知を」千葉県へ

 千葉班(県庁)の申し入れでは、あらかじめ提出しておいた要望書(案)に、県側から住宅
課、福祉課の4人が出席して回答しました。
 県営住宅入居者への家賀減免制度の周知徹底について、「入居時説明会、ホームページなどで紹介しているが、新たに別の資料として同封する」と回答。これに対し調査団は「待ちの姿勢だ。積極的に十分な周知に努めるべき」と要望しました。
 家賃滞納者へ制度を丁寧に説明することについて、「滞納4か月ぐらいでの初期段階で脱明する。同意があれば各市町村の福祉課へ連絡して対応する」と答え、「4か月では遅い。1~2か月で対応すべき」と追及。
 明け渡し訴訟は、安易に提訴しないについては、「必ず対面で、直接会って確認するように13人の徴収員に指導している」と述べ、「徴収員は嘱託で、回収が目的。減免制度を勧められる職員を増やして、当たらせるようにするのが妥当」と迫りました。
 その他、千葉県によると県営住宅入居世帯1万7878世帯(2013年度末)のうち、減免対象世帯が1万1616世帯(13年度収入申告)あり、これは入居世帯の65%に当たります。そのうち減免実施世帯は1961世帯(14年3月末)で、減免対象世帯のわずか17%にしかすぎませんでした(別図)。
 調査団は「減免制度の周知は、この数字を見ても県が消極的なのは明白だと」追及しました。

家賃減免で救えた命 図

「市民への責任果たせ」銚子市へ

 銚子班には、銚子市の保険年金課、社会福祉課、都市整備課の各課長および職員が対応。「千葉県銚子市・県営住宅追い出し母子心中事件現地調渣団」の井上英夫団長が、「要望書(案)を提出するが、本日の行動を踏まえ再度要望書を提出する」と述べました。
 保険年金課は、「4月5日、滞納の分納を約束し短期保険証を発行。就学援助について、小学校でも受けていたので中学でも受けたいと言っていた。生活保護を勧めるとそのまま、社会福祉課に行った」と脱明。社会福祉課は、「面接記録は未聴取が多い。勤労収入も家賃の滞納も聞いていない。面接には新人と経験者が対応。当時のことを聞いても『覚えていない』という」…なんとずさんな生活保護行政か
 井上団長は、「安易な面接は改善すべきだが、申請もさせず、あれこれ聞くという水際作戦はやめる」「県や他と連携と言うが、市民に責任を果たすことが重要」「正規の公務員で、有資格者の職員を増やすこと。これを国や県に意見を上げてほしい」と要求しました。事件の全容解明と法的責任の所在を明らかにする必要があります。

「命が軽んじられている」報告集会

 銚子班、千葉班が合流して行われた報告集会で、井上団長は「命が軽んじられ、人が亡くなっている深刻さが薄くなっている。行政の責任を再発防止のためにも追及していかなければ」と語りました。
 全生連安形義弘会長は「千葉・銚子だけの問題ではない。自治体が最低限度の生活保障の役割を果たしていない。今の公営住宅政策は建てない・取り立てる・追い出すだ。こんな中で国は生活扶助を下げた。水際作戦がこうした面接記録すら執らせないやり方を生み出した」と語気を強めました。

要望書(案)


差別助長、効果に疑問
 大阪市の生活保護支給プリペイド化

(東京新聞【こちら特報部】)2015年1月25日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015012502000164.html
 全国最多の約十五万人の生活保護受給者を抱える大阪市は、生活保護費の一部をプリペイドカードで支給するモデル事業を実施する。市によれば全国初の試みだ。二〇一六年度にも本格導入する。過度な浪費の防止が狙いだが、生活保護への風当たりが強いだけに、受給者は「偏見が助長される」とおびえる。肝心の削減効果も期待できず、受給者のプライバシー権と自己決定権を侵害するだけに終わりかねない。
(白名正和)

差別助長効果に疑問大阪市生活保護支給プリペイ1

全国最多15万人「浪費防ぐ」

 生活保護支給のプリペイド化、橋下徹大阪市長が昨年十二月二十六日の記者会見で発表した。橋下氏は「受給者の自立に向けた家計収支の把握に役立つ」と意義を強調した。
 二千世帯の利用を目標に来月から希望者を募り、新年度から実施する。受給者には三井住友カード(東京)が発行するプリペイドカードを貸与。食料品や衣料品の購入などを目的とする生活扶助(同市では単身世帯で約八万円)のうち、約三万円をカードにチャージ(入金)する形で支給する。明細を市で確認し、過度な飲酒やギャンブルへの支出などがあれば、生活や金銭の管理の指導につなげる。
 だが、特に高齢の受給者にとっては、カード使用自体への警戒感が強い。
 「現金でしか買い物してへん、こんなおばあちゃんが、急にプリペイドカードなんか使い始めたら、すぐに生活保護の受給者だって分かってしまうやんか」。大阪市港区のアパートで一人暮らしの女性(八三)は不安を囗にする。
 女性は奈良市で約五十年間、結婚式用の着物を仕立てる仕事をしていた。夫を亡くしても何とか生計を立てたが、年金の積立金を払う余裕はなかった。七十歳の時に右腕がしびれて針が持てなくなり、廃業して故郷の大阪市へ戻る。貯金を切り崩しながら検査を受け続けたが原因はわからず、七十三歳のころから生活保護を受けている。
 保護費のうち生活費は約七万五千円。食費に三万円、光熱費に一万五千円、衣料品や交際費に三千~四千円ずつをあてる。
 「受給者は怠け者だ」などと决めっけるバッシングが高まる中、周囲とのかかわりを避けるようになった。現在は受給者同士の集まりに行くことはあれど、昔の友人と出歩くことはほとんどない。
 買い物は近所の量販店やスーパーで済ます。なじみの店員さんと世間話に花を咲かせることもあるが、プリペイドカードを持たされれば「もう行けへん。別の店を探さんと」。
 三井住友カードによれば、「一般店舗で使えるプリペイドカードはなく、新たに作ることになる」(広報担当者)。新規作成のカードとなれば注目も集まる。大阪市の古城厚穂・生活保護調査担当課長は「大阪市や生活保護といった文言は明記しないなど配慮はするが、使うことで受給者だと分かるケースが生じる可能性もある」と認める。
 女性は肩を落とす。「受給者だとぱれてしまうんじやないかといつも気にすることになるのは、気が重い。受給者だからそこまでしなきゃいけないのでしょうか

差別助長効果に疑問大阪市生活保護支給プリペイ2

結果的に選択強制?

 大阪市の生活保護受給者は二〇一四年十月時点で約十四万九千人。市区町村別では全国最多である。百人当たりの受給者は五・五人と、全国平均の一・七人を大きく上回る。一四年の保護費は二千九百四十四億円に上る。
 市は一二年度から「生活保護費の適正化」と銘打ち、保護費の削減に取り組む。主なターゲットは、過度な飲酒やギャンブルへの支出だ。今回のプリペイドカード化も、その流れの中に位置付けられている。
 果たして効果はあるのか。全国の法律家や支援者でつくる「生活保護問題対策全国会議」は八日に厚生労働省で記者会見し、事業の撤回を求めた。
 会議のメンバーで、依存症からの回復を支援するNPO法人・ジャパンマックの武沢次郎事務局長は「依存症の治療には金銭管理でなく長期的な治療が必要だ。カードを発行しただけでは効果は出ない」とみる。市は将来的に、一日に使える金額の限度額も設定できるようにする考えだが「限度額を設けてもすべて酒やギャンブルにつぎ込むだけで、根本的な解決にならない」。
 さらに問題なのは、細かな使い道まで行政側に把握されれば、プライバシー権自己決定権を侵害しかねないことだ。この点、カー
ドを使うかどうかは受給者の判断に委ねるようだが、浪費癖のある受給者が自らカード化に手を挙げる事態は想定しにくい。となれば削減効果はない。
 古城担当課長は「過度の飲酒などの問題がある人は保護の停止が可能だ。その点を説明してカードの利用をお願いする」と説明する。それは強制ではないかと尋ねると、「グレーかもしれないが、理解した上で選択していただく」。橋下氏は会見で「全員、一定額についてはカード利用ということにした方がいい」と発言している。

貧困ビジネスか「管理ではなく支援を」

 うつ病で働けず保護を受ける大阪市港区の女性(五一)は「市からカード使用を求められたら、『受給者はそこまでして当然』という世の中のバッシングもあるし、断れない。嫌々承諾す
る形で、次第にカードが広まるのでは
」と危惧する。
 プリペイドカード化は、生活保護費を搾取ずる「貧困ビジネス」のにおいもする。カードの導入は、カード会社側から打診があった。市は発行費用などを払わず、受給者の負担もないが、カード会社は店からの手数料を受け取る。収益見込みは開示されていない。
 カードの使い勝手もよくないようだ。市は一三年七月に市民からカード化を要望された際に「購入先が限定され、小規模店舗では使用できない」と否定的だった。方針が変わったのは利
用可能店舗が増えたためというが、市は、「数は把握していない」、カード会社も「店舗数は公開できない」と根拠が判然としない

 全国会議メンバーの小久保哲郎弁護士は「利益を上げるのはカード会社だけの自治体規模の貧困ビジネスだ」と指摘した上で、「必要なのは、受給者の生活を支援するケースワーカーなどの体制を整えることだ」と訴える。
 社会福祉法は、ケースワーカー一人当たりの受け持ち世帯の目安を八十~六十五世帯と定める。大阪市は、働ける年齢の世帯は一人につき六十世帯を受け持つ一方、高齢者の受給世帯は一人で三百八十世帯を担当している。働ける世帯に集中するのは結構だが、高齢者世帯には支援が届きにくくなっている。
 「カードで受給者を管理しても効果は望めない。保護費の削減が進む中、カード化が他の自治体に広がる恐れもある。一自治体の限定的な取り組みだからと放っておける話ではない

差別助長効果に疑問大阪市生活保護支給プリペイ2デ



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国に2度裏切られて
福島県浪江町津島の避難者
(しんぶん赤旗)2015年1月27日

 東京電力福島第1原発事故で全町避難になっている福島県浪江町津島地区。二本松市杉内仮設住宅で避難生活を送る伊東千代子さん(86)と大内孝夫さん(82)は、満蒙開拓団として中国の黒竜江省(こくりゅうこうしょう)訥河(のうほう)県下学田に入植しました。戦後帰国し浪江町津島地区に移住しました。戦争と原発、”二つの国策”に翻弄(ほんろう)された被災者の今を取材しました。
(菅野尚夫)

国に2度うらぎられて_1

戦争、原発もう逃げたくない

伊東千代子さん(86)

 千代子さんは13歳のとき、両親と子ども4人の家族で福島県旧上川崎村(現二本松市)から王道楽土」「五族協和」の国を築くというスローガンで宣伝された満蒙開拓団に加わりました。
 冬はマイナス30度にもなる酷寒の地。ジャガイモ、大豆、小麦などをつくりました。「薪(まき)もなく草や小麦ガラなどを燃料にしてしのぎました。一つの風呂を6軒の家で共同使用するものでした」

満蒙開拓団

「死の逃避行」へ

 ソ連は1945年8月9日、日ソ中立条約を無視して中国東北部に侵攻。それから千代子さんたちは死の逃避行へ。髪を切り、顔は墨でぬり、男の子に変装。ジャガイモの入った倉庫に息を潜めてソ連軍の通り過ぎるのを待ちました。
 両親を中国で亡くし、親代わりで妹弟3人を守り、チチハルを経て佐世保に帰国しました。
 故郷の上川崎村に帰った後に、49年に結婚し浪江町津島に入植しました。     ’
 木を切り、開墾や根切りに使う唐鍬(とぐわ)で根っこを掘って耕し、炭を焼いて生計をたてました。「あんな山奥。みんな嫌になり実家に逃げ帰ったこともあった」
 食うや食わずの血のにじむ苦労で3町歩(約3ヘクタール)の田畑を開墾、和牛一頭から始まり、乳牛18頭まで増やしました。夫とは97年に死別。3人の子どもを育て、独立させて1人暮らしでした。

 再び避難生活に

 2011年3月11日、東日本大震災福島第1原発事故は、再び千代子さんに避難生活を強い、「つらい3年10ヵ月を送らせる」ことになりました。
 3月16日になって津島地域の世話役がきて逃げるように告げられました。二本松市東和の体育館に20日間避難。「いつまでも苦労するのなら死んだ方がいい。死ぬにも死にきれない」と、毛布にくるまると自然に涙がこぼれました。(´;ω;`)
 賞味期限の切れた凍ったおにぎりをストーブで温めて食べました。その後、横浜市にいた娘の家に半年避難。二本松市杉内仮設住宅ができて1人暮らしが続いています。
 「安住の地は定まりません」と、千代子さん。「国と東京電力に責任を明確にさせたい」と、津島地区原発事故の完全賠償を求める会に加入。「安全だ」と偽りの宣伝
で原発をつくり、さらに、原発から北西方向へ放射性物質が拡散する予測がSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワーク)によってできていたのに、住民には告げられずに放射能にさらされました。
 国策に2度裏切られた千代子さん。「もうどこにも逃げたくない。戦争は二度といやだ。原発の再稼働はだめだ」。きっぱりと国に挑みます。

国に2度うらぎられて_2

11人家族、中国から生還3人

大内孝夫さん(82)

 大内孝夫さん(82)も、福島県旧新殿(にいどの)村(現二本松市)から中国黒竜江省訥河(のうほう)県下学田に満蒙開拓団として入植した体験を持ちます。
 「11人家族で『満州』(中国東北部)に行き、生きて帰れたのは3人だけでした」といいます。
 1945年8月9日、ソ連軍の満州侵攻で、開拓団は大混乱になりました。
 開拓民を守ってくれるものと思っていた関東軍は、新京の総司令部を250キロ南の通化に移すことを決定。「満州を放棄」し「朝鮮の防衛」に当たることにしたのです。開拓民を置き去りにして、真っ先に退却してしまったのです。

 いつでも死ねる

戦陣訓

 9月5日、開拓団に「ソ連兵が来た」と伝えられました。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めをうけず」という軍人の「戦陣訓」が開拓団のなかで強調されて、集団自決することが申し渡されました。
 毒薬が配られて、母が子に、祖父母が孫に手をかける悲劇が起きました。大内さん一家は、隣組の長老から「いつでも死ねる。まだ飲むな」と指示されて、自決の列には加わりませんでした。
 「生き延びたものは、父と弟と3人だけ」。中国から帰国までの1年は「地獄と呼ぶのも生ぬるい逃避行でした」。
 46年11月、長崎県の佐世保港にたどりつきました。しかし、弟は寒さと飢え、「気が狂わなかったのが不思議」な状態に置かれて1ヵ月後に亡くなりました。
 大内さんは、福島県いわき市小名浜で家具職人などをした後に、48年9月、浪江町南津島に父と2人で開墾に入りました。
 終戦後の食糧増産、復員軍人・海外引き揚げ者・戦災者の就業確保のために行われた国策としての開拓事業で入植したのです。
 小屋を建て、まきを集め、炭焼きをして売りました。
 国から与えられたのは3町歩(約3ヘクタール)の山林。住居はササで囲った粗末な小屋。
 「この苦労は体験した人でないと分からないだろう。早く死んだ方がよかったと思ったこともあった
 51年、五月さんと結婚。4人の子どもを育てました。
 畑は3ヘクタールまで広げ、水田も40アールを買い、「ご飯も食べられるようになりました」。94年に家も建てて「終(つい)の住み家」と思っていました。
 「3・11」の日、激しい揺れで、軽トラックに乗り避難しようと思ったものの乗れません。翌日、福島市内の次男の家に避難するために普通なら1時間で着くのが4時間以上かかりました。
 福島市のアパートに半月、二本松市の雇用促進住宅に半月。そして現在の杉内仮設住宅と転々としました。

 戦争も再稼働も

 「古里の津島に戻ることはもうできない」と、「(原発は)安全だ」と言い続けた国の裏切りに落胆します。
 「こんなことは二度としてほしくないです。放射能はダメ。おっかない。戦争も、原発の再稼働もやってはならない



満蒙開拓団はこうして送られた~眠っていた関東軍将校の資料~

http://youtu.be/ejMaOdvvZaw

<証言記録・兵士たちの戦争>
「王道楽土を信じた少年たち ~満蒙開拓青少年義勇軍~」
http://v.youku.com/v_show/id_XNDA4NjA4MjY0.html
王道楽土を信じた少年たち 満蒙開拓青少年義勇軍
満蒙開拓青少年義勇軍は、満州(現・中国東北部)の開拓と警備を未成年者に担わせるため創設された。「王道楽土を建設し、五族協和を実現する」というスローガンを信じ、全国から8万6千人もの少年が大陸へ渡り、そのうち約2万人が命を落とした。
全国で最も多いおよそ7000人もの少年たちを義勇軍に送りだしたのは長野県だった。昭和19年(1944年)6月には長野県中部地方から217人の少年たちが満州へ渡った。満蒙開拓青少年義勇軍、第七次斉藤中隊。中隊長・斉藤義男(よしお)ら大人の幹部6人が率いていた。
少年たちは当時、14歳から16歳。彼らが暮らした山村では多くの農家が狭い耕地や小作料の重圧にあえいでいた。長野県での義勇軍の募集は主にこうした貧しい農家の次男・三男を対象に行われた。少年たちの多くは学校の教師によって義勇軍への入隊を呼びかけられた。義勇軍に入れば3年後、満州で土地を与えられ入植できることになっていた。
第七次斉藤中隊は満州北部の嫩江(のんこう)の訓練所に入り、その後、モンゴルとの国境に近い興安に移っていた。そして昭和20年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻すると少年たちは350キロ先の新京をめざし撤退を開始。15日の終戦も知らず、反日感情に満ちた現地住民との戦闘を繰り返しながら逃避行を続けた。
9月5日、少年たちはソ連軍に投降したが苦難は続いた。幼かったためシベリアでの強制労働は免れたものの、頼れる大人もいないまま興安やチチハルといった厳寒の地に放り出されたのだ。粗末な難民収容所で寒さと飢え、病気などで次々と命を落としていった。
少年たちは生き残るために現地の農家や商店で働いた。中国の軍隊に入隊し10年近く帰国できなかった者もいた。斉藤中隊の217人のうち121人が大陸で命を失った。


満州 海外引揚者の証言 前半

http://youtu.be/V-4JZcYTfwA

満州 海外引揚者の証言 後半

http://youtu.be/iI-TC5HZ4O4


20120311 老人と放射能(前)

http://dai.ly/xpet6o

20120311 老人と放射能(後)

http://dai.ly/xpetlg

東日本大震災による福島第1原子力発電所の事故により、放射能汚染され、全町避難になった福島県浪江町。震災が発生する前、その山里に一人の老人と一匹の老犬が寄りそって暮らしていた。川本年邦さん、80歳。
 田舎暮らしにあこがれ、12年前に東京から移住してきた。震災前まで彼は水は山から引き、煮炊きは山から拾ってきたまきを使い、自給自足の生活を送っていた。そんな川本さんの信条は、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」。20代のころから、毎年地元の小学校に本を寄付し、昔懐かしい映画や幻灯を上映し、子供たちを楽しませ続けてきた。
 川本さんは「人に尽くさなければ、生きている価値はない」と、断言する。そんな善良な川本さんに次々と困難が襲いかかる…。
 熱心に子供たちのための活動を続ける川本さん。しかし、家族からは理解されず、とうとう家族とほぼ絶縁状態になってしまう。
 そんな川本さんをさらなる悲劇が襲う。川本さんは、子供たちや老人を楽しませる活動のために20年間コツコツ老後の資金をためてきた。しかし、福島へ移住後、その大切なお金は、詐欺師によって全額だまし取られてしまうのだ!!
 一文無しになった川本さんに残されたのは、浪江町の山里だけ。しかし、その土地も放射能によって奪われてしまう。引き算だらけの人生…。しかし、どんな過酷な状況に置かれても、川本さんは人のために尽くすことをやめない。人は何があれば幸せなのか? 豊かな人生とは何か? その答えは、一人の老人の生き方から見えてくる…。