一人です、二人です、三人です。鮮烈に生きよう!( ゚д゚)ハッ! その一 | 私にとって人間的なもので無縁なものはない

一人です、二人です、三人です。鮮烈に生きよう!( ゚д゚)ハッ! その一


公害企業摘発の決意
~「羅針盤のない歩み」から(抄)~

《目次》
漁民のうったえ
張り込み
海をみる目のちがい
硫酸の海ととまどい
「鮮烈に生きたい」
部下の決意
難航する捜査

漁民のうったえ
 こうした安全や防災の問題にとりくみながらも、一方で、私自身は前任者からひきついだ密漁漁民の取り締まりをせっせとやっていたのです。
 伊勢湾では各漁業組合それぞれに専用の漁場をわりあてているのですが、四日市の漁場は、コンビナートの一日三百五十万トンにもおよぶ工場排水のタレ流しによって、ほとんどの魚が死滅したり奇形魚になってしまい、漁民はまだ魚のとれるよその漁区に侵入して魚をとってくる、つまり密漁をしていたわけです。
 ある日、密漁でとらえた一人の年老いた漁民が、取り調べの私の机の前にすわってこうい
うのです。
「だれが好きこのんで密漁なんかことやるもんか。食うていけんからじゃ。昔は伊勢湾ちゅうのは魚の宝庫やった。ところが、コンビナートがやってきて、汚水でわしらのだいじな魚を根こそぎ殺してしもうた。漁場をあらした工場こそ犯人や。あんたらのいう水産資源を守る法律を破って魚を殺したやつは、向こうやないか。それを取り締まらんで、わしらだけつかまえるのは、あんたら企業の手先か」
 私はこの漁民のうったえに、大きなショックを受けて、あらためて水産資源保護法をみなおしてみたのです。そこにははっきりと「魚に有害なものを水面に捨ててはならない」と定めており、違反した者は懲役六か月と書いてあります。調べてみると、この類似の条項が明治五年から存在するのです。ところがわが国では、この法律に違反する主犯格の全国の有害工場排水のタレ流しに、この条項が一度も適用されたことがなかったのです。この法律は完全に死んでいた。そして私たちは被害者である漁民をとらえ、次々に罰金を徴し、結果的にはわずかにのこっていた彼らの生活すらうばっていたのです。
 
張り込み
 海をよごし破壊している真の犯人はだれか。そういう新たな目でみまわしてみると、三菱コンビナートのやみタンカー高砂丸が伊勢湾のどまんなかに毎日のように工場の廃油や有害な化学廃棄物を捨てていることがうかびあがってきたのです。
 私たちはさっそく張り込みに入り、苦心して昭和四十三年十一月三日、この船が伊勢湾のまんなかに大量の廃油を投棄する現場をヘリコプターと船のはさみうちでとりおさえ検挙しました。
 ところがこれによって産業廃棄物を海に捨てられなくなった工場側に、さっぱりこまったようすがない。「おかしいな」といろいろ調べてみると、取り締まりのきびしくなった四日市をのがれて、今度は隣の愛知県からローリーをよんできて、木曾川や長良川の川下にある屎尿投棄船の船積み場に運搬し、その船に屎尿と廃棄物をいっしょにつみこみ、伊勢湾の同じところに捨てているという情報が入った。
 さらに調べてみると、どうやら日本合成ゴム四日市工場がそういうことをやっているというので、さっそくその工場正門のそばに車で張り込んだのです。
 そして二日目の深夜零時半、ねらっていた名古屋ナンバーをつけた大型ローリーが正門から出てきたのです。さっそく深夜の名四国道での追跡に入った。しかしなかなかうまくいかない。警戒が厳重なのです。相手に気づかれないように苦労しながらやっと日光川の下流にある屎尿船船積み場に入っていく現場をつきとめたのです。そして草むらに身をかくし、その荷役が終わるのをじっと待ったのです。当時は真冬、付近が沼地で手も足もこおるように冷たくなったのをおぼえています。
 こうして長時間の荷役がすんだあと、人影がいなくなったのをみすましてこの船に立ち入り、証拠を手に入れたのです。そしてこれは大きな事件に発展しました。
 ところがこの関係者が、「わしらはこれでもまだ沖合の海にもっていって捨ててるんですよ。排水口からじかに海に有害物をどんどん捨てている工場はどうなるんですか」というのです。「なるほど……」とまた教えられて、今度は排水口のいっせい点検を始めました。
 そうして翌年の八月四日、排水溝のコンクリートがボロボロにとけている現場を発見したのです。調べてみるとPH0・8という強烈な塩酸をタレ流している。日本アエロジル四日市工場という三菱金属直系の工場なのです。そしてこれを水産資源保護法、港則法で摘発することを決意したのです。塩酸のタレ流しは「水産資源に有害なものを投棄してはならない」という水産資源保護法に違反し、また港の中の船舶の航行の安全を守るための港則法に違反すると考えたのです。これは公害企業を刑事事件として摘発するわが国でもはじめてのケースでした。
 
海をみる目のちがい
 最初にこの塩酸摘発のため日本アエロジル工場に入っていったときは、本邦はじめてのこととあってさすがに緊張しました。
 ところが応接にでてきた工場幹部が、はじめは聞かれたことに何でも素直に答えるのです。ところが供述調書をだしてそれを記録しようとすると、びっくりぎょうてんして、「ここは天下の三菱ですよ。あなたがたは何かかんちがいしているんじゃないですか。いままで行政というものはわれわれといっしょに応接室でコーヒーを飲みながら仲よく会社の将来を心配してくれたものだ。それが行政というものだ。しかるにわれわれを犯罪者あつかいするとは何事ですか」といって怒るのです。話がまったくかみあわないのです。そしていっしょに排水口に行くと、
今度はしんみりした顔をして、「あなたがたは海の人だから化学を知らないのでしょう。私は化学の専門家だから教えてあげるけど、うちが流しているのは酸です。しかしそれを捨てているこの海はアルカリです。酸とアルカリがであうと、中和するんですよ。そんなことを知らないでこんなことをやっていると、大恥をかきますよ。参考書を貸してあげるから早く読んで、気がついたらおやめなさい。いまやめたら私はだれにもいわない。今日のことはなかったことにしてあげますよ」
といって、むしろ私たちのことを心配してくれているのです。そして次に重要なことをいったのです。
「あなたがたはどうしてそんなにムキになっているのですか。うちの流している排水は一日五百トンだけど、伊勢湾はあんなに広いじゃないですか。私にはあなたがたのムキになっている気持ちがわかりませんよ」  
 いろいろ話してみると彼は一人の人間としては人柄も善良なインテリなのです。しかし彼の目にうつるこの伊勢湾の海は、広々としたごみ捨て場にすぎない。
 一方、私たちがみるこの四日市の海は、年間七万隻ものタンカーが入ってくる海です。そのタンカーはいずれも船底からつきだしているパイプから海水を一秒の休みもなくくみあげてエンジンを冷却している。だからこのパイプから、捨てられた酸が吸入されると、エンジンの冷却水系統の部品がとけて故障してしまうのです。とくに巨大タンカーのエンジンが入港中に故障して、巨大な力で岸壁や桟橋に衝突する、そして外板が破損し積み荷の原油が大量に港内に流れ、そのガスがたちこめ、大爆発が起きる、そうなったら四日市港は大火災になります。昭和四十年の室蘭港のタンカー、ヘイムバード号の爆発もその一つです。
 そういうとき、私は、そのガスのたちこめる最前線で指揮をとらなければならない。爆発したら粉々です。そう考えると、四日市港の安全を守るためには、港に酸を捨てるということはきわめて危険なことなのです。そして港は実に貴重な水面なのです。
 このように、企業と私たちの間には、同じ海をみているのに決定的な違いがあります。その意識のゆがみを変えなければ、決して公害問題の解決にはならないことを痛感したのです。
 
硫酸の海ととまどい
 この事件の捜査を始めて二か月くらいたったころでした。夜、私の家に匿名の電話がかかっ
てきて、「あなたがたは一日五百トンの塩酸を取り締まっていますが、その裏に、毎日二十万トンと
いうけたちがいの硫酸をタレ流している石原産業があります」というのです。
 さっそく巡視船で石原産業の排水口の近くに行ってみると、そのコンクリートはボロボロにとけ、まっ赤な色をした硫酸水がどうどうと水しぶきをあげて港にそそいでいるのです。付近はドロッとした赤茶色で、えのぐをとかしたようなすさまじい色をしている。これがあらゆるものをとかしてしまう硫酸の海だと思うとゾッとしました。
 さっそく四日市の検察庁に行き、報告をし、この石原産業を摘発したいと申し出たところ、
検事が、親身になって、「君たちは二か月前に塩酸工場を摘発して全国に報道された。それなのに裏のこんな大企業が証拠文書を漫然とのこしているわけはないだろう。工場長が故意にタレ流しを指示したという裏付けも、また捨てられた硫酸の量もきちんとわりださねばならない。証拠がなかったら大変だぞ。それだけの自信があるのか」とアドバイスしてくれるのです。
 しかも考えてみると石原産業の社長、石原宏一郎氏は二・二六事件の黒幕で日本の右翼の総帥といわれ、終戦時、戦争裁判の戦犯にも指定され、また政商ナンバーワンとして吉田茂元首相の親友でもあったといいます。そして四日市では「石原天皇」といわれる大物です。しかも工場は二十万坪、従業員三千人の大工場です。だんだん私も弱気になっていきました。「とても無理だ。石原の摘発なんてやめよう。もうこの電話のことは忘れよう」と思ったのです。アエロジルの捜査でさえこんなに苦労し難航しているのに、石原産業は日本の無機化学のトップメーカーで、その規模もけたちがいです。しかも工場の全景をみても堂々たるその偉容は、四日市コンビナートの草分けというだけあって他を圧しています。その姿をみて、もうこの事件は忘れようと思いました。
 ところが海上保安部の窓を開けると目の前が石原産業なのです。その煙突がズラリとたちならんで、モクモクと煤煙をふきだしている。毎日忘れようとしても、どうしても忘れられない。
 当時はまだ日本の司法の手帳のなかに、公害発生の大企業が犯罪者だなどと、書いていなかった。自宅から毎日塩酸の捜査で行き帰りしているときも、私の官舎のすぐそばに四日市随一の料亭があって、そこで毎晩のように大宴会が行なわれているのです。ときには企業と行政がいっしょになって宴会をしているのが、みなれた車の番号からもわかるのです。その横を私たちは捜査書類をかかえ、疲れきって重い足をひきずりながら通ったものです。私た
ちはコンビナート企業と行政にかこまれ、まるでドンキホーテが竹やりで風車に向かっているような感じで実に孤立感が強かったのです。
 しかし日を経るにしたがって、私の心のなかに、少しずつ何か、抵抗がわいてきた。
 私たちが次々につかまえて罰金を科した漁民は、本来私たちの海の仲間です。あの大海原のなかで、水平線のかなたに一隻の船がみえる、双眼鏡でみると日本の漁船です。そして近づくと、皆デッキヘ上がって歓呼の声をあげるのです。怒濤のなかでお互いに生きぬいてき
た健闘をたたえあうのです。こういう海の男の連帯感がいかに強いか、陸の人にはわからない。そういう海の仲間を、被害者でありながら私はつかまえてきた。そして実は加害者である工場排水を放置したのです。この借りというのは、かならず返さなければいけないという思いが、静かに心のなかにわいてきたのです。
 さらにこの摘発の決意を決定的にしたものは、かつて怒濤のなかでぎりぎりの危険な状況に立たされたときの体験でした。

「鮮烈に生きたい」
 昭和四十年のある日、巡視船「ふじ」の船長をしていたときのことです。三陸沖で、猛烈な暴風雨にまきこまれた。船体は山のような大波のなかにつっこんで、まるで潜水艦のように水中に入って浮上しない。エンジンルームから伝声管を通して、「煙突から海水が入ってくる」という悲壮な叫び声です。船体は大角度に傾斜し、防水扉から海水が奔流となって船橋(ブリッジ)のなかにもそそぎこみ、なかはまるで洪水のように水びたしです。そしてせっかく浮上しかかったやさきに、また次の大波でたたかれてしまう。
 そうするうちに船が、かたむいたまま動かなくなってしまったのです。船体が、キーンというぶきみな振動音をたてる。そういうときがあぶないのです。「もうだめだな」と思う瞬間、操舵室のなかの乗組員は皆、船長の顔をみる。そのとき船長の表情に少しでも動揺や不安の色がみえると、船内は大混乱におちいってしまうのです。人間、死の危険に直面すると、人情として自分だけでも助かりたいということになってしまう。だから船長はあくまでもおちついて、自信にみちた顔をしていなければならない。ところが船長には乗組員以上にその危険性がはっきりとわかるのです。私はこのとき、「もう沈没だ。あの世に行くんだな」と直感した一瞬がありました。おそらく生死の境をこえるときはこんな状態でしょう。瞬間的にフーッと頭のなかが空白になって、自分の幼いころからの人生の一コマ一コマが走馬灯のようにあざやかにうかんできたのです。そのとき、胸をつきあげるように、「いままでは何と中途半端な人生だったことか。体をはって自分をかけたことが一度もなかった。こんな人生のままでは絶対に死にたくない」という生への未練が猛然とわきおこったのです。ハッと我にかえると、船がグーッと海面に浮上しているではありませんか。奇跡的に助かったのです。ことばにいいつくせない喜びが全身をつつみました。
 数時間後、母港に帰港すると、みなれたはずの港の景色が目にしみるようにとびこんできます。のんびり魚を釣っている人、のろのろ動いているバス、岸壁を歩いている人など、すべてが新鮮です。あの世に行ったはずの身がふたたび帰ってきてこの景色をみられた、生きかえったのだという感動です。そのとき、心深く、「これからの人生はおまけなんだ。一日一日を大切にかみしめ、味わいながら生きていこう。そしてこんど人生を終わるとき、二度とあの思いをしないよう、鮮烈に生きたい」という思いが心深く根づいたのです。その思いが、その後、私の人生に決定的な影響をあたえたのです。

部下の決意

 こういう思いがあざやかな回想となって心によみがえってきたとき、私はみちがえるようにすっきりした心境になれた。「そうだ、この瞬間だ。あの沈没の危機で味わった後悔を二度と味わいたくない。結果は問題じゃない。一歩ふみだそう」と決意したのです。
 そこへ部下の一人がやってきて、こういうのです。「課長、石原をやりましょう」
 そこで、「おまえたちも大変な苦労をするぞ」というと、「いままで船乗りだった私らが、公害捜査のおかげで本当にいろいろと社会のことを勉強させてもらいました。もう昔の私らじゃない。この事件と心中しても本望です」というのです。平凡な一人の海上保安官がこんなにも成長したのだと思うと、私は胸がいっぱいになりました。こうして私の気持ちはしっかりとかたまったのです。
 そして町にはそろそろ師走の雰囲気がながれる十二月十七日、おそろしくこがらしの寒い日でした。裁判所から押収捜索令状をもらい、十三人の部下とともに工場正門に立ったのです。工場の巨大な姿を目の前にして、私たちの心にはふしぎなほど緊張感がありませんでし
た。それは、ここにくるまで、何度も弱気になって自分に負けそうになりながら、心のなかでわずかにそれをのりこえることができた、そしてようやくこの正門にたどりついたという満足感があったような気がします。これから新しい第一歩が始まるのだという気持ちでした。

難航する捜査
 その日からたてつづけに石原産業の工場を三回、大阪本社を二回、東京支社を一回捜索し、約一千点にものぼる膨大な文書を押収したのです。
 ところが一方、生産工程と硫酸排出量のおりだしのほうは予想以上に難航しました。工場の建屋のなかは格納庫のように大きく、何十本というパイプが走っている。モーターが巨大なうなりをあげ、複雑な生産設備がぎっしりとならんでいる。そのなかを毎日はいずりまわって調べても、何一つわからないのです。私たちはへとへに疲れてしまいました。毎日何の収穫もなく帰ってくると、皆お茶を飲む元気もなくなったものです。
 こうして何の見通しもないまま苦しい捜査の日々がつづき、半年がすぎてしまったのです。検察庁からは矢の催促です。私たちはすっかり頭をかかえてしまいました。絶望状態になってしまったのです。
 ところが、このころからようやく信じられないような奇跡が起きたのです。工場の従業員が通りすがりに、そっとヒントを教えてくれるようになったのです。たとえば、「硫安工場に原料として廃酸をもちこんでいるから、あちらに行くとその量がはっきりわかるはずだよ」というような内容で、それが重要なカギになり、一年後には『生産工程と排出硫酸量の全貌』という報告書ができあがったのです。工場側がみてすっかりおどろいたくらいでした。
 どうしてこんなことが起きたのか、考えてみました。おそらく、私たちが半年間、泥だらけになって建屋のなかをはいずりまわっている姿を毎日みながら、彼らののなかに、「この連中、何か本気だなあ。この必死になっているのは何だろう。ひょっとしたら、うちの工場のタレ流しは問題があるんじゃないだろうか」という疑問がふくれあがってきたのではないでしょうか。とすれば、立場をこえて人の心を動かすものは、やはり無心の行動ではないだろうか。
 展望のない私たちの生産工程とのたたかいの日々が、いつのまにかこういう交流を生んだのです。いいかえれば反公害とは、人間の対決であると同時に、人間の交流だと思うのです。

田尻宗昭


【ぽぽんぷぐにゃん対談】小出裕章さんに田尻宗昭さんの事を聞く。

http://youtu.be/cL_SWPA3QcI
田尻宗昭 公害企業摘発の決意(日本ペンクラブ)
「羅針盤のない歩み―現場に立って考える」田尻宗昭 著 東研出版
「四日市・死の海と闘う」田尻宗昭 著 岩波書店
「公害摘発最前線」田尻宗昭 著 岩波書店
<福島健康調査>「秘密会」で見解すり合わせ(毎日新聞)
<原発事故との関係否定>甲状腺がん検査で子ども1人確認(毎日新聞)
原発事故の健康管理、検討会議の前に「準備会」(読売新聞)
検討委の前に事前会合=県民健康管理調査で―シナリオ作り批判も・福島県(時事通信)


京大・小出裕章助教 田中正造と自身の経験重ね 佐野で講演会(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20120930/CK2012093002000143.html
$私にとって人間的なもので無縁なものはない
用意された田中正造の写真を横に熱っぽく話す小出裕章さん=佐野市文化会館で

 足尾鉱毒事件に半生をささげた政治家田中正造(一八四一~一九一三年)を広く知らせる催し「アースデイ田中正造」が二十九日、出身地の佐野市文化会館で開かれた。京都大原子炉実験所助教で、原発の危険性を訴え続けている小出裕章さん(63)が、「正造さんと原子力」と題して講演した。 (稲垣太郎)
 来年の正造没後百年を前に、市民レベルで正造を顕彰しようと結成した「田中正造没後百年記念事業を進める会」が主催。正造を「最も敬愛する」という小出さんを講師に招いた。
 小出さんは水俣病などの四大公害が起きたころに大学に通い、「それよりずっと前の日本に公害と呼ばれるようなものがあったことを知った」と足尾鉱毒事件や正造との「出会い」を語った。
 「正造さんが生きていた時代に原子力はなかったが、私はずっと原子力の場で生きてきた。いつも私の心の支えになってくれたのが正造さんでした」。鉱毒被害と果敢に戦った正造と、原子力の危険性と常に隣り合わせで生きてきた自身を重ね合わせた。
 東京電力福島第一原発事故にも触れ、国が放射能や放射線などに関する「法律を守れなくなり、自分(国家)が決めた法律の一切をほごにした」と指摘。「正造さんが生きていた時代もひどい国だったが、これほどひどい国だとあらためて思った」と述べた。
 正造の「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず」の言葉を挙げ、「正造さんの教えが今、私たちを導いてくれる最大のよりどころになっていると思う」と締めくくった。
 放射線から子どもを守るため福島県白河市から佐野市に移り住んだという主婦(37)は、「すごく分かりやすく田中正造さんのことや原発事故の被害のことを話してくれた。正造さんのことを学ぶ必要があると思った」と話した。
 
小出裕章講演会「正造さんと原子力」

http://youtu.be/1lOD4IEW-bQ
2012年9月29日(土)に行われた田中正造没後100年記念事業「アースデイ田中正造」京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏の講演の一部です。

アースデイ田中正造@小出先生講演会1
http://www.ustream.tv/recorded/25783384

アースデイ田中正造@小出先生講演会2
http://www.ustream.tv/recorded/25784543

アースデイ田中正造@小出先生講演会3
http://www.ustream.tv/recorded/25784721




廃棄物燃却灰保管に黄色信号 「基準値超え」搬出できず 容量を圧迫(福島民報)
http://www.minpo.jp/news/detail/201210044023
$私にとって人間的なもので無縁なものはない 東京電力福島第一原発事故に伴い、ごみの焼却灰がたまり続けている問題で、国が処分する放射性物質が一キロ当たり8000ベクレル超の焼却灰の搬入先が一向に決まらず、保管している市町村の最終処分場の容量を圧迫している。市町村が処分する8000ベクレル以下についても、住民の理解が得られないなどの理由で、埋め立てよりもスペースを取る一時保管の形を取らざるを得ないのが現状だ。関係者は「このままでは数年で満杯になる」と悲鳴を上げる。

■危機感  
 福島市松川町にある福島市の一般廃棄物最終処分場「金沢第二埋立処分場」。「フレコンバッグ」と呼ばれる袋に詰めたり、シートにくるんだりした焼却灰が次々と運び込まれる。
 1キロ当たり8000ベクレルの基準値以下であれば、埋め立てが可能だが、周辺住民の理解が得られず、あくまで一時保管の形だ。場内では、基準値以下と、国が処分する基準値超の焼却灰を分けて搬入している。発生する焼却灰のうち半分程度は、焼却の際に出る煙をフィルターで処理した後に残る「飛灰」を含んでいる。「飛灰」には放射性物質が濃縮されており、基準値を超えるケースが多いという。
 他の廃棄物と隔離するため、約50センチの厚さに土を敷いてから運び込み、その上にまた土をかぶせる。通常の埋め立てに比べ、2割程度、余計にスペースを取る。
 市は震災前、焼却灰の3分の2程度を砂状に加工し、民間に路盤材として販売し、再利用していた。しかし、原発事故で販売できなくなった。焼却灰は1日約45トン発生しており、処分場の容量圧迫に拍車が掛かる。
 今年3月末時点で、総容量約60万立方メートルのうち、埋め立て可能な残余容量は2割程度あり、市は12年は埋め立て可能と見込んでいた。しかし、現在のペースで運び込まれれば、半分の6年程度で満杯になるという。
 県内のある広域組合では、既存の最終処分場が満杯になるのを控え、震災前から新たな処分場建設の検討に入っていた。しかし、原発事故による放射性物質の問題で、処分場新設への理解を求めるのは難しい状況で、計画を進められずにいる。担当者は「このままでは家庭ごみを焼却できなくなる」と危機感を募らせる。

■場内に混在
 「基準にかかわらず、全て国に持っていってもらうしかない」。二本松、本宮、大玉の3市村でつくる安達地方広域行政組合の関係者は強調する。
 組合は1キロ当たり8000ベクレルの基準値以下と基準値超の焼却灰を分別せずに最終処分場に一時保管している。今後、国が基準値超の焼却灰の処分に乗り出したとしても、焼却灰入りのフレコンバッグを一つ一つ放射性物質検査し、基準値超の焼却灰をえり分けるのはほぼ不可能だ。膨大な費用も掛かる。組合は「少しでも放射性物質が含まれている以上、焼却灰は全て国が処分すべき」と訴える。
 須賀川、鏡石、天栄の3市町村でつくる須賀川地方保健環境組合は住民理解を得ながら、基準値以下の焼却灰を最終処分場に埋め立てて、基準値超の分だけを一時保管している。しかし、国が基準値以下でも処分するように方針転換した場合に備え、いつでも掘り起こせるよう、分離して埋め立てている。

■見通し立たず
 国は先月、1キロ当たり8000ベクレル超、10万ベクレル以下の焼却灰などを富岡町の民間の産業廃棄物処分場で埋め立て処分する方針を示した。だが、受け入れ側の富岡町との間で協議にすら入れていないのが現状だ。「今後の見通しも立っていない」(環境省)という。
 一時保管の量が増える中、県は廃棄物処理法に基づき策定している一般廃棄物処理計画を、計画期限の27年度を待たずに見直しも視野に入れている。
 県は国に対し、1キロ当たり8000ベクレル超の焼却灰を早急に処分することを申し入れている。一方、基準値以下の焼却灰の埋め立て処分に向け、住民の理解を得るために専門家を派遣するなど市町村を支援する方針だ。
背景
 家庭ごみなどの一般廃棄物は通常は市町村の責任で処分するが、原発事故に伴う特措法で焼却灰の放射性物質が1キロ当たり8000ベクレルの基準値を超えた場合は「指定廃棄物」として国が処分することになった。基準値以下は市町村が埋め立てできるが、会津地方や県南地方の一部などを除き県内の多くの自治体で、最終処分場周辺の住民に配慮するなどの理由から埋め立てず、いずれは持ち出すことが前提の一時保管の形を取っている。国は10万ベクレル以下は管理型の最終処分場で10万ベクレルを超えた場合は中間貯蔵施設で処分するとしている。一般廃棄物の焼却灰で現在まで10万ベクレルを超えるケースは出ていない。
 

鉄骨落下 福島第一原発
3号機のクレーンは 500m先から遠隔操作!(現代ビジネス)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33715
$私にとって人間的なもので無縁なものはない
8月から、放射性物質の拡散を防ぐ灰色のカバーの設置が進められている3号機。2台のクレーンなど10台の重機が遠隔操作で瓦礫を撤去しているが、その正確性には疑問の声も〔PHOTO〕桐島 瞬

 またもや福島第一原発で、とんでもない事故が起きた。9月22日の午前11時過ぎ、3号機原子炉建屋上部の瓦礫の撤去作業中に、クレーン車が長さ7m、重さ約470kgの鉄骨を掴もうとしたところ失敗。この巨大な鉄骨を、使用済み核燃料の貯蔵プールに落としてしまったのだ。この事故の発生時、3号機近くで仕事をしていた作業員の一人が語る。

「クレーンなどを使った3号機の瓦礫撤去作業は、すべて遠隔操作です。500mほど離れた遠隔監視室と呼ばれる部屋で、ゼネコンの『鹿島』の作業員らが操作しています。3号機の瓦礫の線量は高いものだと毎時1000ミリシーベルト以上もあり、人間では撤去できない。だから、無人の重機を遠隔操作しているのです」

 だが以前から、遠隔操作では事故が起きるのではないかと危惧されていたという。前出の作業員が続ける。

「作業員たちの間で『500mも離れた部屋のモニター映像だけで正確な操作はできないだろう』と、話し合っていたんです。今回の事故も、現場で人が重機を操っていればまず起きない重大なミス。平常時でも物を落とせば、数百万円を払って専門のダイバーに落下物を処理してもらわなければならないほど貯蔵プールは危険な場所なんですから。せめて実際に作業現場が見える場所に合図者がいて指示を出さないと、重機のコントロールは難しい。今後はもっと大きなトラブルが起きないかと、とても不安です」

 3号機のプールには使用済みのもの514本、未使用のもの52本、合わせて566本の核燃料棒が貯蔵されている。重さ470kgもの鉄骨が燃料棒を直撃していたら、とんでもない事態に発展していたかもしれない。京都大学原子炉実験所の小出裕章助教が警鐘を鳴らす。
 
「燃料プールを安全な状態にするには、燃料棒を取り出して別の場所に保管しなければなりません。そのためにまず周辺の瓦礫を完全に撤去して、1本1本慎重に取り出さなければならない。作業が終わるまでに、10年はかかると思います。その間ずっと、プール内の燃料棒は今回のような事故により破損する危機に晒されるのです。無人重機の遠隔操作にしろ、燃料棒の大量取り出しにしろ、福島原発ではこれまでに人類が体験したことのない作業が行われています。今後も、想定外の事故が起きてもおかしくありません」

 しかし東京電力に危機感は薄い。

「核燃料には損傷は確認されておりません。プールの中には他にも落下物があるので、それらと一緒に鉄骨も工程通り '13 年中に除去する予定です。今回の事故の原因は現在追究中なので、真相が解明次第、再発防止策を考えます」(広報室)

 未曾有の原発事故から1年半余り。決して事故が終結したわけではない。福島原発には、いまだに数千本の核燃料棒がある。対応を誤れば、再び大惨事が起きかねないのだ。

「フライデー」2012年10月12日号より



「原発をまた爆発させないために」 (秋場龍一)
http://akiba1.blogspot.jp/2012/10/blog-post_1438.html
出版記念イベントへのメッセージ「原発をまた爆発させないために」

原発問題に無関心であればあるほど、この問題はどんどん大きくふくらみます。そして、ふくらんでふくらんで、ついに爆発したのが昨年3月に起きた、一連の福島第一原発の爆発です。

原発が爆発して、天文学的な量の放射性物質がぼくたちの生活環境、それに海や山に降り注ぎました。みんなびっくりして、この原発問題に関心を寄せ始め、抗議デモは数万、数十万もの人が集まるようになりました。このまま原発問題に無関心でいたら、問題は大きくふくらんで、また爆発するのではとみんな怖れたからです。

そんな、みんなの「原発はいらない」「再稼働反対」の声に、野田政権は2030年代には原発をゼロにすると決めかけたものの、原発利権の甘い汁をまだ吸いたい日本の大企業やアメリカ政府の反対などで、それをうやむやにしました。

そのあげく、大間原発の建設開始決定や、来春には伊方原発3号機を手始めとした本格的な再稼働をたくらんでいます。また東北・関東各県での放射性廃棄物最終処分場、北九州市をはじめとするガレキ処分など、原発と放射能と被曝をめぐる問題は日増しに、身近な問題として無関心の人にも迫ってきます。

そう、いったんしぼみ始めたかに見えた、この原発問題は、またどんどんふくらみ始めました。このままいくと、ふくらんでふくらんで、またまたドッカーンと爆発するでしょう。

爆発をふせぐには、関心をもつこと、抗議の声をあげること、これに尽きます。具体的には、毎週、金曜日におこなわれている首相官邸前を始め、全国各地での抗議行動をずっとつづけること。

そして、来る11月11日に東京中枢で開催される100万人の反原発デモを成功させることです。ぼくたちのこれからの合言葉は「11.11反原発100万人大占拠に全国から集まろう!」です。

愛があるなら、関心をもつこと。関心をもてば、愛がふくらむ。愛がふくらめば、原発問題はしぼむ。ぼくはこころからそう思います。

この場にいらっしゃるみなさんに、愛をこめて。秋場龍一。


20121005 UPLAN ふくしま集団疎開裁判 財務省上集会

http://youtu.be/jHPLozbeXvE
2012年10月1日、ふくしま集団疎開裁判の控訴審は、仙台高等裁判所で第二回目の審尋がおこなわれ、多数が支援に駆けつけた(審尋第三回目は11月)。その成果報告を-含めた金曜日抗議行動は文科省前(撮影せず)と財務省前。 この日は車いすの山本太郎氏がスピーチを行い、また京都大学原子力研究所の小出裕章助教からは電話メッセージが届いて、官邸前集会の帰路にある人々の足を留めた。
こどもたちをモルモットにした人体実験という戦慄すべき深刻な事態が福島で進展している。私たちには二つの選択肢しか許されていない。傍観して集団殺戮の共犯者となるか、-それとも巨大な原子力帝国に抵抗して闘うか。一人ひとりが自らの人生と人間性を賭して考え、問いかけそして選択していかなくてはならない。


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大滝秀治さん死去 「普通」が一番難しい【放送芸能】(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2012100602000126.html
 二日に亡くなった俳優の大滝秀治さんは、演劇、映画、ドラマと幅広く活躍してきたが、映画では伊丹十三監督の「お葬式」(1984年)など多くの名作に出演。遺作となった「あなたへ」(東宝配給、公開中)の降旗康男監督は「高倉健さん主演の映画にはよく出ていただき、アクセントになる演技をしていただいた」と述べ、その秀逸な演技力をたたえた。 (小田克也)
 「あなたへ」は、主人公の倉島(高倉)が故郷・長崎の海に散骨してほしいという妻の遺志を後で知り、旅に出る話。倉島は、大滝さん演じる船頭の大浦吾郎に、散骨のため船を出してほしいと頼むが「他をあたってくれ」と断られる。
 大浦は、倉島が散骨を迷っているのを一瞬で見抜くが、その後、決意したと分かると「明日は海も静かになるだろう」と、引き受ける。
 主人公の心の移り変わりを浮き彫りにする演技で、降旗監督のいうアクセントが表れる。大浦の孫を演じた三浦貴大は「現場に入れば、真摯(しんし)に厳しく自分の役に向かっていく姿に、役者として大切なものを学ばせていただきました」と、共演の印象を語っている。
 大滝さんは「役者の芝居っていうのは一番難しいのは普通にやることですね。普通にやるためには、よっぽどぎっしりつまっていないと。だから高倉さんには非常になるほどと思って感動しております」と述べ、共演の高倉を称賛するが、自らも普通に演じつつ、見る者にインパクトを与えてきた。
 それはむろん、この作品に限らない。映画では、市川崑監督の金田一耕助シリーズをはじめ黒沢明、深作欣二、野村芳太郎ら日本を代表する監督の作品に多数出演してきたが、中でも伊丹監督の「お葬式」の伯父役は印象的。飄々(ひょうひょう)としながら癖のある演技で、その後も「タンポポ」(85年)など伊丹作品には欠かせぬ存在となった。
 最近では小林政広監督の「春との旅」(2010年)で仲代達矢と共演。年老いた男(仲代)が孫娘と、面倒を見てくれる所を探す話だが、冷たくあしらう兄の役を好演した。
 「あなたへ」を撮り終えた大滝さんは「今とっても疲れていて、心臓の鼓動がズッズッて突き破るくらい興奮してるものですから、それぐらいの仕事ができることは運がいいといいましょうか」と語っている。
 入院中の大滝さんと手紙をやりとりしてきた高倉は、訃報を知り「最後の仕事の相手を務めさせていただき感謝しております。素晴らしい先輩でした」との談話を出した。
 「あなたへ」では、散骨を終えて港に戻ってきたところで、大浦が「久しぶりにきれいな海ば見た」と、つぶやく場面がある。そのせりふを聞いたとき、高倉は思わず涙がこぼれたと回想している。
◆劇団民芸「24時間、芝居人間」
 大滝秀治さんが代表の劇団民芸は五日、東京・新宿の紀伊国屋サザンシアターでの終演後に記者会見を行った。会見には、同劇団の樫山文枝、日色ともゑ、中地美佐子、大滝さんの長女の夫で、最後となった昨年の舞台の演出家・山下悟さんが出席、「情熱の炎のような人でした」と、最後まで舞台に立ちたがっていた大滝さんを悼んだ。
 家族とともにみとった山下さんは「大きく息を三回くらい吸って、そのまま息を引き取ってしまった。炎がぽわっと消えていくという感じでした。舞台を取ってしまうと抜け殻になってしまうような人。台本を抱えたまま逝っちゃいましたから」と最期の様子を語った。
 樫山は「いつも一番早く楽屋に来て、せりふをブツブツ言ってらっしゃった。芝居のことを考えると目がランランと輝いていた」。
 父娘を演じることが多かった日色は「『おとっつぁん、そそっかしく逝っちゃったのね』って感じです」と突然の死を悲しんだ。
 最後の舞台で共演した中地は「二十四時間お芝居のことを考えている方で、私たちにも『寝てる時も考えろ』っておっしゃっていた」と振り返った。
 山下さんによると、「俳優として痩せた姿を見せたくない」との家族の思いで五日に二十人ほどで密葬を済ませた。 (宮崎美紀子)


通販生活 2011年秋冬号 巻頭特集「原発国民投票」

http://youtu.be/-PHunKfcCP8

ご冥福をお祈りします・・(;_;)

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一人です、二人です、三人です。( ゚д゚)ハッ!その二へつづく