きょうの特集④震災から3年④震災遺構「保存」に割れる声 | pooh-blog

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震災から3年

震災遺構「保存」割れる声

 東日本大震災の津波で破壊され、被災の記憶や教訓を伝える「震災遺構」が岩手、宮城、福島3県の13市町村で24件あり、このうち8市町村の16件で保存が決定したか、保存の方向で検討していることがわかりました。自治体の大半は保存の理由として「震災を語り継ぎ、防災意識を醸成するため」としている。

13市町村に24件
 調査は「ある」と答えたのは岩手県が宮古、大船渡、陸前高田、大槌、田野畑の5市町村11件▽宮城県が仙台、塩釜、岩沼、東松島、南三陸、山元、女川の7市町12件▽福島県が浪江町1件。うち宮古の「たろう観光ホテル」や陸前高田の「奇跡の一本松」、塩釜の「寒風沢の津波石」など3市8件の保存が決定。大船渡の「茶々丸パークの時計塔」や大槌の「旧役場庁舎」、田野畑の「三陸鉄道島越(しまのこし)駅の階段と宮沢賢治詩碑」、女川の「旧女川交番」など5市町村8件が保存の方向で検討されている。一方で解体が決まったのは、女川の「江島共済会館」「女川サプリメント」、南三陸の「防災対策庁舎」の2町3件だった。解体の理由については、「復興事業の支障となるため」としている。
 仙台、岩沼、山元、浪江の4市町5件は対応が決まっていない。すでに解体されたのは大槌町の民宿屋上に乗り上げた「観光船はまゆり」。落下の恐れがあるとして所有者の釜石市が解体したが、町は犠牲者の鎮魂などの理由から寄付を募って復元を目指している。
 遺構が「ない」と回答した中でも宮城県気仙沼、石巻、名取、福島県南相馬、いわきの5市は「震災遺構とするか調査検討中」としており、今後遺構が増える可能性もある。

岩手、宮城、福島3県の沿岸13市町村に24件あることが判明した東日本大震災の「震災遺構」。うち6割超が保存の方向となっているが、住民の意見は「後世に伝えていくべきだ」「思い出すから見たくない」と保存と解体に割れている。原発事故の影響で住民の帰還がままならない福島県内の自治体では、震災遺構にまで手が回らないのが実情だ。
止まった時計「教訓」
 岩手県大船渡市は、「茶々丸パークの時計塔」「吉浜(よしはま)の津波石」を保存する方向で検討している。「決して人ごとではないということを広く知ってもらえる契機にしてほしい」。保存の背景には住民らの切実な願いが込められている。大船渡駅前の茶屋前地区にひっそりと建つ大時計。津波の襲来を受け「3時25分」で時を刻むのを止めたままだ。住民らによると、この一体は商店が立ち並び、活気にあふれていた。大時計の周りはちょっとした広場で、ベンチも置かれていたという。近くで衣料品店を経営していた男性(73)は「憩いの場になっていた」と振り返る。
 だが、街は軒並み津波にのみ込まれ、壊れた大時計を残すだけとなった。男性も自宅を兼ねていた店舗を失った。昭和35年のチリ地震津波でも店を失い、今回で2度目の被災。現在は万一に備え、高台に置いていた倉庫で妻と暮らし、時折、大時計の周辺を確かめに訪れているという。
 男性は「見たくない人もいるかもしれないし、保存の方法は考えなければならないかもしれないが、だれの身にも降りかかるということを知る教訓に活用してほしい」と語る。
 大船渡市によると、大時計を含む広場は、直接の被災者がいないことなどから反対意見はなく、「震災の記憶を残してほしい」などとする住民の要望で保存の方向で検討しているという。

津波の威力が分かる石」
 「キッピンのアワビ」で有名な吉浜地区。「津波記念石」と呼ばれる重さ約30トンに上る巨大石も、同じ理由で残す方向で検討されている。昭和8年の昭和三陸大津波で200メートル離れた海側から打ち上げられた。
 経緯などが彫られて置かれていたが、昭和50年代の道路工事で地中に埋められた。今回の津波で一部が露出、数十年ぶりに掘り起こされた。昭和の大津波も経験したという●木沢(はのきざわ)正雄さん(84)は「津波の威力が分かる貴重な石だ」と説明する。
 吉浜地区では、明治の大津波で住民の約2割を失ったことから、これ以上、海側の低地には住まないという水準点を設け、忠実に守り続け、今回の津波では被害は比較的少なかった。●木沢さんは「戒めは守らなければならない。今回の津波で、自然に勝てないことを学んだ。記念石も教訓にすべきだ」と語る。同市は大時計や記念石を防災教育に役立てたい考えだ。

「思い出す」…薬局解体
 宮城県女川町は、津波で横倒しになった3つの建物のうち「旧女川交番」のみ保存を決め、薬局「女川サプリメント」の解体を始めた。離島の江島(えのしま)住民の宿泊施設「江島共済会館」も撤去が予定される。保存か解体か。護岸工事や復興後のまちづくりデザインが判断の分かれ目となった。
 「女川サプリメント」は、昭和42年ごろ建てられたとされる。4階建ての1階部分で薬などが販売されていた。建物内部に乗用車が突っ込んだままで、津波の威力を物語る。店主の男性は震災後に土地を町に売り、県外へ引っ越した。「政府が早く支援の方向性を示していれば、結論は違っていたのでは」。町内の仮設住宅に暮らす主婦(52)はやりきれない表情を浮かべる。友人を津波で失い、教訓として3つの遺構の保存を訴えてきた。
 町立女川中の生徒たちも「このままでは記憶は風化してしまう。千年後まで伝えたい」との思いを強め、平成24年11月、3つの遺構の保存を町に提言した。だが、生徒らが行った町民約400人を対象にしたアンケートでは、半数以上が解体を望んでいた。
「震災を思い出す」「維持費がかかる」という理由だった。
 住民の意見が割れる中、町は「女川サプリメント」について、岸壁ぎりぎりにあり護岸工事の支障になるとして、解体を始めた。「江島共済会館」は将来的に国道398号のルートと重なるため、今秋までに撤去することを決めた。
 「旧女川交番」は所在地が2、3年後にかさ上げされ、公園に整備される案が浮上、そのまま保存されるという。町の担当者は「活用方法を考える時間の余裕があることが保存の決め手といえる。町民の思いを後世に残す施設にしたい」と話している。
除染優先 手が回らない
 福島県内では、浪江町が唯一、震災遺構があると回答し、津波に見舞われた町立請戸(うけど)小学校を挙げた。ただ、東京電力福島第1原発事故の影響で町は放射性物質の除染などに追われ、同小を保存するか解体するかの検討にも入れていない。請戸小は平成10年3月に建てられた。震災当時は91人の児童が在籍、人的被害はなかったが校舎は2階まで浸水、1階は損壊した。
 町のまちづくり計画検討部会ではメンバーから「津波の教訓を後世に伝えていくためにも保存が必要では」との意見も出た。しかし、町内は依然として避難指示区域に指定されており、除染を優先している。
 町では再び住民が暮らせるようにするための事業が山積しており、担当者は「住民は落ち着いた生活を送るためにどうすればいいか悩んでいる。震災遺構のことまで考えられないのでは」と話している。
保存意向も維持費の壁
 財政的な問題から、保存の可否を慎重に検討せざるを得ない自治体もある。岩手県田野畑村は、明戸地区の防潮堤▽三陸鉄道島越駅の階段と宮沢賢治詩碑▽羅賀地区の津波石-の3件の震災遺構を保存したい意向だが、「小さい自治体なので、維持費を通常の財源から捻出するのは難しい」(担当者)という。入場料などを徴収して維持費に当てることを検討している自治体もあるが、同村の遺構は防潮堤や石碑などのため、入場料などでの収入は見込めない。村は「維持費を算出中で、現実的に維持管理が可能かどうか慎重に吟味している」としている。
 一方、一度は解体を決定したものの着手できないままになっている自治体もある。政府が昨年11月、被災市町村で1カ所ずつを対象に、震災遺構の保存の初期費用を負担する方針を表明。これを受け、宮城県が各地の遺構の保存を議論する有識者会議を設置した。有識者会議は来年3月までに結論を出す予定で、復興事業の支障になるとして防災対策庁舎を昨年末までに解体することを決定していた同県南三陸町は、「国や県の新方針で解体できなくなった。会議の動向を注視しているが、
『解体決定』の結論は変わらない」としている。