埼玉の武将!太田資正 | かつぼうさんのブログ

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埼玉には名将はいたのか?


埼玉県内にも多くの戦国時代好きがいると思いますが、これ(↑)を考えた事がある人はあまりいないのでは?と思います。

鉢形城主の北条氏邦公?確かに氏邦公は知勇兼備の名将です。関東に進出してきた織田信長軍の先鋒を担った滝川一益を追い返す等爆弾、奮闘しました。ですが、北条氏自体が相模国出身。「埼玉の名将」とは言いがたい気がします。

忍城主の成田氏長公?豊臣vs北条の戦で、配下の家臣が守った忍城での奮戦は有名です。今年、映画にもなります映画(のぼうの城)。ですが氏長公本人は小田原城にいて、忍城で豊臣軍とは戦ってはいませんでした。

河越城(もちろん川越城の事)を築城した「 太田道潅 」公は超有名ですが、江戸城を築城した事の方が有名ですし、日暮里駅前に立派な銅像があるし、神奈川県伊勢原市では毎年秋に「道潅祭り」という祭りを開催します(道潅公は伊勢原で暗殺されたので)。太田家の菩提寺である芳林寺(岩槻区)にも立派な騎馬姿の道潅公の銅像があるそうなのですが、↑の理由で「埼玉の名将」って感じではありません。


私も、「埼玉の名将」を数年前に色々探しました。そして、一人見つけたのです!それが、今回紹介する『 太田資正(おおた・すけまさ) 』公です。って、前置きが長過ぎたかな?


太田資正公は、上にも書いた太田道潅公の弟の孫(異説あり)です。「資正」と言うより、『 三楽斎 』という別名での方が知られているかもしれません。日本三大夜戦の一つである河越夜戦(1546年)で主君・上杉朝定が北条氏康に敗れ戦死すると、松山城(東松山市内ではなく吉見町内にある)や岩槻城で主君の仇・北条に抵抗し続けました。

ですが、当時は関東地方は北条氏の天下。上杉謙信公が一時的に関東地方を支配下におき小田原城を攻めたりはしましたが、ご存知の通り小田原城は天下の名城グッド!。攻めあぐねて結局謙信公が越後に引き返すと、再び関東地方は北条氏が支配するといった感じでした。

資正公は、家臣や息子である氏資にまで裏切られ叫び居城だった岩槻城を追い出されます。やはり「強いものには巻かれろ」という考えでしょう。誰がどう見ても関東No.1の北条氏には、逆らうより臣従した方が得と思ったとしても仕方がない。

そんな中、資正公は北条氏に逆らい続けたのです。生涯の「戦の勝率」は、決して高くありませんでした。ってゆーか、はっきり言っちゃうと「戦っては負け」です。でも最後まで強い者に抵抗する反骨の姿勢には、資正公の「 美学 」を感じます。ただのへそ曲がりだったとは、決して言ってはいけません!

もっとこの「反骨」の話が有名ならね。当時、関東に住んでいた人々に、「ハンコツ王子」(ハンカチ王子にひっかけて)って呼ばれてたかもね。ハイハイ、「あの本」のネタのパクりですよ、どーもスイマセンむっ

岩槻を追い出された後は常陸国の大名・佐竹義重公を頼り、片野城(茨城県石岡市)を任されました。資正公はそこを拠点として、その後も北条氏と戦い続けました。1590年、豊臣秀吉公が小田原北条氏を攻めた時に豊臣軍に参加、北条氏の滅亡を見た翌年に念願の岩槻城帰参は叶わず享年68歳で亡くなりました。自分が抵抗し続けた北条氏が滅亡するのを目の当たりにした時、資正公はどう感じたのでしょうかね


さて、資正公と埼玉との結びつきですが、松山城や岩槻城の城主だったのは↑でも触れましたが、他に資正公の正妻は難波田憲重公の娘です。難波田氏はやはり上杉朝定公の家臣で、埼玉県富士見市に難波田城跡があります。結構整備されている、良い城跡ですよ。


また、上にも書いた忍城主・成田氏長公ですが、彼の正妻は資正公の娘です。後に豊臣秀吉公の側室となった、有名な甲斐姫お姫様は氏長公の娘。甲斐姫の本当の母親は資正公の娘ではないのですが、資正公の娘に厳しく育てられたので甲斐姫は女だてらに武芸に秀でていた刀のだそうです。言い伝えによると、忍城下の農民の奥さんに暴行した武士を甲斐姫自らが成敗した事もあったのだとか!この辺の気の強さも、さすが資正公の娘に育てられたといった感じです。この辺は、忍城を舞台にした映画「のぼうの城」の公開が楽しみです。


それともう一つ、息子の一人である潮田資忠(うしおだ・すけただ)公は、寿能城主です。「寿能?どっかで聞いた名だな?」と思ったあなた!それは正しい!寿能城は、大宮区寿能町にあります。そう、ナクスタのすぐそばですよ。大和田公園野球場の少しナクスタ寄りの住宅地の中に小さい公園(寿能公園)があります。そこが、寿能城の本丸跡地です。