東洋のマチュピチュとついに遭遇!~子供と楽しむあかがねのまち~
足止めを経て、予定よりも30分近く遅れで無事ガイドさん&観光課の方と対面
(お待たせしてすみませんでした)
待ち合わせた場所はマイントピア別子の東平エリア。
このマイントピア別子というのは、日本三大銅山のひとつ、「別子銅山」の跡地全般を利用した施設。
銅山跡は、端出場(はでば)エリアと東平(とうなる)エリア複数ヶ所に別れており、まずは東平エリアの方から見学!
別子銅山の代名詞ともいえる「東洋のマチュピチュ」はこちらの東平エリアにあります
もうひとつの端出場エリアも山道を越えて行かねばいけないのですが、東平エリアの方は更に、更に山奥へ行かねばいけません。
標高750mのところにあり、冬期は通行禁止にもなるようで、まさに秘境の地
でも、今は秘境の地とも言える場所が、炭鉱の時代には5000人以上の人が暮らしていた鉱山町でこの地に小学校や社宅もあったそうです。
(今は小学校跡は少年の家として生まれ変わり、社宅跡は石垣が残されています)
銅山としての歴史は古く、まだまだ江戸時代の真っただ中1600年代後半に遡ります。
別子銅山を発見、採掘を行ったのが現在も大企業として名を馳せ、当時の最大規模の財閥である住友。
住友は市民と共存共栄を大事にしていたそうで、例えばこちら。
明治35年ころつくられたトンネルです。
東平~第三通洞へ、さらには別子側の日浦までを結ぶ電車があり、その道中でここを通りました。
本来の目的は鉱石を運ぶのに使われていたのですが、住友が市民の往来でも使えるようにと(しかもタダで←これ相当すごいことらしい)取り計らったそうです。
貴重な市民の足だったのは想像に容易いですね
この市民をのせたかご電車は閉山の昭和48年まで運行されていました。
現在もこのトンネル(小マンプ)内に当時のかご電車などの展示がされています。
(あれ、ブレてる・・・)
そしてそして
こちらが「東洋のマチュピチュ」
写真よりも実物の方がイイ感じです(表現力・・・)
神秘的・幻想的な雰囲気に包まれています。
現在でこそ、幻想的な場所として名高いこの場所ですが、当時のお役目は選鉱場。
トロッコ列車がここまで石と鉱石がまざったものを運んできて、ここでより分けていたそうです
ところでより分けた鉱石をどうやって下界まで運んでいたか。
なんと、鉱石の自重だけで下ろしていたそうです
鉱石を積み下ろして、空になったら、今度は生活物資を入れて、また登らせたそう。
上り下りは連動していて、片方が上がれば片方が下がる仕組みになっていたそうです。
このスタイルは閉山まで続けられました。
なんというか・・・エコすぎるでしょ
(だから表現力)
(その仕組みが使われていたインクライン跡)
ガイドさんに付きっきりで説明いただき、貧相な脳みそでも、当時の背景を感じ取ることが出来、神秘的なだけでなく大変興味深い場所でした
いち早く走っていた鉄道もドイツ製のものだったり、ドイツ人の学識者からの技術が使われていたりと開国して数十年でめざましい発展をとげた場所だったんだなぁ、と。
更には、閉山してまた半世紀くらいですが、この別子銅山は色々な跡は残りつつも自然に帰っていっています。
それはこの山自体も緑を取り戻している、という事にもなります。
閉山当時、木材は銅を溶かす作業に使用するため、ほとんど使ってしまってハゲ山になってしまったそうです。
それを現在の住友林業が1億本以上の植林をし、山も本来の姿を取り戻すことが出来ました。
電力に関しても、住友は大正8年から電力会社を持ち、水力発電で電気をおこして鉱山で利用したり、今現在もこの電力を使っているそうで・・・
なんというか、
まとめると・・・
住 友 神 。
大金持ちなら全力で株買います、って勢いです。
まさか銅山きて住友のファンになるとはねwww
住友グループの偉大さに胸を打たれつつ、下山して今度はマイントピア別子・端出場エリアへ。
(鉱石を運んでいた先の方です)
※ガイドさんの説明を一生懸命ひろってまとめたつもりですが、理解が浅く意味を取り違えていたりする場合もありますのでご了承ください。。。
また、この記事の説明はめっちゃさわりだけです
もっともっと奥深い場所なのでご興味のある方は是非現地で感じてみてください