「赤ちゃん」の進化学

西原克成著

 

さて、米国生まれの「歯科学」では、江戸時代の口中医のように、口の病気すべてを治療できないことに、早々に気づいた学者がいた。ドイツで学問をおさめ、明治の早い時期に、お雇い外国人に替って、日本人で解剖学者になった小金井は、系統発生学と形態学を修めた学者である。当然、生命体にとってもっとも大事な器官が、内臓頭蓋であることを知っていたはずである。

 そして小金井のもとで学び、消化器内科を専攻したのが島峰徹である。小金井は、当時の東大歯科学教室の惨状をなげき、島峰をベルリン大学に派遣した。ドイツの歯科学教室で、本格的なドイツ医学にもとづく歯科学を、島峰に習得させて、口腔医学を復興させたかったからである。

 さて、不信任案を突きつけられた石原だったが、辞めたのは、これを突きつけた七人の教職員全員の方で、石原はやっぱり辞めなかったのである。

 一方、ベルリンに留学した島峰は、ベルリン大学で大きな業績をあげ、学術研究科の主任として、正規の助手に任命された。そして大正13年の第一次世界大戦を契機に、帰国して東大の歯科学教室講師となり、文部省医術開業試験病院歯科部長を経て、文部省歯科病院をつくり、これを発展させて「口腔科医科大学」の創設を目指した。

●二つの国難が壊した「口腔科医科大学」構想

 当時のドイツは、米国の歯科学を導入していた。なぜかというと、米国の技術力が進んでいたからである。しかしこれは、あくまで歯科技工の技術力に対するニーズである。

 というのも、当時のヨーロッパ諸国、フランス、オーストリア、ハンガリー、イタリアにおいては、口腔科医というのは、一般の医学校を終了して医師となってから、口腔科に必要な技術の一つとして歯科学を学ぶものだという認識があったからである。

 米国の歯科学は、今も昔も入れ歯に合わせた処置法を習得するギルドの教程であることに変わりはない。いわば入歯職人であるから、哺乳類の歯の研究や進化学や解剖学を修めたりするわけではなかった。

 島峰は、米国流の歯科学のよいところと、欧州流の口腔科医学のよいところを合体させ、世界でも類をみない「口腔科医科大学」樹立の構想を掲げた。この構想は、二つの国難で挫折することになる。

 一つは、大正11年の関東大震災である。震災後、島峰は「東京高等歯科医学校」という専門学校をすくったが、これは一時的なもので、彼の目標は、あくまで「口腔科医科大学」であった。

 もう一つの国難は、第二次世界大戦である。島峰は、昭和11年にウイーンで開かれた世界歯科医学会でその構想を発表し、多くの称賛を受けたが、終戦の年の昭和20年の2月、志半ばにしてなくなったのである。

 島峰の後を継いだのが長尾優である。

 長尾は、石原久の歯科学教室に入局した東大出身の医師であったが、早くから歯科医になって、銀座で開業しようと心に決めていた。エリオットの一番弟子の小幡英之助が医師免許の第4号で、日本で初めて「歯科」を開業したのが銀座だったので、自分もそうしたいと思った。

 しかし、石原の歯科学教室でのクーデターの失敗で東大をやめ、島峰の文部省歯科病院に拾われていた。

 このような経緯で、島峰の後を継いで学者になったのが長尾である。ところが長尾は手先が器用だったので歯科の分野に向いていた。それで銀座で開業しようと考えていた頃、ペンシルバニア大学を卒業した山形という医者の講演を聴き、ブリッジの制作例を見て衝撃を受けた。当時、世界をリードしていた米国の歯科学の技術と我が国の差に驚き、衝撃を受けたのだ。それでみずからペンシルバニア大学へ留学し、米国流の歯科技術(デンティストリー)を習得したのである。

 こういう人が、島峰の後を継いだのである。その結果、生まれたのが、現在の日本の歯学部である。

 意外なことに、敗戦後、占領軍の歯科医学教育担当官であったレジリー中佐という人は、こうした歯学の流れに反対し、東京大学に二つの学科を統合した「口腔科の医科大学」をつくるようにと指導したが、頑迷に退けたのが長尾だった。これによって、さらに悪い歯学の道を、日本人は歩むことになったのである。

 このような迷妄の中から誕生した日本の歯科大学や、大学医学部の口腔外科教室は、私から見れば、もっともやさしい顎関節症や歯槽膿漏すら、満足に予防することも、治すこともできないのが現状である。

●政策の誤りこそ最大の罪

 現代の日本は、住宅事情にしろ家庭構想にしろ、昔とずいぶん違ってきた。核家族化が浸透し、育児の様式も変化した。昔のお嬢さんには、結婚しても、出産しても、身の回りにしっかりとしたアドバイザーがいたお姑さんと村の先輩、古老たちである。

 しかし今は、広くて2LDKのマンションでの核家族。出産・育児ときても、信頼のおけるアドバイザーがいない。家事につけ、育児につけ、雑誌や本で情報蒐集してみるものの、さて判断する段階にあっては今一つ自信がない。

 日本人は、戦後一貫して欧米流のマイホーム主義を理想として築いてきたつもりだった。しかしここにきて、人類の叡智にもとづく伝承までも忘却してしまおうとしている。

 子育て法は、医学ではない。経験の伝承であり、経験から生み出された知恵である。本来なら、ヘタな産婦人科医に教えを乞うこともなければ、誤った小児科医の言いなりになることもないのである。出産のことは、産婆さん(助産師)が一番よく知っているし、育児のことは、お姑さんが一番よく知っている。

 このようなわけで、戦後の日本の医学が迷走をつづけているうちに、数限りない国民がその犠牲になってきた。

 前述のように、口腔科の歴史をみただけでも、このような惨憺たる状況である。いつも犠牲になるのは何も知らない国民である。もうこうなったら、医者には頼れず、自分の身は自分でまもる術を身につけるしかないのである。

●横暴医療と子育て

 最近、やたらと多いのが「骨髄移植」である。というより、骨髄移植をしたがる大学病院が多いのである。

 この治療法では、一ヶ月に一千万円ほどの費用がかかる。しかし日本では、これが公費で負担される。しかも信じられないことに、国立・私立を問わず、収入の多寡で、病院の各科の長が評価されるのが現代の医学である。

 こうなると、一ヶ月に一千万円の魅力に勝てる医者などめったにいなくなる移植医療の本場はアメリカ。しかしアメリカでは、医療費を公費で負担しない。それは日本の社会主義的な制度とは異なるのである。当然、一ヶ月に一千万円を無条件で払う保険会社などはない。となると、個人で払える人はわずかである。

 すると、お金がない一般の人は、ステロイド療法やもっと簡単で、まともな治療を行うから問題がない。これで治るのなら、それに越したことはない。

 骨髄移植には、致死量に近い放射線の照射が必須の条件であるから、たとえ移植に成功しても、先がない状況である。 

 日本では、児童のころからスポーツを奨励する。野球チームにサッカー・クラブをはじめとして、小さいうちから無謀に身体を鍛えることが尊いこととされている。

 ところが、その子供が成長して社会人となって、その延長線上で、無茶な仕事をしていると、悪性リンパ腫や白血病もどきになるばかりか、本物の白血病になったり、再生不良性貧血や血小板減少症といった血液の病気(免疫病の一種)になったりするのである。 

 こうして日本では、白血病の患者が増える背景ができつつある。実際、屈強なはずの若者が、やたらと白血病治療を受けている。これらの多くは、白血病というよりも、いわゆる「白血病もどき」であるのだが、それでも同じく公費負担、一ヶ月一千万円の制がん剤治療を受けることができるのである。

 今、日本の国は、つぶれる寸前のような状態でにある。国民の身体を本当に真剣に守ろうとする指導者も医学者も、なかなか見当たらないからだ。こうなると、前述のように、自分の身は自分で守るという方向に行かざるを得ない。

 

紹介者からの一言

 今に時代は、真に悲惨な時代のようです。

私の従妹も白血病でした。骨髄移植をするからと言われて、歯を全部抜かれてしまって、でも、骨髄移植をする前に、抗がん剤で亡くなりました。小学校の子供を二人残して逝ってしまいました。もう一人の従妹は膠原病で、ステロイドの副作用で、骨折、口内炎、頻回に顎が外れていました。その従妹も小学校の娘を残したまま、逝ってしまいました。その頃は医学の悲惨をまだ、感じませんでしたが、わが娘がリウマチになったら、医者の出す薬のステロイド、抗がん剤、痛み止めに、恐ろしくなりました。そこで必死に医者に抵抗しました。他に治す方法が絶対に在る筈だと思いました。結局、毎日寝る前の足浴とマッサージがよかったのではないかと思っています。

国民が愚かなのか、儲けたい権力者がいるためなのか、

いつの時代にも悪人というか、私たちの心の中に悪と共鳴共振する心が潜んでいる限り、真の平和がおとずれないようです。

 現在は、地動説、天動説から宇宙の理の思考回路に変わる時期に来ているといいます。善悪の二極化はどうしておきるのでしょうか?手が離れているために起きるようです。それでは、手をみんなでつないで、誰も手を離す人がいない状態を作る、つまり、丸く手をつなげれば、二極化は消えて、無くなります。みんなが言い争いをしないで、仲良くしようとしない限り、新しい時代は訪れないようです。