(9月1日~)


9月は、先ずこのことを、何よりも先に書かなければいけない。それは、大好きであったじいちゃんが亡くなったことだ。あまりにも突然のことで、どうしていいか分からなかったし、信じることもできなかった。早朝の電話、何となく嫌な予感がした。そういった電話は、相手が何かを話す前から、決して良い話ではないことくらいは、理解できる。そして、今回もまたそうであった。誰からも愛されていたじいちゃん、最期は本当にあっけなく逝ってしまった。おれは、じいちゃんにとって良い孫であったのだろうか。でも、おれは、じいちゃんの孫で本当に良かったし、感謝している。そして、じいちゃんの孫であったことを、誇りに思っている。


この月は、じいちゃんのこともあり、家族はすごく落ち込んでいたし、家の中に暗くどんよりとした空気が広がっていて、精神的に辛い場面が多かった。この月ほど、他者の無理解や、世の中の不公平を嘆いた月はないであろう。おれ自身もまた、この月を境に、仕事への情熱の向け方が大きく変わっていった。自分を守るのは、自分でしかない。人間は優しい、けれど、残酷さも持っている。人間は強い、けれど、人間ってすごく弱い。For the teamのためには、どれだけFor myselfになれるかであるかもしれない。つまり、組織に貢献するためには、いかに自分自身の個人のレベルアップができるか。ただ、それが出来ない自分に頭にきた。毎日、言いようもないくらい悔しさが自分自身にぶつけられ、常にイライラしていた。上手くいかないことが続いて、誰かを憎んだりしたこともあった。その矛先は、本当に誰かであったかもしれないし、あるいは自分自身であったのかもしれない。そんな自分が、たまらなく嫌いであった。ただ、どうしていいか分からない日々が続いた。


仕事での悔しい思い、それは仕事でしか返せないと思っている。酒でも飲んで、愚痴を聞いてもらって、それで少しでも楽になれる人は羨ましい。おれは、そんんふうには出来ない。悔しいことを経験したなら、その怒りは仕事にぶつければいい、そんなふうに思っている。それでしか、自分の中で納得できない。生きていれば、絶対に許せないことを言われたりすることもあるのかもしれない。それを感情だけに任せたなら、収拾がつかない局面になってしまうことだろう。プライドがあるなら、そういう状況になるのかもしれないし、あるいはプライドを守りたいから、その状況に持ち込まないのかもしれない。果たして、おれはどっちであったのだろう。この時のおれは、何とも始末の悪い感情が、夏のTシャツのように、べったりと背中に張り付いていて、おれはそれを剥がすことに必死になっていた。


「人の一生は重き荷を負いて遠き道を行くが如し。必ず急ぐべからず。」(徳川家康)


少しずつではあったが、自分自身が落ち着いていくのが分かった。諦めたわけでも、許したわけでもないが、そんな自分でいても、しょうがないと感じていたし、そんな自分に嫌気も差していた。ネガティブからは、何も生まれない。ポジティブに、とにかくポジティブに。それを完璧になんてとても出来ないけれど、そこに少しでも近づくために常に意識する努力はしていきたいと思った。


毎日使うカバンを変えてみた。メガネも毎日、気分によって変えてみた。自分のデスクを整理して、要らないものは全部捨てて、すっきりさせた。いつもと違うルートで帰ってみたりもした。何とか自分のリズムや流れが良い方向にならないものかと、意味がなさそうなことにもチャレンジしてみたりした。そうしたことで、劇的に良い方向へ向かうわけなんてないことは、百も承知。ただ、少しでも新鮮なものに触れることにより、自分の心も何か触れることが出来るのではないかと思った。


9月は、良くない状況が続いた。毎日雨で、台風も来て、、、そういう風な状況であった。ただ、得るものがなかったわけではない。とにかく、どこかに落ちているポジティブを、拾い集めていかなければと思った。