最後のピアノ・ソナタ | しじみなる日常

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ひとつひとつは小さな蜆(しじみ)でも、蜆汁になったときの旨みは格別な幸せをもたらしてくれます。私の蜆汁は「クラシック音楽」。その小さな蜆の幸せを、ひとつひとつここで紹介できたらなあと思っています。

ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ第32番ハ短調op.111

ネルソン・フレイレのピアノで聴きました。

 

正直、30代はほとんど心動かされることのない曲でした。
いま聴くとその理由が分かります。
これは人生をブイブイいわせているときに解る曲ではないのです。若くて、毎日がそれなりに楽しくて、将来に不安を感じることがなくて、ある意味傲慢な時期に解るわけがないのです。

 

アラフィフに片足を踏み入れ、毎年毎年、身体の調子が落ちてきたことを実感し、出来なくなることが増えてきて、そして将来に漠とした不安を感じて、初めて「聴ける」曲(解るとまでは申しません)なのです。少なくとも私にとってはそうです。

 

ベートーヴェンがこの曲を完成させたのは1822年。死の5年前です。第1楽章と第2楽章だけで成っています。なぜ第2楽章で終わらせたのか?それも何となく分かります。

 

第1楽章。これは私には最後の「抵抗」のように感じます。運命に翻弄され、失望を味わい、でもまだ希望はあるのではないかと必死に模索する姿。それでもどこからか「もう、あきらめなさい」とうながす声が聞こえてくる。そんな抗いと非情な応えの音楽。

 

第2楽章の変奏曲は「昇華」でしょうか。ひたすら上を目指して階段を上がっていくような音楽。最初はややためらいながら一歩一歩上がっていく。やがて少しずついろいろなしがらみや苦しみから解放されて、ただただ光指す上を目指して上っていく。

 

この第2楽章を完成させたとき、たぶんベートーヴェンはとても楽しく幸せだったのではないかと思います。ピアノを弾いていると、身体はどんどん軽くなり、心も穏やかになり、長い長い旅路の後、自分が一番望んでいた境地にたどり着いたように感じたのではないでしょうか。

 

曲の最後は本当に穏やかに、静かにそっと終わります。これ以上、何も付け足すことがない、必然の終わりです。

 

フレイレのピアノは慈愛に満ちた、ベートーヴェンの人世にそっと寄り添うような暖かみのある演奏でした。