みなさんこんばんは。

日本全国GWですね。私は大規模旅行は予定していないのですが、ちょこちょこエンジョイする予定です。また日記にしますね~

さて、3月6日に「赤ちゃんの情報は誰のもの?(6)」をアップしてから二ヵ月近く経ってしまいました。

その間に東日本大震災や東電の原発事故があり、助け合う、支え合う、ということについて改めて考えさせられた方も多いのではないでしょうか。

未曾有の大災害が教えてくれたことの一つは、あれほど世界中の人が被災地を救いたい、役に立ちたいと思っていたにも関わらず、人間たちが行える救助活動等はなかなか理想通りには行かず、限界があること。

そして、(巨額の原発の被害補償など)「国が面倒をみるべき」と言うことは、それすなわち「自分が(納税などで)その一部を負担する」ということだということに気づいた方も多かったと思います。


出生前診断と人工妊娠中絶、重症で根本的治療不可能な先天異常を持つ児の積極的治療をすべきか否かという議論をすると、「命はどれも平等」「授かった全ての命に出来る限りの治療を」という意見が必ず出てきます。

金科玉条のように「命は大切」と言う方は、批判されたくない、誤答を避けたい、という気持ちが無きにしも非ずだと思うのですが、どこかに自己矛盾があることが多いです。

生まれてきた赤ちゃんにどんなに重度の先天異常があっても積極的治療をすべき(大手術をしたり、気管切開をして人工呼吸器に繋いだり、沢山のチューブを繋いだり)、と言う人は、100歳の人にも同じことをするべきだと思うでしょうか。同じ100歳でも、自立して頭もはっきりした人と、重い認知症の人では同じだと思うでしょうか。また、悪性腫瘍でターミナルの人についてはどうでしょうか。
「天寿を全うされようとしている人」「悪性腫瘍で不治かつ末期の人」に同じことをすれば、多くの方は「尊厳を損なう」と言うのではないでしょうか。

「命は平等」と言う人でも、年齢だったり、生命予後だったり、理性的で自己意識があるかどうかだったり、どこかで線を引いている人がほとんどだと思います。

周産期医療に携わっていると、小さい体に何本も管を指し、メスを入れて大手術をしたりされる赤ちゃんを診ます。予後は様々ですが、治療を受ける赤ちゃんの苦痛はどれほどだろう、と感じるのは自然なことだと思います。その苦痛の程を測り知る方法は無くても、忘れてはいけないことだと思います。
苦痛を伴う治療は、赤ちゃんのためでなくてはいけません。医療者や親の自己満足であってはいけないということを忘れてはいけないと思います。

また、医療にはお金がかかります。施設や人手という医療資源もです。どちらにも限りがあるのは明らかな事実です。お金は国が負担しろ、医療資源は社会が何とかしろ、という発言は無責任です。一人ひとりが社会の一員なのですから。

お腹が減った人が沢山いて、5つのパンと2匹の魚しかない。奇跡を起こしてくれるキリストは残念ながらいないでしょう。

周産期医療では、いろんな意味で命に線を引かざるを得ないことがあるので(母親と赤ちゃんの両方にとって利益になることばかりではないですし)、現場の人間(妊婦、家族、医療者)は逡巡することも多いです。

でも、本当は現場だけにその判断を委ねられるのは重すぎるし、不適切だと思います。

ミクロ(一症例)な視点だけじゃなく、マクロな視点での議論がなされるべきだと思います。一つの命をを助けることは、他の命を見捨てることになるからです。
(ブログのコメントも、一つの立場からの主張だけでなく、その辺を考慮して書きこんでいただけると幸いです。)

一産婦人科医としては問題を提起することしかできませんが、一人でも多くの方が思考停止せず考えてくださることを望みます。

ちょっと胎児の話からずれてしまっていますが、次回はまた胎児の話に戻したいと思います。




おもろかった。
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