怒り 吉田修一 中央公論新社(2014)
章立てがない。従って目次もない。こういう小説は少し苦手だ。一息つけない気がする。第一章を読み終わったから今日は一杯飲んで寝て、明日は第二章だぁ、という区切りを付けにくい。
しかし読み始めてみれば、とんでもないページターナーだった。帯の惹句に偽りなし、ページをめくる手が止まらない。
他人をどこまで信じることができるか、というテーマである。
人は、素性が解らない人間を愛することができるのかと言い換えてもいい。
物語は惨殺現場で幕を開ける。早い段階で犯人は特定されるも、その後の足取りがつかめない。
房総半島、東京、沖縄。三つの舞台で登場人物はそれぞれ未知の他人と出会い、受け入れてゆく。
房総半島では父と娘が田代と名乗る人物を、東京ではゲイの優馬が直人と名乗る人物を、沖縄では高校生泉が田中と名乗る人物を。
三つの舞台に登場する三人の他人。その中の誰かが殺人犯なのである。
他人を受け入れた三つの舞台の登場人物が、その他人をどれだけ信用できるかという物語だ。
そして殺人犯を追いかける刑事の北見もまた、美香という正体がよくわからない女性と係わっている。刑事と美香が飼っている猫が死ぬ場面では泣いてしまった。
小説だから、三つの舞台にそれぞれの結末があるし、それはそれぞれに救いがある。なければとても読んでいられる小説ではない。
犯人の胸中の詳細が描かれなかったことが少し残念だが、主眼は犯人ではなく、犯人かもしれない他人を受け入れた人々の胸中である。それはこれでもか、というほど描かれる。慟哭。
長く生きていればいるほど、多かれ少なかれ裏切りにも信頼にも出会う。出会ってしまったものは受け入れるしかない。
喜怒哀楽、という。本書は怒という文字をタイトルにしている。
たぶん読者は、喜という小説も楽という小説も読みたがらないだろう。哀だったら読みたがる読者がいるかもしれない。
幸福な人の話より、不幸な人の話を聞きたがるだろうからだ。
手元にトルストイの『アンナ・カレーニナ』がないので正確な引用ができないが、その出だしはこのようなものである。
「幸福な家庭は一様に幸福であるが、不幸な家庭はそれぞれに不幸だ」
つまり何が云いたいのかというと、本書『怒り』で描かれた三つの舞台の物語は、それぞれに不幸である状況から出発したのだ。
あからさまなハッピーエンドではないが、疑うより信じる方が楽なのである。多分。信じるものは救われる場合もあるし、裏切られる場合もある。それぞれなのだ。
でも信じたい。性善説。隣人が悪人であってほしくないという願い。自分は善人であるという思い込み。
漱石は『こころ』でこう云う。鋳型に入れたような悪人はいないと。平生はみんな善人、少なくとも普通の人間なのだと。それが、いざという時に悪人に変わるから恐ろしいのだと。
切羽詰まったとき、人は何をするか解らない。もちろん自分も含めて。
…これ以上書くと書評ではなくなってしまいそうだ。