先日、5年連続となる富士登山に行ってきました。
毎年、同じコースで登っているのですが、相変わらずきついです。
最近、ハーフマラソンや山の中を20キロほど走る大会などに出場するようになりましたが、自分にとって過酷さナンバーワンはやっぱり富士山です。
さすが日本一、3776M(みななろー)のお山です。
今回は一緒に登る予定だった友人が急きょ仕事の関係でいけなくなったため、初の一人登山となりました。
一人ということで道中感じるものがいろいろあったのですが、特に印象に残るものが3つほどありました。
一つ目は、目標を意識しすぎると道のりを楽しめなくなる、ということ。
一人だったため、一緒に道草を食う相手がおらず、頭の中はとにかく登頂すること、ご来光をみることに集中し、気持ちがあせって道中を楽しめなくなっている自分に何度か気づくことがありました。
高山病にならぬようペース配分は考えつつ、だけど渋滞に巻き込まれて山頂に行く前にご来光にならぬように、などと考え、若干焦りの気持ちも生まれていました。
これまでにないほど天候に恵まれ、素晴らしいご来光を山頂でしっかり見たいといった期待感も大きかったように感じます。
先に意識が飛んでしまって、せっかくの富士山の道中を単なる登頂・ご来光(目標)の通過点のようにしてしまっているように感じ、これはよくないなあと思いました。
自分の理想は道のりを楽しみながら、目標に到達すること。
結果も大事だけれども、過程をより大切にしたいと日頃から考えています。
目標を意識しすぎると、現在がおざなりになる可能性がある、(特に自分はその傾向がある)ということをあらためて身をもって感じさせられました。
もっとも、それは前半までの話で、後半はペースも落ちてあれこれ考える余裕もなくなり、自然に目の前の一歩に集中し、また休憩の際は空の星や月(この日は満月)を眺めるなどしていました。
二つ目は、普段のありふれた(ように感じている)日常生活は本当に恵まれている、ということ。
上記のように一人登山でペースがあがっていたためか、20時過ぎから登り始めて今までの最短時間の2時過ぎには山頂についてしまいました。
そこで待っているのが寒さとのたたかい。
夏とはいえ、富士山頂は夜、真冬の寒さ。
汗が冷えるなどして、一層寒さが身にしみます。
こんなとき、普段の生活のなかでは暖房を入れたり、温かいお風呂に入ったりといったことがすぐに手軽に出来てしまいます。
着るものだってたくさんあります。
でも、自然の中ではそうはいきません。
やれる対策を行ったらあとはひたすら耐えるのみ。
ガタガタぶるぶる震えたり、手でからだをさすったりしながらなんとか暖をとっていました。
そして、しばらくして山小屋が開いて、そこで温かいうどんをいただいたときの安堵感、幸福感はすごいものがありました。
お酒を飲んで帰ってきて夜中に自分で家で作って食べるようなうどんとはわけが違います。
これはこれでまた美味しいのですが、いかに日常の生活が恵まれていて、有り難いものかを痛切に感じました。
三つ目は、話し相手がいるかいないかで気持ちはずいぶんと変わる、ということ。
5回目とはいえ、今回も上記の寒さをはじめ、かなりきつい状況が何度かありました。
ただ、一人のため、誰かに話をするということが出来ません。
これまでなら、「寒いなあ」「きついなあ」なんて言い合いながら、一息ついて気を取り直し、また登ってく、というのが自然の流れのなかで出来ていたように感じます。
それが一人だと、すべて自己処理、自己完結していかないといけません。
もちろん、最終的には自分でやるべきものは誰かに代わりにやってもらうようなことはできませんが、一人だけで何かを抱えているのと、誰かと共有しているのとでは心理状態は変化してくるように感じます。
一人だと、ストイックになったり、深刻になったりしがちなことも誰かと一緒だと客観的視点が出て、そこに遊び心やユーモアみたいなものも入って、余裕が生まれてくるような気がします。
つらいときや、きついときに誰かとただ声をかけ合ったり、話をしたりする・・・。
ただ、それだけのことで、ずいぶんと気持ちは変わってくるものだよなあと、一人登山中にあらためて感じました。
何かあったときはもちろん、何もないときでも、ちょこっと気楽に話がし合える相手をつくっておくことは登山にも人生を歩むにも有効だろうなあ、と感じた一日でした。
今回も素晴らしい体験と気づきを与えてくれた富士山に感謝です。